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第十四話 なんでもない 連載 中の上に安住する田中

 久しぶりに親の住む「実家」に帰った。思ったよりも小さく見えた。台所で母が夕飯の支度をしていた。定年には、まだわずかに満たない父は会社から帰っていなかった。姉と兄は明日か明後日来るだろう、と母が言った。

 家に帰ったら少しは安心できるだろうかと思っていた。少しはゆっくりできて、心を落ち着かせられる、と。それが間違いだと気づくのに、そう長くはかからなかった。おそらく玄関で靴を脱いだ時からだろうか。いや、玄関の戸を引いたときかもしれないし、もしかしたらもっと早く、台所から漏れる雑音が耳に入ったとき。ましてや最寄駅の、あの寂れた風景を目にした時からかもしれない。
 最近何かと大変でさ、とでも言えば良いのだろうか? 仕事は、と訊いた母に、まあ、と言葉を濁してしまった僕はそれ以上のことを切り出すチャンスを失った。僕と両親で囲んだ食卓では、父の武勇伝、というか説教を中断させてまで、自分語りを始めようとは思わなかった。でもじきに父は酔って寝た。

 母と二人。しばし沈黙が訪れて、僕は何か話そうとした。否、「何か」ではなく、最近の、訳のわからない落ち着かないこの感じを打ち明けようとした。そう思って最初の言葉を探し始めたが、なんて言えばいいのかてんで分からなかった。
 聞いてもらえば楽になるだろうとばかり思っていたが、それは間違いだったようだ。口を開く前にそれが分かった。

 最近色々あって心が疲れているんだとばかり思っていたが、実際のところ何もなかったことに気づいた。

 (元)彼女がこのところやけにヒステリックだったり、レコードなんて外道なものを「ジャケ買い」したり、同僚の美久さんと一緒の部屋で寝たなんてこと、今から振り返ってみればなんともないことだ。年寄りなどは別として、同世代の男のものと比べれば、ここ最近起こった「僕にとっての非日常」は、もっとも平凡でつまらない日常でしかないだろう。
 それでよかった筈なのに、ここ最近の物悲しさはなぜだろう。最近、いやに三人称で物事を考えることが多いのも、それを余計に増幅させている一因であるような気がする。

「何か言いたげね」
 母が尋ねた。
「なんでもないよ」
 と思春期前の子供顔負けの、「大人の拗ね」を見せた。自分の声が悲しくこだました。本当になんでもないような気がした。

 続く

第十五話 理解不能

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連載 中の上に安住する田中 ——超現実主義的な連載ショートショート——

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