This is startup - どうするスタートアップ
はじめに
人事責任者を経験して以降、人にあまり興味のなかった僕が人や組織のことを考えるようになった。
実は人に興味があったのか、人事責任者には変異効果がるのか、それはこの記事の論点ではない。
小6の息子は生まれて初めて大河ドラマを見て以来、徳川家康にぞっこんだ。
歴史小説も読み漁るようになり、登場人物や時代背景も僕より詳しくなってきている。
そんな、一見すると無関係な2つの事象を思い出したときにふと、「戦国の世の組織は、どうなっていたんだろう?」なんてことを考えた。
本記事では、徳川家とスタートアップの組織を対比してみようと思う。
(注)日本史に深い造詣があるわけではないので、歴史考証は十分にできておりません。
徳川家康という人
徳川家とスタートアップを比較してみる
組織
Webサイト「戦国ヒストリー「徳川家臣団まとめ。家康が構築した組織構造や家臣の顔ぶれ、その変遷など」」では、徳川家の組織構造が詳細に解説されている。
今回は、このWebサイトの記載を元に、徳川家とスタートアップを比較してみる。
CEO(徳川家康)
徳川家の筆頭は、当然、徳川家康である。
スタートアップに例えると、CEO(最高経営責任者)と言えるだろう。
COO(酒井忠次)
COOは、明確に機能を定義することが難しい役職だが、敢えて言えば「CEOを支え、CEOに変わって他のCxOを含む組織を総括するポジション」だと思う。
ドラマ「どうする家康」でも度々登場する「酒井忠次」。
江戸幕府設立後も家康を支えた忠次がCOOと呼ぶにふさわしいだろう。
その他のCxO
江戸幕府の組織構造の資料はWeb上にも幾つかあるが、江戸幕府設立前の徳川家の組織構造は武将を軸に説明されているため、機能別の分類が難しい。
しかし、CxOは、社員よりも大きな責任と権原を持ったポジションであることは間違いない。
その意味では以下のような名前が上がるのではないか。
石川数正
本多忠勝
榊原康政
井伊直政
ファンクション組織(三河三奉行)
CxOの他にも、家康は三河三奉行と呼ばれるファンクション組織を組成していた。
天野康景
高力清長
本多重次
彼らが実務を担当することで、徳川家の成長に寄与していたのだろう。
創業前(幼少期)
徳川家康は、織田家&今川家の人質として幼少期を過ごしたことは有名な話だ。
スタートアップに例えると、創業前のステージ(例えば、大学発スタートアップで言えば、研究室で研究しつつ、未来の創業という野心を抱いている上た)だろう。
今川家で過ごしていたときの家康には上記でCxOとした酒井忠次&石川数正の二人が従っていたとされる。
家康は、幼い頃から気心知れた仲間と徳川家を創業したと捉えることができる。
創業期(人質時代)
桶狭間の戦いで織田信長に今川義元が打たれたことにより、家康は三河に戻ることになる。
家康は、三河に戻ったことで一国一城の主となる。
家康の創業期はこのときだろう。
家康は、織田信長と同盟(清須同盟)を結ぶことで、徳川家の安定を図る。
とはいえ、徳川家はまだまだ弱小。
織田信長からは、人的支援・金銭的支援も受けていたのではないだろうか。
そうであるならば、織田信長は、家康にとってエンジェル投資家としての役割を果たしていたのではないだろうか。
成長期(織田~豊臣時代)
織田信長の躍進の裏で家康は、様々な戦いを経て徳川家を成長させていく。
金ヶ崎の戦い(vs 浅井長政&朝倉義景)
三方ヶ原の戦い(vs 武田信玄)
長篠の戦い(vs 武田勝頼)
小牧・長久手の戦い(vs 豊臣秀吉)
織田信長の死後、派遣を握った豊臣秀吉にとっては、家康は無視できないスケールに成長していたであろう。
豊臣家を既に上場した元スタートアップに例えると、豊臣秀吉から見た徳川家は、以前の自分を彷彿とさせる「ユニコーン成長」(時価総額ランキングトップ)の新進気鋭の事業会社に見えていたのではないだろうか。
豊臣秀吉は、家康を家臣団に加えることで、徳川家を豊臣家の成長エンジンに取り込んだ。
豊臣秀吉は、家康を懐柔するために、様々な気を使っていたのではないだろうか。
例えば、金銭的に優遇していた可能性がある。
そうであるならば、豊臣秀吉は徳川家にとってのCVC(Corporate Venture Captal)としての機能を果たしていたことになる。
成熟期(江戸時代)
関ヶ原の戦い~大阪の陣を経て、ついには家康が天下を統一する。
家康は、征夷大将軍となり、江戸幕府を設立する。
幕府は、「国民生活を豊かにする」という義務を負うはずだ。
これは、様々な適時開示義務や社会的義務を負う上場企業そのものだ。
この観点で見ると、幕府設立は、スタートアップにとってのIPOに相当する。
徳川家に僕の経験を活かすと
僕は、知財の専門家である一方、約1年間、スタートアップ企業の人事籍二社を務めた(参考:弊ブログ「This is startup ~知財≒人事~」)。
ここでは、知財・人事という2つの領域での経験を徳川家に活かした世界線を想像してみる。
人事
人事とは、読んで字の如く「人に関わる事」を司るポジションだ。
わずか1年の任期であったが、人事責任者を通して学んだことを一言で表すと「組織は人」ということだ。
ITツールもない戦国時代であれば、「人が組織に及ぼす影響パラメータ」は、現代社会のそれとは比較にならない程に大きいであろう。
僕は、人事責任者の任期中に人事業務を以下の分類で捉えていた。
社内人事(主に、社内制度)
社外人事(主に、採用)
人事の経験で使えそうなものは、以下のようなものだろうか。
MVV(Mission/Vision/Value)の策定
徳川家のカルチャーを浸透させることで、徳川家臣団を1つにまとめる。人事制度(評価/等級/報酬)の策定&運用
人事制度を通して家臣の働きを家康に俯瞰的に伝え、適切な処置(例えば、石高の増加、城主の任命等)を行うことにより、家臣団のモチベーションを高める。採用戦略の策定
戦国時代には人材エージェントというサービスはさすがになかったと思われる。そうであれば、戦国時代の採用戦略は、DR(Direct Recruiting)とスカウトであろう。DRの成功事例としては、三河本国での採用に成功した井伊直政、スカウトの成功事例としては、関ケ原の戦いで豊臣家からの調略に成功した小早川秀秋であろう。採用ブランディング
採用広報として、徳川家の勢いを世に伝えることも重要な仕事になる。
知財
「知財経験を戦国時代に活かす」と言っても、パリ条約が発効したのは、明治時代の1884年だ。
戦国の世に知財という仕事は存在しなかったんだろう。
そこで、知財の中でも特許にフォーカスを当てて、当時の知財を発掘してみることにした。
[特許権]火縄銃(西洋から伝来した鉄砲)
当時の日本であれば、外国の先行技術にアクセスできないであろうから、無効理由を含む特許の取得が可能であったはずだ。
火縄銃を分解したとされる種子島の職人の知識も審査で引用するのは極めて困難であったろう。[特許権]馬防止用柵(長篠の戦いで、武田騎馬隊の進行を防ぐために用いられた柵)
但し、家康ではなく、織田信長の発明であるから、家康の単独発明として出願すると、冒認出願に該当するだろう。[特許権]鉄砲の連射方法(長篠の戦いで、武田騎馬隊を打ち取るために織田信長が採用した戦術)
これは、方法の発明と呼べる。
だが、馬防止用柵と同様に、織田信長の発明であるから、家康の単独発明として出願すると、冒認出願に該当するだろう(実際に使用して効果を証明した「実験補助者」としての家康が発明者要件を満たすか否かは争点になりそうだ)。[意匠権]金陀美具足(家康が身につけた具足)
外形は一般的な鎧と大差なかったかもしれないが、全身黄金色の外観はまさに非容易性を満たすのではないだろうか。[商標権]徳川葵(徳川家の家紋)
家紋はまさにコーポレートブランドのシンボルだ。
指定商品は、建築物、武具、書物等が考えられる。
家紋は、現代社会においては、商標登録の対象ではない。しかし、それはあくまで「第三者による取得」の話だ。
戦国の世で家康本人が徳川家の家紋を保護することは認められたであろう。
むすび
思いつきで書いてみたが、400年以上前から組織論は重要であったと改めて思った。
やはり、組織は人だ。
人類は歴史を繰り返す生き物だ。
今から400年後の世界では、今の組織論では考えつかないようなポジションが生まれていることだろう。
そこにはテクノロジーの進化が大きく影響しているに違いない。
それでも、「組織論と人事」の重要性は変わらないと思う。
その世界で、「知財」はどうハマるのだろうか。
参考「家紋からなる商標登録出願の取扱い」特許庁
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?