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学びの「個別最適化」は最適か?

 コロナ禍で加速したGIGAスクールの隆盛によって、学びの「個別最適化」という言葉がどっと教育現場に押し寄せてきた。その言葉の出所を探ると、平成 30年の文部科学省が行った『Society 5.0 に向けた人材育成に係る大臣懇談会  新たな時代を豊かに生きる力の育成に関する省内タスクフォース』にある。その資料では、「公正に個別最適化された学び」を実現するために、ビッグデータやAIを活用し、一人ひとりの学びの興味やペースに合ったオーダーメイドな学びを提供する必要性が書かれている。https://www.mext.go.jp/component/a_menu/other/detail/__icsFiles/afieldfile/2018/06/06/1405844_002.pdf

「個別最適化」という言葉について、少し考えてみたい。

そもそも「最適化」とは

 「個別最適化」という言葉を聞いたとき、「最適化」って何となくニュアンスは伝わってくるものの、あまり聞き馴染みの無い言葉だなあと私は思った。そこで「最適化」で検索すると、数学やコンピューター、プログラミングの文脈で使われている言葉らしい。コンピューターのプログラムが効率よく作業できるように、ハードディスクを整理することを「最適化(Optimization)」と呼んでいる。
他にも製造物のコストパフォーマンスを最大化するために製造プロセスを見直すことを「最適化」と呼ぶこともあるらしい。
 理想的なゴールに応じてプロセスを見直し、なるべく効率的に、最短距離でゴールに辿り着けるような道筋をつくる。「最適化」にはそういう意味合いが込められている。

人を「何」かに置き換えるメタファー

 「最適化」という言葉は、教育とは少し離れた文脈から持ってきた言葉である。おそらく、ビッグデータやAIを教育に活用しようという流れで「生徒の学びを最適化する」という言い回しになったのだろう。人の学びをコンピュータのプログラムに例え、何かを学ぶという目的に応じて、教育というプログラムをその人に合うように「最適化」する。一聴すれば何の引っかかりもなく受け入れられるし、それが理想だと言われれば納得しそうだ。
 これまで教育は、人を「何」かに置き換えて、別の言葉に置き換えることを度々繰り返してきた。
 
 内田樹さんのブログある「教育と産業のメタファー」という記事では、これまでの教育が、人間そのものと人の成長のメタファーを、農業→工業→金融という産業の変化とともに言葉を置き換えてきた変遷が書かれている。

 例えば、農業が基幹産業であるときには、人を植物の成長になぞらえ、「めばえ」や「わかば」という言葉が学級通信のタイトルになっていた。植物の成長も人の成長も、どちらもよく育つ条件はいくつかあれど、『子どもの生育過程を完全に統御することはできない』という共通了解がどこかにあった。
 しばらくすると、農業から工業への基幹産業のシフトチェンジによって、工業のメタファーが用いられるようになってくる。内田さんは「シラバス」や「質の保証」という言葉は、人を何かの工業製品のようにとらえ、『工場で工業製品を製造するような仕方で教育過程全体が制度設計されるようになった』という。
 そして今『今度は金融のワーディングで教育が語られるようになった』ことを、「ポートフォリオ」という言葉によって『子ども自身が自分が受ける教育過程をコントロールして、自分の労働市場における価値を自分でかたちづくるべきだという話になってきた』と分析する。(追記→と、内田さんは言っているが、教育では学びを振り返り蓄積する自己表現としてのポートフォリオのあり方が模索されている。それが労働市場の価値向上と直接的につながるのかは疑問だ。しかし、「学びのレバレッジポイントを探る」とか、投資や投機の言葉が使われているのは、内田さんの指摘の通りだろう。)

言葉が人や人の成長を規定する

 そして「個別最適化」である。
 人はコンピューターのような学習機能付き装置だ。その装置にはある一定の学習のアルゴリズムが存在する。アルゴリズムを解析し、「個別最適化」されたプログラムを経験させることによって、その人の学びの目的達成のスキームは効率的に最大化され、人としてのアップデートにつながる。
 …こんな風に書くと、意外と違和感なく意味が通ってしまう。人をコンピューターのような考える装置として捉え、教育が一般化されたプログラム、あるいはソフトウェア商品であるというメタファーは、教育を語る言語としてもう十分に機能しつつある。(余談だが、「アップデート」という言葉も成長ありきの人間性を強烈に規定する言葉として相当気をつけるべきだと思っている)
 こうなってくると、人や人の成長といった捉えどころのないものを、便宜上メタファーに頼って言葉にしていたのに、逆にメタファーが人を規定することになっているのではないか。
 もちろん、「個別最適化」という言葉には、これまでの一斉指導に対する批判や、インクルーシブ教育に根ざした考え方も内包されている。しかし、別の文脈から持ってきた言葉は、その言葉が本来使われていた文脈を色濃く反映してしまうことは否めない。

『ラーメン一蘭』化する個別最適化

 以前、私も授業でAIドリルを生徒にやらせてみたことがある。生徒の学習状況に応じた問題が出され、生徒は次々と出される課題を黙々とこなしていく。私の端末には生徒の学習状況がログとして記録され、誰がどこでつまづいているのかが分かる。生徒の反応も「分かりやすい」と上々だった。
 生徒全員が黙々と、それぞれの端末に向かってそれぞれの問題を解く。それを見て私が思い出したのは、「ラーメン一蘭」の店内で、仕切りで隔たれた席で黙々とラーメンをすする光景だった。
 同じような光景は、「jamboardを使って意見を出し合いましょう」とか、「自由進度で算数を学習しましょう」という様な教室でもよく見られる。個別に最適化された課題を、ひたすらやるだけ。
 もちろん断っておくが、「ラーメン一蘭」は目の前のラーメンをしっかり味わって食べてほしいという願いが込められている(と思う)から、何ら悪いことはない(ラーメンも美味しい)。ただ、例えば「隣の人が食べているラーメンうまそう!何ラーメンだ?」と考えたり、「あの人あんなに胡椒かけてる!俺もやってみよう」とか、「半分ずつシェアしない?」とか。オープンな店内だったら普通に起きているような出来事が、個別最適化された(らしい)教室では起きていないということだ。

 実際アメリカでは10年前から、「ラーメン一蘭」の店内のように、個別のブースで個別最適化された学びを推し進める学校が生まれている。そこには端末で学習する生徒と、それを時給15ドルのパートタイムで見守る教師がいるらしい。(その後、この学校は閉校している。)


「個別最適化」は最適か?

 先に紹介した内田さんの記事は、「あらゆる人間的活動をもう一度農業の比喩で語り直すこと」が大事だと締め括られている。あのルソーも、エミールで「植物は栽培によって作られ、人間は教育によって作られる」と言った。
 ただ私が思うのは、人や人の成長は、何かに例えなければ言葉にできないくらい捉えどころのないものだ、ということだ。人は植物でも、工業製品でも、コンピューターでもない。教育は、人について語る言葉を、ちゃんと人からつくって編み直す必要があるのではないか。
 「個別最適化」された学びをいくら標榜したところで、それが本当に最適かなど、誰にも分かるはずがない。

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