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松井須磨子の微笑

 先日、私は伝説の女優・松井須磨子がカメラに向かって満面の笑みを浮かべ、お茶目な顔をして笑っている写真を偶然目にした。
 今から一十一年前の大正二年十月号として発売された「ニコニコ」という雑誌の第三十二号に掲載されていた、五枚の松井須磨子の写真である。

 松井須磨子といえば、日本の演劇界の黎明期に女優という職業が確立されていなかった時代に活躍した女優である。古くから数えれば川上貞奴に続いて二人目の女優とも言われている。

 もう今では誰も直にその姿を見た者はいないが、数十年前には明治生まれの女優で、晩年おばあちゃん女優として人気を得た浦辺粂子や、戦時中、自由な演劇活動を求めて恋人の演出家であった杉本良吉と旧ソ連へ亡命した悲劇の女優・岡田嘉子、文学座の看板女優だった今は亡き杉村春子も、幼少期にその須磨子の実演を観たことのある一人であった。

 現代人が松井須磨子という名前を聞いてすぐに思い浮かべることは、大方想像がつく。
 一つは、一緒に旗揚げした劇団「芸術座」の演出家で愛人関係にあった島村抱月が、一九一八年に大流行したスペイン風邪で急逝したことに絶望し、翌年の一九一九年の年明け早々、首を吊って後追い自殺をしたこと。もう一つは、トルストイ原作の「復活」でカチューシャ役を演じた際に歌った「復活唱歌〜カチューシャの歌〜」や、~いのち短し恋せよ乙女~から始まる「ゴンドラの歌」を歌った女優ということだろう。

 私も松井須磨子の激しく、そして激情的なそのドラマチックな人物像に酷く胸を鷲掴みにされ、以降、様々な須磨子に関する文献を読み漁ったものだった。だが、どの文献に掲載されている須磨子の写真を見ても、舞台で熱演しているであろう須磨子の演技中の姿を捉えた写真か、もしくは雑誌に掲載するために撮影された、どこか気難しく気の強い、澄ました顔をした時代の先端を行く「女優然」とした須磨子というのが相場だった。しかし、翌々考えてみると、須磨子は三十二歳の若さで世を去っている。その須磨子が女優として世間からあらゆる意味で注目を集めるようになったのは、まだ年若い二十代前半の頃のことだった。

 一〇〇年以上前の二十代の女優と、現代の二十代の女優を比較することすら間違いのような気がしないでもないが、私はその須磨子の笑顔を見て、須磨子に対するイメージが激変した。
 写真に写る須磨子はかわいらしい現代の若い駆け出しの女優が、時代劇出演のため髪を結っている、そんな風にしか見えない、至って普通の若手女優に見えた。本当にこの写真に写る女性は、私が今まで目にして来たあの松井須磨子なのかと、思わず目を疑った。そんな須磨子が、こんなにもドラマチックな生涯を送り、後々の世まで人々に語り継がれる存在になろうとは、誰も思いつかなかったのではないだろうか。

 日本初の歌う女優第一号となった須磨子は、その生涯で六枚のレコードを残している。歌う女優として世間に認知された須磨子の人気を裏付ける、そのレコードに残された須磨子の声が本当に須磨子の声かと私は疑ってしまうのである。もちろん、クレジットには松井須磨子と名前が記されているから間違いないのだが、一〇〇年前、須磨子の声を実際に聴いた人はもういない。私たちが今聴くことのできる須磨子の声は、誰も本当の須磨子の声だと断言できる人間がいないのである。
 現代ならば様々な形で、その声も複数録音されて聴き比べることができる。従って、間違いないと確信を持って断言できるのだが、一〇〇年前の録音となればそうはいかない。

 数年前、須磨子の歌ではなく台詞を録音したレコードをYouTubeで聴いたことがある。その声は、とても二十代とは思えない落ち着き払った、悪く言えば年増女の老けた声だった。それでも私は、それまで見てきた須磨子の写真からして、きっと、こういう声だったのだろうと疑いもせず聴くことができたのだが、このニコニコした須磨子のその年齢らしい、お茶目でかわいい微笑みを見てしまってからは、須磨子の声がその顔と一致しなくなってしまった。

 昨年末、私は須磨子の名前をニュースで見かけた。没後一〇四年が経過した女優の名を、このスマートフォンの中のニュースで目にする日が来るとは思わなかったが、そのニュースは一般社団法人「松井須磨子協会」(こんな協会があったことも初めて知った)代表理事の堀川健仁(けんと)さんという方が、須磨子を顕彰する記念館の設立を構想しているというものだった。もし、この記念館が建立されたとしたら、須磨子の女優としての生きた証は全てここでつまびらかにされることと思うが、この堀川さんは、私が見た須磨子の笑顔をご存知なのだろうかと、ふと考えずにはいられなかった。なぜなら、あの須磨子の笑顔を見たら、それまで抱いていた須磨子のイメージというものが、良い意味で大きく覆されることは間違いないからである。
 あの笑顔で須磨子に微笑まれた島村抱月は、妻子がありながらも須磨子に心を奪われる結果になってしまった。それは仕方がなかったのだと思えてしまう。それ程、笑顔の松井須磨子はかわいかったのである。

 現代に語り継がれる女優・松井須磨子はケチで神経質で、癇癪持ちで怒りっぽく気性の激しい自己中心的な女だったというのが相場だが、それは世に出回っている、澄まして気取った女優然とした須磨子の写真も一因のひとつのような気がしてならない。一〇〇年かけて作り上げられてしまったイメージは、言葉だけではそう簡単に覆されるものではない。須磨子の若い年相応の笑顔を捉えた写真が現代に広く世に知られていたら、人々はきっと須磨子に親しみを覚えたに違いないと私は思った。

 一〇五年前、もしもスペイン風邪が大流行しなかったら、大流行していても島村抱月が死ななかったら、須磨子も大正時代を生き延び、昭和時代に足を踏み入れて、芝居を続けていたかもしれない。ひょっとしたら、その頃、時を同じくして発達し始めた映画にも出演していたかもしれない。もしそうであったなら、日本の演劇界、女優という職業は大きく変わっていた筈である。松井須磨子記念館の建立が実現したら、没後一〇五年の時を経て、語り継がれることのなかった松井須磨子の新たな一面が、後世に「正しく」伝えられていくことになりそうである。


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