見出し画像

授業の型とどう付き合うか?

 先日とある本のオンライン読書会で、授業の「型」とどう付き合うか?という話題になった。私自身「型」というものにあんまり良いイメージを持っていないし、できれば型にハマりたくはないと思っている立場だ。でも、自分がハマりたくない型とは一体どんなものなのか?またそういう型とどう付き合うかについて、自分の考えをまとめておきたい。

はじめてハマった型


 授業にはいろんな型が存在する。私が教員になって初めてハマった型は、TOSS(Teachers' Organization of Skill Sharing/教育技術法則化運動)だった。初任者として着任した中学校で理科の先輩教員に薦められた本が、「黄金の三日間で一年間を成功させる」という本だった。(ちなみに余談だが、同時に渡されたもう一冊は「孫子の兵法」だった。そしてちなみにそれは読まなかった。)
 入学式から3日間で落ち着いて学習するクラスをつくるために、教師が何をするべきか。そのために必要な具体的な指示と方法が、四角い枠の中に強調されて明示してある。当時いきなり中学1年の担任を任され、入学式までに何を準備したらいいか分からず不安だった私にとって、その本は本当に助けになった。これなら自分でもやれそうな気がした。しかも、そこに書かれた指示は自分でもびっくりするほど生徒に伝わり、明らかに生徒の行動が変容する。気持ちいいくらいに結果が即時に現れる。そういう経験を通して、TOSSの魅力に3日間であっという間にハマっていった。

そのとおりにやればうまくいく、という快感

 黄金の3日間にハマったあとは、TOSSランドという実践集のようなサイトで理科の授業のネタを探し、おもしろそうなのを見つけてはやってみる、というのを繰り返した。これもたいてい生徒に好評だった。生徒の反応がよかったのもTOSSにハマった大きな原因でもあるが、今思えば「そのとおりにやれば、そのとおりの結果が出るという現象に対して感じる気持ちの良さ」もハマった原因として挙げられる。それはまるで、理科の実験で仮説を立てて実験したら、見事に仮説通りの結果が出た!というときに感じる快感に近いものがある。さらに、これがうまくいったから次はこれ、その次はこれ!と選んで追試してみる楽しさがある。
 そして、型どおりにうまくいく快感を、他の誰かにも共有したいと思うようになる。クラス経営で悩む同期や、これから教員を目指す後輩にも、ぜひこの法則を試してみてみてほしい。そんな思いでTOSSの本を薦めていた。

だれがやってもうまくいく型

 TOSSは教育の法則化というくらいだから、誰がやっても同等の教育効果が得られるような、実践の標準化を求めているといえる。そして、誰がやってもうまくいくものこそが優れた実践として評価される。その再現可能性を求める方向性自体に異論はないし、実際に初任の時の私は型に大いに助けられ、救われた。これは紛れもない事実だ。
 しかし、だれがやってもうまくいく型に私自身が固執しすぎるあまり、その型を適用すること自体の正否を問わなくなったり、その型に無理矢理はめようとしたり、さらにはうまくいかなった原因を型以外に求めようとしたりすることがある。当然ながら私も、TOSSの追試がうまくいかなければ、何か再現できていないことがあるのでは?と型に当てはめることを目的化して考えたり、またある時には生徒が悪いからうまくいかないんだ、と思考を停止させた。だれがやってもうまくいく型にすがり続けるという事は、裏を返せば私でなくてもうまくいくはずという様な、自らを交換可能な存在に置き換えようとすることと同じなのでは、と思う。

型をつくるプロセスは型破り?

 と、ここまで書きながら、型にハマる以前の、その型がつくられるプロセスにふと思い馳せた。すると実は、型をつくるプロセスってものすごく型破りで、クリエイティブな行為なんじゃないかと思えてくる。
 例えば先述したTOSSでいえば、誰かがつくった型を追試することも活動としては大事だが、同時に全国のメンバーが型のつくり手として、オリジナルの型を考案して発信することも活動の軸として据えられている。言わばボトムアップで型をつくる行為だ。
 そういえば、私がTOSSから離れていったのは、理科で新しく導入される単元の実験教材を開発するのがきっかけだった。そこから授業を自分でつくることの楽しさに気づいていったのかもしれない。思えば、今私がやっている「科学者の時間」の実践だって、大きな意味では新しい型をつくっている、と言えなくもない。内容や方法のどこまでを制御するかは型によって異なるし、その目的は千差万別だ。中には「何でこんなことまでさせなきゃならないの?」思うような型だってある。しかし、少なくともこれまでにはない型を自分でつくろうとする行為自体に、私自身が授業のつくり手なんだという気概を感じることはできる。

上から降ってくる型

 ボトムアップでつくられる型よりも、逆に上から、トップダウンで降ってくる型で現場は溢れかえっている。たいていの場合、上から降ってくる型は先述した通り「その型を適用すること自体の正否を問わなくなったり、その型に無理矢理はめようとしたり、さらにはうまくいかなった原因を型以外に求めようとしたり」してしまうことが多い。
 例えば、最近も根強く残る「〇〇授業スタンダード」と呼ばれるような型だ。上から降ってきたスタンダードの正否は問わない。とにかく生徒にスタンダードを守らせることに躍起になり、できない原因をスタンダードではなく生徒に求めてしまう。そして皮肉にも、スタンダードにハメようとする教員よりも、スタンダードをつくって広めようとした人たちの方がよっぽどつくり手なのだ。そう考えると、創作意欲に溢れた型のつくり手たちが、矢継ぎ早に多くの型をつくって降らせる様子が容易に想像できる。

型は自分でつくって、変えられる


 すこし話が逸れてしまった。では学校教育の型とどう付き合うか。まず私自身が自覚しておくべきことは、型は自分でつくることができるということだ。なにも型をつくって標準化して、誰がやってもうまくいく型を目指す必要はないと私は思う。自分から生み出そうとしなくても、誰かがつくった型を自分でやってみた時点で、それは自分の型をつくろうとしているプロセスに他ならない。そして、型にハマる安心感や気持ち良さを感じながらも、既存の型に固執しないようにするためには、うまくいったことや、いかなかったことも含めて自分で言葉にしておく必要がありそうだ。
 さらに、自分でつくった型は自分で変えられる。うまくいかなかった原因を既存の型を作った人に求めると、「それはあなたが型どおりにやらないからダメなんだ」とバッサリ言われるかもしれない。そのアドバイスは、誰かが私を既存の型に当てはめようとして、自分がつくり手であることを忘れさせてしまう言葉だ。うまくいかなかったところに、自分なりの型につくり変えるヒントが隠されている。
 ただし、自分一人で型と向き合い続けるのはしんどい。どうしても仲間が必要だ。しかもその仲間は、できるだけ多様な型と向き合っている人がいい。うまくいったことや、いかなかったことも含めて言葉にしたものを仲間と共有する。すると誰かによって、うまくいかないという自分の思考自体が型に固執していることに気付かされることがある。型通りにならないこと→うまくいってない、という様な。そういう仲間をつくることも、自分がつくり手になるためには大切なことだ。

自分が授業のつくり手になる

 とはいえ、ここまで既存の型や上から降ってくる型に批判的な話をしてきたが、型のなかには、自分をつくり手にする型が存在するのも確かだ。どんな型にハマるはまらないはさておき、自分が授業のつくり手としてそこに立っているか。そういうことを意識しながら、型と向き合っていく必要があると私は思う。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?