やさしさとは何か
四、五年前の事だったか、外で鳥の鳴き声がしていた。 その鳥の正体はツバメである。
ご近所の家に、ツバメが巣を作りに来て親鳥が卵を産み、雛が返ったらしい。そこのお宅の前を通る度に、私は不審者と思われはしないかとドキドキしながら少し背伸びをして、高い高い場所に作られたツバメの巣を眺めるのだが、雛たちはじっとしていてくちばしだけが妙に大きく巣からはみ出して見えた。
いつだったか随分前のことだが、一羽だけ白いツバメの雛を見たことがあった。その時、写した写真も探せばどこかにあるのだろうが、今考えるとあのツバメはアルビノ』だったのか。それはそれは本当に真っ白な、平和式典で空に放たれる時の鳩のようなツバメだったのを覚えている。
もう一つ、ツバメで思い出すのが、我が家のベランダに落ちていた、生まれたばかりの正真正銘のツバメの雛である。
やはり、この時期のことだった。
ベランダで育てていた花に水をやろうと、私はベランダに出た。最初は全く気がつかなかったのだが、耳を澄ませば『チーチー』 と鳴く声がする。
何とはなしにベランダを見渡したら、何とホタルイカ程の大きさの、まだ毛どころか皮が薄く、向こうが透けて見えるような、赤むくれの生まれたての雛が炎天下の下、目も見えていない状態の中、暑さに耐えて必死に生きていた。
私はこの雛はきっとカラスか何かに拐われて、その途中で我が家のベランダに何かしらのアクシデントで落とされて行ったのだと、すぐに分かった。
ここまで小さい雛だと、私のような素人ではどうにもこうにも手出しが出来ないと分かってはいたが、かと言ってそのままこの炎天下に放っておく訳にはいかず、私は手にしたらどうにかなってしまいそうな程小さな小さな雛を、やさしく慎重に保護した。その雛は「チーチー」 と、か細い声で生きていることを精一杯、私に訴えかけているようで、私はとにかくこの雛を何とかしなければと思った。
私は親鳥でもないので餌を捕って来てやることも出来なければ、その身を護ってやることも出来ない。とにかく、人間も鳥も水は大事だと思い、砂糖水を作ってそれをティッシュペーパーに湿らせて、雛のくちばしに運んでやると、雛は私の声をする方を向いて、その大きな口を開けてくれた。
しかし、私にはそれ以上のことは出来ず、一晩雛を枕元に置いて、時間を見ては砂糖水を湿らせたティッシュペーパーを雛のくちばしに当てて、水分を補給させたのだった。
夜中、余りに静かだと生きているのか心配になり、私が「チー」と小さな声で雛に囁くと、雛もそれに反応して「チーチー」と小さく鳴いたのだった。
しかし、もう私には限界だった。
ろくすっぽ眠れず一夜を明かしたのだったが、雛はまだ何とか生きていた。
私はインターネットで自然動物保護施設のような、何かこういう雛を受け入れてくれる所がないか調べてみた。すると、一箇所だけ引き受けてくれる所を見つけたが、我が家から車で二時間半かかるかなり遠方にその施設はあった。
私は車の運転はしないので、父に頼んで一緒に雛を抱えてその施設へと向かったのだった。道中、雛が大きく揺れたりしないよう、私はやさしく雛の入った小箱を二時間半ずっと持ち続けた。
この道中、もしかしたら最悪の場合、雛は力尽きてしまうかもしれない危険はあったが、とにかく私はその施設へ向かった。二時間半程して、随分と山の中にあるその施設に辿り着いた。
雛は私の呼びかけに「チーチー」と相変わらずか細い声で鳴いて答えてくれた。私は間に合ったと喜んだ。これでこの雛は何とかなると、そう思ったのである。
施設の人に事情を説明して、雛を引き取ってもらい私と父は家路についた。私と父は、その行きも帰りもツバメの雛の話をしたり、初めて行き来する場所の町並について話したりと、もうその年に父子が話す話はし尽くしたのではないかと思うくらい、珍しく親子らしい会話をしたのだった。
家へ帰ると急を要する状態の中、片道二時間半の長い道のりを往復したせいか、いや、それ以上に何とか雛を無事に施設へと届けることが出来た安堵からか、私は酷く草臥れ果ててしまった。
翌日、雛の様子が知りたくて私は施設へ電話を掛けた。私は当然のことながら雛は大事に扱われ、何とか生きているものだと思い込んでいたが、現実はそうではなかった。
「昨日、間もなく死にました」
昨日、引き取ってくれた人の声だったのかどうか、今となってはそれすら私は忘れてしまったが、電話の向こうから聴こえて来る声には、何の悲壮感もなかったことに私は衝撃を受けた。
「そうでしたか、ありがとうございました」
私は何に対して、誰に対して『ありがとう』と言ったのだろうと考え込んでしまったが、しばらくして我に返った。
何をしても駄目なものは駄目だったのである。
あの人が悪い訳ではない。仕方がなかったのだと思ったのだが、今になって思い返すとあれは私の単なる偽善だったのではないかと思えて来た。
自分の手元で、その小さな命が尽きて行くのを見たくなかっただけだったのかもしれない。どうせ二日の命なら、いっそのこと私が雛を楽にしてやるべきだったのではないかと。
けれど、私はそんなことをしたくはなかった。だから人に任せたのである。あの時、私は一体どうすれば良かったのだろう。やさしさとは一体何なのだろうか。
あのホタルイカのように小さなツバメの雛が、「チーチー」と、か細い声で私に生きていることを必死に訴えたあの鳴き声は、今も私の耳の奥底に残って消えることがない。
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