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【文化財紹介】百年前の謎の石柱文字に挑む
大阪歴史倶楽部です。
大阪市天王寺区の「口縄坂」にあります、100年ほど前のものと思われる謎の石柱をご紹介いたします。
今回は、この石柱に刻まれている文字の謎にも挑んでみました(写真も多く掲載いたしました)。果たしてその結果は…。
口縄坂とは
大阪市の地形は全体的に標高の低い平野が大部分なのですが、一部に標高の高いところがあります。それは「上町台地」と呼ばれているところで、断層(上町断層)によって形づくられた台地です。
この南北に稜線が走る上町台地の西側斜面にある坂のうち、大阪市天王寺区にある「天王寺七坂」と呼ばれる7か所の坂は昔から風光明媚な場所として知られていました。ここで紹介する「口縄坂」もその「天王寺七坂」のひとつで、昔はこの口縄坂から見える夕陽がとても美しいことで知られていました。なのでこの付近には「夕陽丘」という地名もあります。
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坂の上(東側)から見たところ
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坂の下(西側)から見たところ
大阪市出身の作家である織田作之助は、この口縄坂をとても愛していました。口縄坂は彼のお気に入りの場所だったのです。現在この口縄坂の上には織田作之助の文学碑が、坂の下には「大阪府立夕陽丘高等女学校跡」の記念碑があります。
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豆知識
織田作之助の文学碑に刻まれている文章は、1944(昭和19)年に彼が発表した短編小説『木の都』の一節です。
「口繩坂は寒々と木が枯れて、白い風が走つてゐた。私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思つた。青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直つて来たやうに思はれた。風は木の梢にはげしく突つ掛つてゐた」
と記されています。
謎の石柱
この口縄坂の上、織田作之助の文学碑がある場所から階段を数段おりると右側(北側)に小さな祠(地蔵堂)があります。祠の前にはロウソクを立てる燈明用の石柱が左右1本ずつ合計2本立っています。向かって右側の石柱には「楽天地北横」、左側の石柱には「八島洋食店」と大きく刻まれています。この地蔵堂は近年リフォームされましたが、2本の石柱は昔のままです。
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楽天地とは
「楽天地」というのは、大阪市中央区千日前の千日前通に面してあった映画・演劇・レストラン・ドーム型の展望台などの施設があった総合娯楽施設(いまでいう総合レジャービルのようなところ)で、1914(大正3)年に開業し1930(昭和5)年まで営業していました。
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大阪市立図書館デジタルアーカイブより
(画像管理番号1351) パブリックドメイン
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この楽天地が廃業して建物が取り壊された跡地には新しく「大阪歌舞伎座」が建てられ、大阪歌舞伎座が閉業したあとは「千日デパート」が開業し、その後「プランタンなんば」となり、現在は「ビックカメラなんば店」を中心とした「エスカールなんば」という専門店ビルになっています。
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大阪市立図書館デジタルアーカイブより
(画像管理番号1931) パブリックドメイン
石柱の謎に挑む
さて、この石柱に刻まれている「楽天地北横」とはどこなのか。そして「八島洋食店」とはどのようなお店だったのでしょうか。上記のように、千日前に楽天地があったのは1914(大正3)年から1930(昭和5)年までですから、この石柱もその頃に立てられたのだろうと推測できます。当時楽天地があった千日前からこの口縄坂までは南東へ直線距離で約1.2km離れています。
そこでまず「楽天地北横」という意味について考えてみたいと思います。「楽天地北横」といっても、楽天地の北側半分の周りはみんな「楽天地北横」になりますから、この情報だけでは正確な場所を特定することはできません。それに楽天地があった場所のすぐ北側は当時も現在も幅の広い千日前通で、楽天地があった頃には千日前通の真ん中を大阪市電が走っていました。
ですからこの「楽天地北横」というのは、楽天地の北側というよりは西寄りか東寄りだったのではないかと思います。すなわち楽天地の北西か北東を「楽天地北横」と表現しているのではないかと思います。文字の通りに解釈して楽天地のすぐ北側の横だとすると、千日前通の道路上で当時の市電の軌道敷(線路の敷地)の中になると思いますので、それは考えられません。または千日前通を挟んで斜め向かい側すなわち楽天地の斜向かいという意味かもしれません。
次に「八島洋食店」はどのようなお店だったのでしょうか。このことについては、大阪歴史倶楽部が持っている資料のうち、大正時代から昭和初期にかけての以下のような大阪市の事業者リストを確認してみました。
◎『大大阪営業名鑑』(1925年発行)全1910ページ。
大正14年の時点での大阪市の事業者約5万1千人を業種別に分類しその名前と住所などを掲載しています。
◎『大阪市商工名鑑』(1921~26年発行)全2704 ページ。
大正10年から大正15年までの大阪市の事業者約3万5千人を業種別に分類しその名前と住所などを掲載しています。
◎『帝国飲食料同業名鑑 近畿の部』(1926年発行)全256ページ。
大正15年の時点での大阪市の飲食業関係の事業者約7千人を業種別に分類しその名前と住所などを掲載しています。
◎『商工業者名鑑 大阪府』(1936年発行)全201ページ。
昭和11年の時点での大阪府の事業者約2万人を業種別に分類しその名前と住所などを掲載しています。
これらの中に「八島洋食店」というお店は掲載されていませんでした。かろうじて上記の大正14年発行の『大大阪営業名鑑』(1925年)の「飲食業」の項目に「八島チヨ(港区三軒家上之町144)」と八島姓の飲食業者1名の記載がありましたが、住所が港区三軒家となっていますので楽天地からは西へ約3km離れていますからこれは違うだろうと思います。
そこで国立国会図書館、大阪府立図書館、大阪市立図書館などの蔵書や資料なども調べてみましたが「八島洋食店」については何も出てきませんでした。
また、当時の地図もいくつか見ましたが、どの地図にも楽天地の周辺に「八島洋食店」の記載はありませんでした。
調査を依頼
この謎の石柱について大阪歴史倶楽部は私達の力不足を感じましたので、大阪市立中央図書館内にある「大阪資料室」という大阪市内に関する歴史等の資料調査専門部署に「八島洋食店」についての文献調査を依頼しました。依頼してから約1週間後にいただいたお返事(調査結果)を要約しますと、
(1)「八島洋食店」について、当時の地図や電話帳、商工名鑑などを調査したが、掲載されている資料は確認できなかった。
(2)口縄坂にある祠(地蔵堂)に関しても、詳細がわかるような資料は見つからなかった。
(3)口縄坂の祠(地蔵堂)の近くにある珊瑚寺さんに聞いても何もわからないということだった。
という結果でした。
謎は続くよどこまでも
結局、大阪歴史倶楽部の調査でも、大阪市に関するありとあらゆる資料のエキスパートである大阪市立中央図書館の大阪資料室さんによる調査でも、この「楽天地北横」という場所も「八島洋食店」についても、口縄坂の「地蔵堂」についても、そしてどのような理由で「楽天地北横」の「八島洋食店」さんが、口縄坂の地蔵堂の前にこの石柱を建立したのかについても、まったく何もわかりませんでした。これからも、大阪歴史倶楽部はボチボチ、コツコツと時間をかけて調査を進めて参りたいと思っています。
歴史というのは不思議なもので、千年前のことでも詳しくわかっていることもあれば、たった100年前のことでも、今回のように何もわからないこともあるのです。おもしろいですね。
文化財データ
口縄坂地蔵堂前の石柱
大阪市天王寺区夕陽丘町5-5
1914(大正3)年~1930(昭和5)年頃の建立か?
写真:2022年1月 大阪歴史倶楽部 撮影
口縄坂への行き方
口縄坂へは、大阪メトロ谷町線の「四天王寺前夕陽丘」駅2号出口から西へ約200m(徒歩約3分)です。
「四天王寺前夕陽丘」駅2号出口をでると、目の前に大通り(谷町筋)があります。その谷町筋にそって北へ50mほど進むと左側に道路(T字路)がありますので、そこを左折して(すなわち西へ曲がって)まっすぐ150mほど進むと(途中から少しだけ道幅が細くなりますが)すぐに口縄坂の上に出ます。織田作之助の文学碑があって目の前に坂をおりる石の階段があります。
その織田作之助の文学碑のところから階段を数段おりると右側(すなわち北側)の壁ぎわに地蔵堂と謎の石柱があります。
おわりに
もし皆さまがこの「謎の石柱文字」に興味を抱かれましたなら、この歴史のミステリーの解明に挑まれてはいかがでしょうか。おもしろいかもしれません。
なお、ここで紹介いたしました口縄坂の石柱を見学したり写真や動画などを撮影されるときには、周辺の方々のご迷惑にならないようご配慮をお願いいたします。
また許可なく柵や塀の中や他の人の敷地内に入ったりはしないようお願いいたします。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
(『大阪歴史倶楽部』第2巻 第8号 通巻18号 2022年2月26日)
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