This is startup - どうするスタートアップ

はじめに

人事責任者を経験して以降、人にあまり興味のなかった僕が人や組織のことを考えるようになった。
実は人に興味があったのか、人事責任者には変異効果がるのか、それはこの記事の論点ではない。

小6の息子は生まれて初めて大河ドラマを見て以来、徳川家康にぞっこんだ。
歴史小説も読み漁るようになり、登場人物や時代背景も僕より詳しくなってきている。

そんな、一見すると無関係な2つの事象を思い出したときにふと、「戦国の世の組織は、どうなっていたんだろう?」なんてことを考えた。

本記事では、徳川家とスタートアップの組織を対比してみようと思う。

(注)日本史に深い造詣があるわけではないので、歴史考証は十分にできておりません。

徳川家康という人

徳川家康(1543年-1616年)は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将・政治家であり、江戸幕府の初代将軍です。以下に、徳川家康についての詳細な情報を提供します。
◆起源と家族: 徳川家康は今川氏の家臣である松平家の出身で、父は松平清康、母は於大の方といいます。幼少期には今川氏の拠点である駿府城で育ちました。
◆関東への移住: 家康は若くして松平家の家督を継ぎましたが、苦境に立たされるなどの困難な状況に直面しました。しかし、家康は1549年に徳川姓を名乗り、後に関東地方に移住して小田原城を拠点としました。
◆天下統一の戦国大名: 家康は、戦国時代の混乱した状況を利用し、巧妙な外交や戦略を駆使して自身の勢力を拡大しました。彼は、武田信玄や北条氏政などの強力な大名との戦いに勝利し、東海地方および関東地方の統一を達成しました。
◆関ヶ原の戦いと征夷大将軍: 1600年に起こった関ヶ原の戦いでは、家康は東軍の総大将として西軍と対峙しました。家康の勝利により、彼は征夷大将軍の地位を得ることとなり、江戸幕府を開きました。
◆江戸幕府の建設: 家康は江戸幕府の初代将軍として、日本の中央政権を確立しました。彼は徳川家の江戸城を本拠地とし、幕府の基盤となる政治体制を整備しました。また、幕府の諸制度や法律を整備し、江戸時代の基盤を築きました。
◆朱印船貿易と文化振興: 家康は、海外との貿易を重視し、朱印船貿易を推進しました。これにより、ヨーロッパ諸国との交流が活発化し、日本経済の発展に貢献しました。また、家康は文化振興にも力を入れました。彼は茶道や俳諧などの芸術文化を奨励し、江戸時代の文化の基盤を築きました。特に、茶道や建築などの日本の伝統文化は、家康の時代から広まり、後世に受け継がれることとなりました。
◆平和と安定の維持: 家康は幕府の政治体制を確立することで、国内の戦乱や内乱を抑制し、平和と安定を維持しました。これにより、日本は約250年にわたる江戸時代の平和な時代を迎えることとなりました。
◆徳川将軍家の継承: 家康は将軍職を息子の徳川秀忠に譲り、徳川将軍家を継承させました。以降、幕府は徳川将軍家の世襲制となり、将軍家が実権を握りながらも、家康の指導方針に基づいた統治が行われました。
◆死後の評価: 家康は死後、徳川家の祖として崇拝され、日本の歴史の中で最も重要な人物の一人とされています。彼の統一政策や平和維持の努力は、日本の発展と安定に大きな影響を与えました。

徳川家康は、戦国時代の混乱を終結させ、江戸時代の基盤を築いた功績が非常に大きい人物です。彼の戦略的な才能、政治的な手腕、文化振興への関心、平和と安定の追求などは、現代の日本においても高く評価されています。

Chat GPT-4(プロンプト=「徳川家康について教えて下さい」)

徳川家とスタートアップを比較してみる

組織

Webサイト「戦国ヒストリー「徳川家臣団まとめ。家康が構築した組織構造や家臣の顔ぶれ、その変遷など」」では、徳川家の組織構造が詳細に解説されている。
今回は、このWebサイトの記載を元に、徳川家とスタートアップを比較してみる。

【出典】戦国ヒストリー「徳川家臣団まとめ。家康が構築した組織構造や家臣の顔ぶれ、その変遷など」

CEO(徳川家康)
徳川家の筆頭は、当然、徳川家康である。
スタートアップに例えると、CEO(最高経営責任者)と言えるだろう。

COO(酒井忠次)
COOは、明確に機能を定義することが難しい役職だが、敢えて言えば「CEOを支え、CEOに変わって他のCxOを含む組織を総括するポジション」だと思う。
ドラマ「どうする家康」でも度々登場する「酒井忠次」。
江戸幕府設立後も家康を支えた忠次がCOOと呼ぶにふさわしいだろう。

その他のCxO
江戸幕府の組織構造の資料はWeb上にも幾つかあるが、江戸幕府設立前の徳川家の組織構造は武将を軸に説明されているため、機能別の分類が難しい。
しかし、CxOは、社員よりも大きな責任と権原を持ったポジションであることは間違いない。
その意味では以下のような名前が上がるのではないか。

  • 石川数正

  • 本多忠勝

  • 榊原康政

  • 井伊直政

ファンクション組織(三河三奉行
CxOの他にも、家康は三河三奉行と呼ばれるファンクション組織を組成していた。

  • 天野康景

  • 高力清長

  • 本多重次

彼らが実務を担当することで、徳川家の成長に寄与していたのだろう。

創業前(幼少期)

徳川家康は、織田家&今川家の人質として幼少期を過ごしたことは有名な話だ。
スタートアップに例えると、創業前のステージ(例えば、大学発スタートアップで言えば、研究室で研究しつつ、未来の創業という野心を抱いている上た)だろう。

今川家で過ごしていたときの家康には上記でCxOとした酒井忠次&石川数正の二人が従っていたとされる。
家康は、幼い頃から気心知れた仲間と徳川家を創業したと捉えることができる。

創業期(人質時代)

桶狭間の戦いで織田信長に今川義元が打たれたことにより、家康は三河に戻ることになる。
家康は、三河に戻ったことで一国一城の主となる。

家康の創業期はこのときだろう。

家康は、織田信長と同盟(清須同盟)を結ぶことで、徳川家の安定を図る。
とはいえ、徳川家はまだまだ弱小。
織田信長からは、人的支援・金銭的支援も受けていたのではないだろうか。
そうであるならば、織田信長は、家康にとってエンジェル投資家としての役割を果たしていたのではないだろうか。

成長期(織田~豊臣時代)

織田信長の躍進の裏で家康は、様々な戦いを経て徳川家を成長させていく。

  • 金ヶ崎の戦い(vs 浅井長政&朝倉義景)

  • 三方ヶ原の戦い(vs 武田信玄)

  • 長篠の戦い(vs 武田勝頼)

  • 小牧・長久手の戦い(vs 豊臣秀吉)

織田信長の死後、派遣を握った豊臣秀吉にとっては、家康は無視できないスケールに成長していたであろう。
豊臣家を既に上場した元スタートアップに例えると、豊臣秀吉から見た徳川家は、以前の自分を彷彿とさせる「ユニコーン成長」(時価総額ランキングトップ)の新進気鋭の事業会社に見えていたのではないだろうか。

豊臣秀吉は、家康を家臣団に加えることで、徳川家を豊臣家の成長エンジンに取り込んだ。

豊臣秀吉は、家康を懐柔するために、様々な気を使っていたのではないだろうか。
例えば、金銭的に優遇していた可能性がある。
そうであるならば、豊臣秀吉は徳川家にとってのCVC(Corporate Venture Captal)としての機能を果たしていたことになる。

成熟期(江戸時代)

関ヶ原の戦い~大阪の陣を経て、ついには家康が天下を統一する。
家康は、征夷大将軍となり、江戸幕府を設立する。

幕府は、「国民生活を豊かにする」という義務を負うはずだ。
これは、様々な適時開示義務や社会的義務を負う上場企業そのものだ。

この観点で見ると、幕府設立は、スタートアップにとってのIPOに相当する。

徳川家に僕の経験を活かすと

僕は、知財の専門家である一方、約1年間、スタートアップ企業の人事籍二社を務めた(参考:弊ブログ「This is startup ~知財≒人事~」)。

ここでは、知財・人事という2つの領域での経験を徳川家に活かした世界線を想像してみる。

人事

人事とは、読んで字の如く「人に関わる事」を司るポジションだ。

わずか1年の任期であったが、人事責任者を通して学んだことを一言で表すと「組織は人」ということだ。

ITツールもない戦国時代であれば、「人が組織に及ぼす影響パラメータ」は、現代社会のそれとは比較にならない程に大きいであろう。

僕は、人事責任者の任期中に人事業務を以下の分類で捉えていた。

  • 社内人事(主に、社内制度)

  • 社外人事(主に、採用)

人事の経験で使えそうなものは、以下のようなものだろうか。

  • MVV(Mission/Vision/Value)の策定
    徳川家のカルチャーを浸透させることで、徳川家臣団を1つにまとめる。

  • 人事制度(評価/等級/報酬)の策定&運用
    人事制度を通して家臣の働きを家康に俯瞰的に伝え、適切な処置(例えば、石高の増加、城主の任命等)を行うことにより、家臣団のモチベーションを高める。

  • 採用戦略の策定
    戦国時代には人材エージェントというサービスはさすがになかったと思われる。そうであれば、戦国時代の採用戦略は、DR(Direct Recruiting)とスカウトであろう。DRの成功事例としては、三河本国での採用に成功した井伊直政、スカウトの成功事例としては、関ケ原の戦いで豊臣家からの調略に成功した小早川秀秋であろう。

  • 採用ブランディング
    採用広報として、徳川家の勢いを世に伝えることも重要な仕事になる。

知財

「知財経験を戦国時代に活かす」と言っても、パリ条約が発効したのは、明治時代の1884年だ。
戦国の世に知財という仕事は存在しなかったんだろう。

そこで、知財の中でも特許にフォーカスを当てて、当時の知財を発掘してみることにした。

  • [特許権]火縄銃(西洋から伝来した鉄砲)
    当時の日本であれば、外国の先行技術にアクセスできないであろうから、無効理由を含む特許の取得が可能であったはずだ。
    火縄銃を分解したとされる種子島の職人の知識も審査で引用するのは極めて困難であったろう。

  • [特許権]馬防止用柵(長篠の戦いで、武田騎馬隊の進行を防ぐために用いられた柵)
    但し、家康ではなく、織田信長の発明であるから、家康の単独発明として出願すると、冒認出願に該当するだろう。

  • [特許権]鉄砲の連射方法(長篠の戦いで、武田騎馬隊を打ち取るために織田信長が採用した戦術)
    これは、方法の発明と呼べる。
    だが、馬防止用柵と同様に、織田信長の発明であるから、家康の単独発明として出願すると、冒認出願に該当するだろう(実際に使用して効果を証明した「実験補助者」としての家康が発明者要件を満たすか否かは争点になりそうだ)。

  • [意匠権]金陀美具足(家康が身につけた具足)
    外形は一般的な鎧と大差なかったかもしれないが、全身黄金色の外観はまさに非容易性を満たすのではないだろうか。

  • [商標権]徳川葵(徳川家の家紋)
    家紋はまさにコーポレートブランドのシンボルだ。
    指定商品は、建築物、武具、書物等が考えられる。
    家紋は、現代社会においては、商標登録の対象ではない。しかし、それはあくまで「第三者による取得」の話だ。
    戦国の世で家康本人が徳川家の家紋を保護することは認められたであろう。

むすび

思いつきで書いてみたが、400年以上前から組織論は重要であったと改めて思った。

やはり、組織は人だ。

人類は歴史を繰り返す生き物だ。

今から400年後の世界では、今の組織論では考えつかないようなポジションが生まれていることだろう。
そこにはテクノロジーの進化が大きく影響しているに違いない。

それでも、「組織論と人事」の重要性は変わらないと思う。
その世界で、「知財」はどうハマるのだろうか。

参考「家紋からなる商標登録出願の取扱い」特許庁

①商第4条第1項第6号 出願された家紋からなる商標が、例えば、神社仏閣等の宗教法人を表す神紋、社 紋、寺紋、宗紋、又は、学校法人を表す校章のように、公益に関する団体であって 営利を目的としないものを表示する標章又は文化財の保護等の公益事業を表すもの として使用している家紋であって著名なものと同一又は類似する場合、商第4条第 1項第6号に該当するものと判断する。

②商第4条第1項第7号 周知・著名な家紋は、その家やその家に関する人物の郷土やゆかりの地において、 例えば、地方公共団体等の公的な機関が、地元のシンボルとして地域興しや観光振 興のために使用するような実情があることから、当該地域においては強い顧客吸引 力を発揮する場合があると考えられる。このような場合には、当該家紋と無関係な 第三者が登録を受けることによって、その地域住民全体の不快感や反発を招き、地 域興し等の施策の遂行を阻害することとなる。 また、家紋の中には、従前から他家での使用を厳しく禁じ、それが現代において も特定の家やゆかりの神社等を表す紋として使用されているものがあり、そのこと が広く一般に認識されているような場合がある。このような場合に当該家紋と無関 係な第三者が登録を受けることは、家紋が表す特定の家等の著名性や顧客吸引力に 便乗することとなる。 そして、特に、周知・著名な家紋を使用した公益的な施策等に便乗し、その遂行 を阻害し、公共的利益を損なう結果に至ることを知りながら、利益の独占を図る意 図をもって出願をした場合や特定の家を表す紋として著名な家紋を第三者が出願するなど、登録出願の経緯や商標を採択した理由に、著しく社会的妥当性を欠く場合においては、公正な取引秩序を乱し社会公共の利益に反することとなる。
したがって、上記のような場合には商第4条第1項第7号に該当するものと判断する。
なお、上記判断においては、当該家紋又は当該家紋に係る人物名の周知・著名性及び利用状況、当該家紋又は当該家紋に係る人物名に対する国民又は地域住民の認識、出願の経緯・目的・理由、当該家紋又は当該家紋に係る人物と出願人との関係等の事実を総合勘案する。この場合、例えば、当該家紋についての利用状況等は不明であっても、当該家紋に係る人物名の利用状況等を当該家紋の利用状況として勘案することとする。

③商第4条第1項第10号
出願された家紋からなる商標が、他人の業務にかかる商品等を表示するものとして需要者の間に広く認識されている家紋と同一又は類似であって、かつ、その商品等と同一又は類似の商品等を指定している場合については、商第4条第1項第10号に該当するものと判断する。

④商第4条第1項第15号
出願された家紋からなる商標が、他人の業務にかかる商品等を表示するものとして需要者の間に広く認識されていること等から、出願人がその商標を使用したときに、その商品等の出所について混同を生ずるおそれがあると認められる場合については、商第4条第1項第15号に該当するものと判断する。

⑤商第4条第1項第19号
出願された家紋からなる商標が、他人の業務にかかる商品等を表示するものとして需要者の間に広く認識されている家紋と同一又は類似であって、かつ、不正の目的をもって使用するものと認められる場合については、商第4条第1項第19号に該当するものと判断する。

⑥商第3条第1項第5号
出願された家紋からなる商標が、例えば、以下のように、「○」や「×」の単純な図形を表した極めて簡単、かつ、ありふれた標章と認識される場合については、商第3条第1項第5号に該当するものと判断する。

⑦商第3条第1項第6号
家紋は、例えば、「和服」、「五月人形」、「武者人形」、「置物の兜」、「こいのぼり」、「仏壇」といった商品等について、出所識別標識としてではなく、本来的な家紋として付され、あるいは、「シール」、「マグカップ」、「ティーシャツ」といった商品等について、装飾や模様として利用されている実体がある。そうすると、家紋を付したこれら商品等に接する需要者は、単に家を表す印としての家紋又は家紋を表した装飾や模様が付されたものであると認識するにとどまり、自他商品役務の識別標識としては認識しない場合も多いと考える。
したがって、出願された家紋からなる商標が、指定商品又は指定役務との関係から、本来的な家紋として、また、装飾や模様としての家紋を認識するにとどる場合は、商第3条第1項第6号に該当するものと判断する。
なお、上記判断においては、当該家紋の知名度、指定商品等の取引の実情等の事実を総合勘案することとする。

「家紋からなる商標登録出願の取扱い」特許庁

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