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中央構造線の上で考えたこと。

11月3-4日、本当に久しぶりに一人で何も予定のない土日でした。
自分の興味に従ってプラプラしながら考えたことがずっと頭を巡っているので、ちょっとここで吐き出しときます。
3-4日の旅の行程についてはFacebookに譲って、ちょっと考えたことなど。

長野県大鹿村へ向かう

3日(土)は割と疲れていて、遅めの起床。
なんの予定も立っていませんでしたが、久しぶりに趣味である地形地質に触れたいと思い、中央構造線上に位置する大鹿村へ行こうと決意。

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大鹿村は上の地図で赤く囲まれた箇所。
日本を横切る大断層である中央構造線のまさに真上にあるのが分かります。この中央構造線沿いに通っている国道152号線が秋葉街道です。浜松にある秋葉神社へ参詣する道として、また信州への塩の道として、先史にも遡って往来があったという道だそうです。

大鹿村内には中央構造線の様子がわかるような地形が露頭していたり、中央構造線博物館というマジで激烈マニアックな博物館(個人的には戸隠の地質化石博物館が長野県内2大マニアック博物館)があったりと、地形地質マニアにとっては聖地のような場所なのです。

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見よ、このワクワク感を!!

高遠〜秋葉街道を南下(ちょっと旅記)

さて、塩尻を出発して伊那経由で高遠へ。とりあえず蕎麦を食います。

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「華留運(ケルン)」は高遠でお気に入りのお店。南アルプス北部の遭難対策協議会の方がされており、店内には山の写真やピッケルや遭対協の腕章があったりと、山の香りが漂っていてたまりません。
焼き味噌をおろしつゆに溶かしたものと、くるみつゆにつけていただきます。新そばの時期ということもあり、蕎麦が美味しいです。

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蕎麦を食して秋葉街道を南下。
季節は秋、カラマツやモミジが美しく紅葉している中、南アルプスの入り口である戸谷口を通り過ぎ、パワースポットとして知られるゼロ磁場の分杭峠を越して、いよいよ大鹿村へ入ります。

北川露頭で中央構造線と出会う

大鹿村に入って、一番最初に出会うのが北川露頭。大辞林第3版によると、以下の記載になります。

ろとう【露頭】
① 鉱脈や石炭層などが地表に露出している部分。硫化鉱床の露頭は「焼け」と呼ばれる。ゴッサン。
② 岩石・地層などが自然的・人為的に地表に露出している部分。また、その状態。露出。

ここでいう「露頭」は②の部分、要するに中央構造線の地形が、地表に露出しているということです。

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この写真が露頭部分。左の赤いというか黄土色部分が花崗岩、右の灰色っぽいのが結晶片岩で形成されており、その間が中央構造線となっているわけです。日本列島の多くはユーラシア大陸から分離して形成されたわけですが、この中央構造線は大陸だった時代からでき始めました。
・・・悠久の時を経てここに露頭している、ロマンを感じますよね!!

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河原にあった岩石も結晶片岩っぽい感じが出ていて、垂涎ものです。

北川露頭で見つけたもの(地形以外で)

一通り一人でウヒョウヒョして駐車場に戻る途中、とある風景が目につきました。

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一見なんの変哲も無い風景ですが、手前や奥に転がっている石、これ明らかに石垣なんですよね。自然の産物じゃなくて、人工的に意図を持って積み上げられた石垣と、不自然な段々になった平地。
今でこそ針葉樹が茂ってますが、恐らく昔はここになんらかの建造物があった筈です。

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と思ってその辺りを散策してみたら、かまどの痕跡らしきものを発見!
今でこそ長谷周辺から大鹿村まで道のみの秋葉街道ですが、参詣や交易で人の往来があった時期、街道のそこかしこに旅人が泊まったり休憩できる集落があって、そこには人の営みが根付いていたのでしょう。

これと同じ光景を、四国でも見たことがあります。
八十八ケ所巡りの道を車で走っている途中、林の奥に石垣を見つけて。昔に人の往来が多かった時期に、何らかの形で営みが行われていたんだなーと。

そして、ここで営みが行われていたのはそんなに遠い昔じゃないと思うのです。100年も経っていないんじゃないかな、分からないけど。生えている針葉樹もそんなに大きくないし。

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近くにも庚申講や馬頭観音の石碑がありました。こちらも信州の街道沿いによく見られますね。

社会の変化について考えてみる

この100年は、戦争の影響を除いては人口は増加していく一方でした。人口が増えているのに、何故になくなる集落が存在したのか。
それは恐らく、人々の移動手段の変化が最も大きな影響でしょう。モータリゼーション、即ち自動車の普及により移動時間が高速化し街道の集落にいちいち留まる必要性がなくなったり、道路整備により街道を通る必要性がなくなったりした。結果、人々に立ち寄られなくなった集落はそこに居続ける必要もなく、無くなっていくと。

↓これも、街道筋にあった寺の跡ですね。

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さて、翻って現代はというと。

人口は2008年より減少を始めてますね。継続的な減少は有史以来の出来事であり、少子高齢化はますます進んでいて、今の減少はその一端でしかないです。
また、テクノロジーの変化はモータリゼーションよりもっと加速的に、そして多様な範囲で進むはずです。ブロックチェーン、AI、IoT、Fintech、シェアリングエコノミー、それらは単なる移動手段以上に、人の生活とか経済とか、社会のシステムとか、そして人々の行動を変えていくことでしょう。

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人口という意味では、総務省が出しているこんな資料もありますね(全ページはこちらから)。私が住んでいる塩尻市も2040年には2015年との人口比がMAX▲20%になると記載されてます。

多分、北川露頭の光景って、どんどん増えていきます。テクノロジーの変化に加えて、前回と異なって人口まで減少してるのですから。結構確実に、避けがたい未来なのかなと。
そしてあのような光景を目にすると「ああ、減っていく人口をどうにかしないと、こういう場所が増えていくのかな」「では、どうやって人口を増やすか、維持するか」って考えちゃいます、もちろん私も。でも、たぶん北川露頭の現象から垣間見えることって、それだけじゃないのではないでしょうか。人口減少の▲20%をどこまで食い止められるのか、という以上のことが待ち受けている気がするんです。

地域について考えなくてはいけないことって、人口の増減とかは勿論として、テクノロジーの変化が、社会や人の行動にどのような変化をもたらすのか。そしてそれは、自分が住んでいる地域にどうやって活用、応用できるのか。自分のまちはどのような姿になっていくのか。そういう視点も必要な筈なんです。
それを見据えて地域のことを考えないと、いくら人口を増やそうと思っても、実際に人口が増えても、北川露頭のような光景になる可能性がどこにだって満ちているんです。それを予測した上で迎えるのか、予測せずに迎えるのか。その2つは大きく違ってくると思います。

北川露頭の光景から、考えなければいけない視点を、一つ気づかされたように感じます。大鹿村へ進む道中、そんなことがずーっと頭をぐるぐる回ってました。

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まとまらない、まとめ

つい最近、塩尻未来モデル都市構想(仮)的な活動を始動しました。
変化するテクノロジーがどう地域に影響するのか、活用できるのか。それを各テクノロジーごとに車座で勉強会をしながら、実際に実装してみる。

個人的には最初は「社会に変化をもたらすテクノロジーを学ばねばならないし、単純に興味がある」という動機からスタートしました。
今回、北川露頭を見て、何故この活動をしなくてはならないのか、すごく腹落ちした気がしました。・・・まだうまく言語化できていないので、もう少し牛のように反芻して咀嚼しますが。。。

書いててふと浮かんできたので、私が敬愛してやまない梨木香歩の小説中の言葉を引用して、まとまらない中でまとめてみます。

ーしかるべき順行というものがあっても、それがそうなるようにもっていくのは骨が折れる仕事なのだ。衰えていくものは無理なく衰えていかせねばならぬ。
                       『冬虫夏草』百日草より

待ち構える未来が「衰えていくもの」にならぬよう。

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