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新聞記者を辞め、バンライフで旅を始めた理由

私は先月、12年間勤めた日本経済新聞を退職しました。東京を離れ故郷の北九州に戻ると同時に買ったのが、キャンピングカーです。

「バンライフ」とはなに?

「バンライフ」という言葉を近ごろ、テレビや新聞などで見かけた方もいらっしゃると思います。バンライフは一言でいえば、車で旅しながら仕事をする生活です。「バン van」というのは、車で牽引するトレーラーハウスを意味する「キャラバン caravan」の略語です。バンライフの本来の意味は「移動しながら生活する」ということでしょう。

もとは欧米で数年前から広がってきた生活スタイルです。インターネットがあまねく普及し、場所や時間を問わず仕事ができる環境になったことが一番の要因です。インスタグラムで#vanlifeと調べると、1000万件近い写真が出てきます。自然の中での暮らしを写したものが多いことが特徴です。

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日本では2019年、初のバンライフイベントとして「つくばVAN泊」が開かれました。バンライフでは、車内で寝泊まりをすることも多いため、過ごしやすいように内装をアレンジしていることも特徴です。車によっては冷蔵庫や電子レンジ、大型エアコンを完備しているものもあり、まさに「走る家」といったおもむきです。

走る山小屋

私が購入したのは、軽トラの荷台に小屋を積んだタイプです。小屋の高さは175センチあり、身長176センチの私は背をピンと伸ばしてまっすぐに立たなければ天井に頭をぶつけることはありません。木目調の板張りで、まるで山小屋の中にいるような落ち着いた雰囲気です。中古キャピングカーの専門店でたまたま見つけ、即日購入しました。

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新型コロナの感染状況を注視しながら、大都市を避けて九州の地方を中心にめぐっています。今月上旬に納車されて以来、これまで15日間旅しました。もはや自宅より、走る山小屋で暮らす時間の方が長くなっています。

筑豊で出会った3つのコブ

印象に刻まれた旅先のひとつは、筑豊(ちくほう)地域です。福岡県中央部に位置するエリアで、明治から昭和にかけて炭鉱の町として栄えた地域です。私が育った北九州市と隣り合う地域ですが、私はこれまで行ったことがなく、実際はどのようなところなのだろうと興味にかられて車を走らせました。

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筑豊最大の都市・飯塚市に入り、中央部を流れる遠賀川の河川敷を走っていると3つのコブのような山が見えてきました。整った形をしているなと思いながらさして気にも留めず、まずはこの街のことを知ろうと思い、飯塚市歴史資料館を訪ねました。

館内をまわっていると、先ほどの3つのコブの写真が展示されています。なんだろうと思って解説を見ていると、そのコブは自然の山ではなく、石炭を採掘するときに出る岩クズが積み上がったものだと説明されています。「ボタ」と呼ばれる岩クズが集積した「ボタ山」の高さは121メートル。炭坑を閉鎖して50年余りで草木が生い茂り、まぎれもない山の姿に変わったのです。

筑豊地域は明治から大正にかけて国内の石炭産出量の5割を担っていました。整った姿から「筑豊富士」とも呼ばれるこの山は、かつて筑豊地域が明治以降の産業発展を支えるエネルギー供給の心臓部だったことを大地に刻んだ姿だったのです。私は河川敷で眺めたのどかな山の風景と、がれきが積み上がり殺伐とした岩くず集積場の写真のあまりの違いに、率直に度肝を抜かれた思いでした。

刺青とお菓子の筑豊

筑豊と石炭の関わりをもっと知りたいと思い、直方市石炭記念館も訪ねました。明治時代に石炭組合の会議室として建てられた2階建ての展示場で、館長の八尋孝司さんが1時間半ほど、筑豊の歴史について語ってくださいました。

ユニークだったのは、石炭採掘の地域ならではの風習や文化です。筑豊の炭坑記録を描きユネスコの世界記憶遺産にも登録された山本作兵衛の絵には、刺青(いれずみ)を背中や手足に刻んだ炭坑夫が描かれています。なぜ炭坑夫は刺青をつけるのか、私はふしぎに感じていました。ある時に「鮮やかな刺青は暗い坑内でも誰が誰かを見分けるため」と聞き、なるほどと思いました。

しかし八尋さんのご説明ではそれだけではないと言います。炭坑では掘り進めるときにダイナマイトを使うなど、爆破事故の危険がつきまといます。不運にも事故にあい、手足が吹っ飛んだとき、その体の一部が誰のものかを識別するためにも刺青が役立ったそうです。刺青は単に粋がってつけるだけでなく、肉体の「シリアルナンバー」として極めて実用的な意味もあったことに、目からウロコが落ちる思いがしました。

さらに、飯塚には長崎街道と呼ばれる江戸の街道があります。街道沿いに、チロルチョコや千鳥饅頭などお菓子メーカーが並んでいます。これも体力を消耗する炭鉱労働者が甘いものを欲したり、中央から政財界人が筑豊を訪れるときに手土産として渡す品が必要だったからといった理由があったなごりだといいます。

刺青とお菓子という、一見なんの関係もなさそうなものが、ともに石炭ゆかりの文化だと知り、意表を突かれた思いでした。産業が栄えることは、経済面だけでなく独自の風習も形作るということを実感を持って知りました。

自分の無知を知る旅

私は日経記者時代の後半、エネルギー分野を取材していました。気候変動が世界的な問題となる中、いかに環境に配慮したエネルギー源にシフトしていくかが問われています。石炭火力は一般的に、二酸化炭素の排出量が多く時代にそぐわないエネルギー源として批判されています。

日本の石炭火力の割合は現在3割ほどで、これを環境面からどう減らしていくか、また安全保障面からどこまで保っていくべきか、かまびすしいほどの議論が続いています。その是非は立場により異なりますが、石炭関連の産業が明治以降の日本を経済面だけでなく文化や風習を形作るほどまでの存在だったことは確かでしょう。こうした事実を知った上で、議論するのとしないのとでは、やはり発する言葉の重みや説得力は大きく変わってくるはずです。自分が記者時代、東京の霞ヶ関で取材をしながら、どれだけ本当にそうした背景をわきまえながら書けていたのかといえば、はじいるばかりです。

私にとってバンライフで旅をすることは、自分がいかに世の中のことに無知であったのかを知る旅であると感じています。同時に、世界は自分の狭い頭の中でこしらえたものより、はるかに多様で、はるかに奥行きがあり、はるかに豊かであることを知り直す旅のようにも感じています。

小石原でのどんぐりカップ

福岡と大分の県境の山間にある東峰村も訪ねました。小石原焼という江戸時代から続く陶芸の地です。私は一時期、焼き物に興味をもったことがあり小石原(こいしわら)という名前は聞いたことがありました。しかし、どのような場所で作られているのか知らず、たまたま奥日田へ向かう途中で、この村を通りがかりました。

山深い地に石畳の街並みがあらわれました。異郷の雰囲気が立ち込めています。どこかに入ってようと思い、森の中のギャラリーに入りました。ギャラリー内の陶器を見ていると、ある女性の方が「こちらにコーヒーを置いておきますので、ご自由にどうぞ」と、中庭のテーブルにカップを置いてくださいました。そのカップに、私の胸はときめきました。

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どんぐりをモチーフにしたカップです。上蓋には「飛び鉋(とんびかんな)」という伝統技法を使っています。一子相伝を守り続ける小鹿田焼から伝わる技法に、現代風の感性を取り入れたのが小石原焼の特徴です。東京の南青山のカフェかと見まがうような一杯に、しびれました。

このカップを出してくださったのは、やままる窯の女性陶芸家・梶原成美さんです。やままる窯は50軒ほどある小石原の窯のひとつです。どんぐりカップの他にもキノコカップや、葉っぱの受け皿など自然をモチーフにした身近に使える陶器を作っていらしゃいます。20代後半でこの地に住み始めて以来「年々、小石原が好きになる」という梶原さんの思いは、作品ににじみ出ているように感じました。

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別府でワーケーション

大分では別府を訪ねました。別府は言わずとしれた温泉街です。私の父母の実家に近いこともあり幼いころ2、3度行ったことがありましたが、自分で行ってみようと思って車を走らせたのは初めてです。

共同駐車場にキャンピングカーを停め、湯煙がたなびき木造の家屋が軒を連ねる情緒的な石畳の坂道を歩きました。すると、こちらでも予期しない巡り合いがありました。

現代風のシェアオフィスです。もともと旅館だった施設を改修した解放的な一室に、アート関連の本をあつめた本棚などが置かれています。Wi-Fi完備でコーヒーやお茶も置かれています。快適さは、東京・丸の内のシェアフィスとまったく変わりません。さらに、このシェアオフィスは真向かいの温泉とも提携していて、いつでも湯に浸かることができます。

料金は一日使って千円。湯に浸かりながら、事業構想のヒントをひらめきました。別府にゆかりの深い僧侶・一遍上人をもとに「a side」と名付けられたこのオフィスの「湯もアイデアも湧く」というキャッチフレーズはまさにぴったりと感じました。

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(仕事環境は東京・丸の内のシェアオフィスと同じです)

こちらを経営されるHOOD社長の長谷川雄大さんにもお会いしました。長谷川さんは以前は東京で働かれていたということです。「ネットがあれば場所は問わない」ことに気づき、ご出身の大分を含めて地域プロデューサー関連のお仕事などに取り組まれています。お話をお聞きしながら、地域を変えていく一歩目を踏み出すのは、行政でも政治でもなく、志あるひとりの人なのだという思いを私は強く持ちました。

自然を感じる生活がしたかった

私がバンライフを始めようと思ったきっかけ、それは自然を感じる生活をしたいという願いでした。大学以降の生活の中心は、東京でした。出会いも学びも多く、刺激に満ちた20代でした。しかし、30代に入り高層ビル群に囲まれ広い空も山も見えない東京のど真ん中での暮らしに、心身ともに不調をきたすことが増えてきました。

心がすぐれないとき、いつもきまって山道を歩きました。奥多摩などの静かな山道を黙々と歩いていると、心にかかっていた厚い雲がだんだんと薄くなり、山から降りるときには心が晴れていく心地を覚えていました。自分にとって自然を身近に感じ環境に身を置くことは、歌手がお気に入りのメロディーを口ずさまずにはいられないように、欠かせないものだと感じるようになったのです。

最後の取材がバンライフ

どうすれば自然を感じる生き方ができるのか。考えているうちに、たまたま仕事でキャンプ生活の取材をする機会がふってきました。日経新聞で私が最後の3年間担当したのが環境省でした。環境省は、コロナの影響で直近では下火ですが、国立公園で仕事も休暇も楽しむ「ワーケーション」を推進しています。ワーケーションつながりでバンライフを取材することになり、キャンピングカーの展示場に行ったり、キャンプ生活を実際にしている方にお話をお聞きしたりするうち「自分でもやってみたい」という思いが膨らんできたのです。

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在籍中、最後に書いた記事がバンライフだったことは、幸運としか言いようがありません。独立してこんな生活をやってみたいと思うものに出会えたからです。「バンライフ」は人それぞれの解釈があると思いますが、私にとっては「自然を感じる生活」にほかなりません。

最新のオフィスは、森

新型コロナの嵐が吹き荒れる現在、働き方は大きく変わってきています。会社員にとっても、会社に毎日通勤するというこれまで誰も疑わなかった当たり前が、まったく当たり前でなくなってきています。私たちは、これまで誰も経験したことのない不確かな時代に入っているのだと思います。確かなことが一つあるすれば、それはどこにも正解がないということでしょう。

旅と仕事を両立するバンライフはその正解がない時代の象徴の1つと言えるかもしれません。自然の美しい景色を見て、そこにテーブルと椅子を置けば、すっかりそこがオフィスです。いまの時代、最新のオフィスは森ではないかという思いもしてきます。

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「風の時代」にFULLYELL

占星術の世界では、昨年末にそれまで200年ほど続いていた「地の時代」が終わり、「風の時代」に入ったと聞きます。私は占星術にまったく詳しくなく科学的な根拠があるのかはわかりませんが、「風の時代」と呼ばれるコンセプトには共感しています。私なりの解釈では「上下関係ではなく横同士のつながり」「集団より個人」「ひとつに縛られない多様さ」「持たずに分け合う」ことが大事になる時代なのだと思います。今はコロナの影響でギクシャクが続いていますが、それでもこれから風通しの良い時代に移っていくことを私は切に願っています。

キャンピングカーは、FULLYELL(フルエール)号と名付けました。会社の屋号です。フルエール号のミッションはシンプルです。心ふるえる場所にいき、心ふるえる景色を眺め、心ふるえる人に出会うことです。「風の時代」の風に乗って進むフルエール号、出発します!

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