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Prior to Our Vision / 写真家の契り

   写真的な、余りに写真的な。

 これはあるキュレーターの方から頂きました私の制作への批判について、私のその時点での所存を明確にしようと書いた文章であるために、語気が強くなっていたり、芸術性のないものとなっていることをお許しください。

 これまで写真や映像は、人間の知覚の範疇で、時間や空間、身体との密接な関わりのなかで手懐けられてきた。こうした利用に奉仕する写真や映像の集合には、共通してある文法が立ち上がり、こうしたものを私たちは写真や映像の文法だと思って扱ってきた。しかしこれらの文法は視覚や聴覚を含む人間の知覚、そして身体の有する構造の虚像として生じるものであり、『写真』や『映像』というものの有する構造に基づいていたり、もっとひどければ関連したものですらない。つまり私たちがこれまで映像文法あるいは映画の文法だと思ってきたものは、映像や写真においてなんら本質的なものではなく、実際には人間の知覚において本質的なものなのだ。私は、写真や映像の置かれたこうした状況に憤りを覚える。そして、こうした状況から写真や映像を自由にし視覚を失った写真——いや余りに写真的で、視覚以前の写真を考えてゆきたい。そのとき重要なのは、感光した空間中の平面における形質であり、その意味で私たちが扱うのは、写真的な空間中の平面である。

 私たちに奉仕しない『視覚を失った』映像や写真の本性的な在り方において(映画の黎明期にはかえってこうしたことは明らかだったように思うが)例えばある写真と被写体やある映像と音声とはいかなる絶対的な関係を持たず、また写真・映像といったものは私たちの視覚とも関係していない。この場合、ある音楽を伴ったパフォーマンスを撮影したフッテージを編集する場合に、そこにある音楽を主体にすることや、あるいはパフォーマンスを主体にすること、またそれらを調和させることのいずれも映像の本性においては何ら排他性をもって有意義なことではない。より厳密には、映像や写真は、任意の運動が時空において示す事象を、例えば視覚的な認識の範疇で調和させるといった些末なことを目的としない。むしろ、写真や映像は視覚的な認識において時間や空間の構造や調和を失わせ、統合を失調させ、被写体の全てを殺すために動員されていると知覚され理解されるような場合に、人間の知覚から解放され、自由な状態を回復していると言えるだろう。

 映像や写真が人間の知覚にその可能性を閉じ込められてきたこのような状況は、占星術やある時期までの天文学と類似していると言えるだろう。つまり、人間が星々について、自らの理解の範疇で意味を見出そうとする仕方が、今日私たちの多くが映像や写真をみるときの方法に似ているということだ。占星術において、人類は星々の位置やその変化といった現象の一部を観測し、その意味を『自らの世界』にある語彙において見出した。そのとき人間は知覚すること、そして観測することが可能なさまざまな刺激や事象のなかから人間にとって目立ち、重要だと思えるような取り掛かりを見つけ、座標化したり、名前をつけたり、指標化するなどし、さらにはそれらを自らが経験的に有する語彙や概念、事項と対応させることで自らに引き寄せ、意味付けした。しかしこれらの理解の総体に立ち上がるのは、今日の映像の受容と同様に、もっぱら人間の知覚やあるいは文化や社会の有する構造の虚像であり、それは『星々』それ自体が有する構造や全体性に基づいていたり、もっとひどければほとんど関連したものですらないということは明らかだろう。つまり、映像や写真、音響といったメディウムは天体と同様に、それが光学的であったり化学的であったり物理学的であったりする自然の現象であるために、人間の知覚やある時点での人間の英知に意味や全体性の限界を持たない。つまり、絵画と異なり、ここで議論の中心にあるようなメディウムは人類の知覚や経験にとって星々が有するのと同様の理解不可能性を本性的に有するのだ。

 無論、これまでそうであったように、知覚や経験における理解不可能性を本性的に有するメディウムを人間の知覚や経験の範疇で扱うために、その全体性を意図的に見落とし翻訳することは可能だ。例えば写真においても、人間がイメージをつくりだすに至る欲望に注目するなどし、その他の部分を意図的に見落とすことが試みられてきたし、実際、これは所与の写真を『理解』するためには有効な手段である。なぜなら、これまでに活動した作家たちも含めた一般的な人間が写真的イメージをつくりだすに至る欲望は通常、現実のイメージや経験から発生し、したがって現実のイメージや経験と直接に関わっているものだからだ。ただし重要なのはこうした手法が、あるものを社会や文化、時間や空間の認識といった私たちの身体性や知覚に依存した観測や理解という範疇において理解するために便利な処理に他ならないというまさにこの事実であり、これが占星術や天文学の初期に星々を理解するために人間が用いた方法と似ているということだ。

 こうした理解の仕方はある人間が未収得のある言語をすでに収得した言語との対応関係において——つまり例えば常に翻訳しながら理解しようとする態度にも類似している。この類比で重要なのは、その言語のなかで生きることが、ある言語の全体性や意味を汲み理解するために重要だということである。また翻訳や占星術との類似は、なぜ私たちが映像や写真を手懐けようとするかについても教えてくれる。つまり写真や映像の魔術性の中に取り込まれることに畏れを抱く私たちがその魔術性を抑圧し、それらを手懐けることで自らのこころのやすらかさを保とうとする、私たちの余りに人間的な反応が、写真や映像というメディウムの扱い方において現れているのだ。私たちの視覚や聴覚、時空の認識から逸脱しているものへの畏怖の感情そのものには、私たちの過去の多くのことを――占星術や初期の天文学、差別や迫害といったものを——重ねることができる。しかしながら、やはりこのような状況に、ある時点で持ちうる全てを用いて挑戦するか、あるいは問題の一部を意図的に見逃し矮小化することで無力化を図るかという二つの態度は酷く隔たりのあるものだ。ただし先にも述べたように今日映像や写真と向き合う作家たちも、もっぱら社会や文化や視覚、意識やこれらに類する事項に自らの興味や関心を矮小化させている。よって、既出の一般的な作家の作品を分析するということに目的を絞る限り、占星術的な分析や理解は有効である。あるいは、この場合、今日行われている分析や理解を占星術的だと言って批判することはできない。しかし、映像や写真の本性に対して余りに人間的であって、不誠実なまでに極端な一部においてすべてのことがなされていることに変わりはない。

 絵画においては絵具や絵筆といった媒介物が人間に寄り添うように抽象化されている一方、彫刻において物質は一定程度以上のアクチュアルさを有していると言えるだろう。アクチュアルな物質や素材というものと、同様にアクチュアルな存在である人間が格闘し、そのなかである彫刻が立ち上がってくるようなことがあるとすれば、対して写真は、その本性的な在り方——つまりその概念や定義の中心に近い部分において、人とは上記の二つのメディウムと異なる関わり方をする。つまり、写真や映像においては人間が抽象化され、写真にとってアクチュアルなものになるとき、こうしたメディウムの自然な状態が訪れるのだ。私はずっとまえから、写真的で、余りに写真的な写真を欲し、視覚以前のものを感じていたが、写真と関わるときに感じていたこの違和感や直感は、まさにこの本性によるものなのだろう。つまり私たち人間が絵画における絵の具や絵筆やキャンバスのように抽象化され、理想化され、客観的なものである時に、写真や映像が自然な状況にあるというこの関係性への直感と、しかしながらこの関係性から大きく逸脱した写真作品や映像作品のみが、今まで人間によって作り出されてきたことに対する違和感がずっとあったのだろう。

 写真の出口にたむろする人間を排除し、写真から視覚を失わせることは、今まで試みられたことのきわめて少ない写真の可能性の全世界のなかの未開の地であり、この危険で魔術的な世界に飛び込み、視覚を失った写真について考え、写真の可能性を汲み尽くすことは、現代以降の写真作家における喫緊の課題である。写真をみる者が、未だこのような意識を持たないことには正当な理由を認めるが、しかし扱う者が未だそうでないことにはなんら正当性がない。自らの心の安らかさのために写真や映像という崇高なメディウムの本性を無視して手懐けるのではなく、その本性や全体性のなかで生きようとする者は、それぞれのメディウムにおいて汲み尽くされるべき重要な可能性が隠れる——最大限の敬意とともに、あえて次のように言う——野蛮で未開な地で、人知の先で、そして視覚以前で、新たに生きなければならず、そのために私たちは抽象化され、写真のアクチュアルさに寄り添わなければならないのだ。(2023/5/29)

写真と写真機が好き