見出し画像

|大宮宝子《おおみやたからこ》と周りの人々



大宮宝子おおみやたからこは駆け出しの作家である。
とはいえ、年齢は42歳。若い作家ではない。
この小説は、彼女の周りの人々の身に起こったことを書き留める。
誰もが我が身のことのようでいて、他人事のようでもある。


ある老人の物語 2


裕史ひろしは、幸子ゆきこをいつまでも抱いていてやりたかった。
しかし、大家が通報してくれたことで警察がすぐに到着し、もう幸子と一緒にいられなくなった。
第一発見者となったことから、その関係を問われ、それからは事情聴取のためにかなりの時間を警察で過ごすことになった。


気は張っていたが、ふとした拍子に涙があふれ出ていた。
幸子との関係…。わしは幸子と一緒になってやれなかった男や…。幸子は幸せだったのだろうか。最期の時をたった一人で迎えさせ、きっと寂しかったろうに……。
ぶつけようのない思いが、裕史の中であらゆる感情と絡み合って、心の中に溺れ堕ちてしまいそうだった。
感情が込み上げてくる度、両拳を固く握り震えながら、ぽろぽろこぼれ落ちる涙を抑えることなど出来なかった。

幸子の母親と妹も駆け付けていた。
警察署で裕史は対面した。裕史はこの二人とも面識があった。幸子の父親の葬儀の時に、細々こまごましたことを手伝ったからだ。裕史は軽く会釈したが、母親と妹はそれには応えなかった。
幸子は家族関係で深く悩んでいた。母親は、裕史と歳が変わらない。妹は還暦を迎えた頃だろうか。幸子が唯一家族の中で心を開いていたのが父親だった。その父親が10年ほど前に亡くなってからは、家族の中での居場所はなく、実家に戻ることは滅多になかった。何より裕史との関係を罵倒され、幸子が抱く苦悩など分かろうとする家族ではなかった。


幸子の母親と妹は、早々に葬儀会社の手配をし、家族だけで葬儀を済ませていた。
何も知らされなかった裕史は、自分のスマホで撮った最高の笑顔の幸子の写真を、せめて母親と妹に見てもらいたいと遺影にして実家を訪ねた。タクシーを利用した。
玄関先だったが、母親が出てきて裕史が持参した遺影を見た。
「……あの子、笑うとこんなところに、えくぼがあったんやねえ…」

気丈夫にしていた母親の目が潤んでいた。遺影の表情の幸子に、初めて会ったかのように、愛おしそうに震える手で撫でていた。
裕史は葬儀の一切が終えられていたことをこの時知った。日にちが経っていたので、そうではないかとも思っていた。玄関先にまで漂う線香の香りが、幸子の姿がこの世のどこにも無くなったことを再確認させた。

母親が言った。
「…丸山さん…、幸子に手ぇ合わせて行かはるか…?」

裕史は瞼を閉じて頷き、和室に通された。とこの間に据え置かれた小さな仏壇の横に、幸子の後飾あとかざり祭壇が設けられていた。その前に端座した。
幸子の骨壷を目の前にした瞬間、涙が溢れ出てきた。
幸子の亡骸を抱いた、あの最後の対面の時のことを思い出すだけでも、心臓を握り潰されるような苦しさがあり、胸の鼓動が速くなり、食事も喉を通らず、夜も眠れず、涙が止めどなく溢れてくるのに、目の前に小さく納まっているこの骨壷が幸子だなんて…。裕史は鈍器で頭を殴られたような思いでいた。息が今にも止まりそうになった。と同時に、その骨壷が幸子のものとは受け止め難いことだけが、86歳の裕史に正気を保たせていた。

裕史は大きく息を吸い、お鈴を鳴らし合掌した。線香をあげた後はしばらく言葉が出て来なかった。
間を置いて、幸子の母親が、裕史が持参した遺影をもらっても良いのかと尋ねた。
裕史はそのつもりで持参したが、門前払いを覚悟していたので、意外な反応だと思った。
祭壇にある遺影の幸子は、喪服を着せられ、まるで証明写真のようで表情を感じさせないものだった。
裕史が持参した幸子の遺影は、この世に生まれてきた喜びが見ている者にも伝わってくるような何とも眩しい笑顔だった。裕史は、幸子が家族のもとに笑顔で帰ることが出来たような気持ちになった。遺影を祭壇の上に寝かせて置いた。

「…納骨は、四十九日の11月5日にさしてもらいます」
母親が言った。
裕史も参列しても良いかと尋ねた。
母親はすぐには答えなかったが、ゆっくりと座椅子に腰をかけた後、ポツリと時間と場所を教えてくれた。
裕史は包んできた香典十万円を仏前にそっと置き、母親の方に向き直り、頭を深々と下げた。
母親は裕史が持参した遺影をじっと見ていた。

幸子の実家を後にした裕史は、タクシーを拾うため大通りまで歩いていた。
幸子が亡くなったあの日以来、車の運転を辞めたのだ。高齢者で家族が心配していたこともあるが、幸子を失ったショックにより、運転できるような注意力がないことを自覚していたからだ。
裕史は、住宅街の小さな通りを大通りに向かって曲がり、幸子の実家が遠ざかっていくと、だんだんと足取りが鈍くなってきた。歩くという動作さえ遮る程の幸子との思い出が去来した。声にならない声が口先まで到達する。苦しさを飲み込みながら、ゆっくりと呼吸を取り戻す。
声をあげて泣くことができれば、どれだけ楽になれるだろうか。
10月の半ばを過ぎ、肌寒くなっていた。
移りゆく季節に、裕史は自分だけが取り残されていくように感じた。
時折吹く冷たい風が、裕史にタクシーを捕まえさせた。
裕史は流れる景色を見ながら、この街のどこもかしこも幸子との思い出ばかりであると、アルバムを閉じるように目を瞑った。涙が頬を伝った。



〈写真・文 ©︎2021 大山鳥子〉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?