心の針
先日、両親が買い物に出かけている間にどういう風が吹いたのか、私は年末ということもあり、初めて一人で仏壇を掃除した。
今年は戦死した大伯父の短かかった生涯を調べ尽くせるところまで調べ尽くして、一冊の本にしたことも手伝って、より大伯父が私の身近な存在になったせいかもしれない。
それに付随するように大伯父の両親(私にとっては曾祖父母)、その先祖代々にまで慈しみと言っては大袈裟だが、位牌を手にしては学校の先生が生徒の出欠を取るように戒名を読み上げたりして、布できれいに拭きながら何となく私が今、こうして生きていることの不思議を感じたのだった。
写真で顔を知っている先祖もいれば、写真がなくどんな顔か想像もつかない先祖もいる。先祖も様々である。
一体どんな人々だったのか、気の遠くなる遥か昔に思いを馳せながら仏壇を掃除するひと時が、またひとつ、我が心の安寧を見つけたような気がした。
私は墓参りというものはしたいと思わず、ここ何年も改まった墓参りというものをしていない。
親友の墓参りでさえ、一度行った切りである。 それは決して薄情なことだとは思っていない。
どんなに月日が流れても、墓参りに行かなくても私は彼らの存在を忘れたことなど、一度たりともないからである。
普段なら「言葉より行動」だが、それは生きている人に対してであり、仏さん相手ではないのである。
行動より心の中でずっと思っている方が、墓石の下でカタカタ震えながら眠るよりは、私の心の中でぬくぬくと眠る方が仏さんにとっては居心地が良いのではないだろうか。
そもそも我が家の墓には祖父と伯父、実質二人の遺骨しか納骨されていない。戦死した大伯父はフィリピンのルソン島のどこかで、今も共に倒れた戦友 たちと一緒に眠っているだろうし、先祖代々の骨は 土葬だったからもうとうに土に還ってしまって、墓を建てた際にはもう何も残っていなかった。
気休めにその土を掬って、墓を建てる時に納めたと伝え聞く。
墓はその人が確かにこの世に生を受け、長さはまちまちだが人として人生を全うして天に帰った証、記念碑のようなものであるのかもしれない。
少なくとも私の中ではそんな認識だから、これからも仏さん達には心の中でぬくぬくと、万が一、私が彼らを忘れかけた時には時々、一寸法師のように針でチクリと胸を突っつき、思い出させてくれるだろうと思っている。
2023年12月26日 書き下ろし
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