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【文化財紹介】大大阪の美しいビル 〜綿業会館〜

【2023年1月1日/大阪歴史倶楽部】

新年のごあいさつ
皆さま。
明けましておめでとうございます。
大阪歴史倶楽部です。
本年も何卒よろしくお願いいたします。

さて今回は、大阪市中央区にあります昭和初期に建てられたモダンなビルをご紹介いたします。


綿業会館(綿業倶楽部)

綿業会館めんぎょうかいかん綿業倶楽部めんぎょうくらぶ)の建物は、大阪市中央区ちゅうおうくのいわゆる「船場せんば」と呼ばれる地域の中にあります。

現在の大阪市のメインストリートである御堂筋みどうすじが1937(昭和12)年に開通するまでは、堺筋さかいすじが大阪市のメインストリートでした。綿業会館は、その堺筋から1本西へ入った三休橋筋さんきゅうばしすじ沿いに西側を正面として建っています。

この綿業会館は、紡績繊維ぼうせきせんい業界の団体「日本綿業倶楽部にっぽんめんぎょうくらぶ」の施設(迎賓館)として1931(昭和6)年に建てられました。開館にあたっては渋沢栄一しぶさわえいいち氏が顧問として就任しました。

綿業会館は、戦前には日本を代表する国際的な会議場としても利用され、開館翌年の1932(昭和7)年には国際連盟からリットン調査団も訪れています。

【豆知識】
大阪の「筋」と「通り」
現在の大阪市内の道路は「〇〇すじ」「〇〇とおり」と呼ばれています。南北方向の道路が「〇〇すじ」(御堂筋、堺筋など)で、東西方向の道路が「〇〇とおり」(土佐堀通、本町通など)です。

また、大阪城から遠ざかるほど住居表示の「〇丁目」の数字が増えて行きます(すなわち1丁目よりも2丁目のほうが大阪城から遠いということになります)。


外観の写真

以下は綿業会館の外観の写真です(2022年12月 大阪歴史倶楽部 撮影)。

(01)綿業会館 全体(南西から)
(02)綿業会館(南から)
(03)綿業会館 (南西から)
(04)綿業会館 玄関部分(南西から)
(05)綿業会館 玄関部分(北西から)
(06)綿業会館 玄関正面(西から)
(07)綿業会館 玄関の上部(西から)

この綿業会館は、大正時代から昭和初期にかけて大阪市がもっとも繁栄していた「大大阪時代だいおおさかじだい」の雰囲気をよく伝えている建物だと思います。国の重要文化財となっています。


建物の特徴
綿業会館はルネサンス風の様式で、明るくシンプルで品格のある洗練された外観を持っています。構造は鉄骨鉄筋コンクリート造で、地上6階、地下1階建です。

設計を担当したのは(後に大阪府建築士会会長、没後に日本建築士会名誉会長となった)渡辺節氏で、若き日の村野藤吾氏もこの綿業会館の設計に参加していました。

玄関の鉄製の扉や1階部分の美しい石積みのアーチ型の窓、そして2階以上の外壁には当時たいへん流行していた黄褐色のタイルを貼っています。また2階の窓前には石製の手摺があり、これらの特徴はこの建物の風格を際立たせています。

この建物は竣工当初、すなわち今から100年近く前から冷暖房完備でした。また窓ガラスも竣工当初よりワイヤー入りの耐火ガラスが使用されていたということです。このことが幸いして1945(昭和20)年の大阪大空襲でもほとんど被害が出なかったと伝えられています(猛烈な空襲に遭ってもほとんどのガラスが割れなかったと伝えられています)。

このように、この綿業会館には当時の最新・最先端の建築技術が用いられていたことも注目に値すると思います。


綿業会館への行き方

綿業会館へは、大阪メトロ御堂筋みどうすじ線「本町ほんまち」駅1号出口から北東へ約400m(徒歩約7分)または大阪メトロ堺筋さかいすじ線「堺筋本町さかいすじほんまち」駅17号出口から北西へ約500m(徒歩約8分)です。

行き方の目安は、大阪メトロ御堂筋みどうすじ線「本町ほんまち」駅から行く場合「備後町びんごまち3」の交差点(堺筋さかいすじ線「堺筋本町さかいすじほんまち」駅からの場合は「備後町1」の交差点)から備後町通びんごまちどおりを東へ(堺筋線からの場合は西へ)200mほどまっすぐ進むと三休橋筋さんきゅうばしすじとの交差点があります。綿業会館はその交差点の北東角に建っています。

【文化財データ】
綿業会館
大阪市中央区備後町2丁目5-8
1931(昭和6) 年 竣工
鉄骨鉄筋コンクリート造、地上6階、地下1階建
設計:渡辺節
※国の重要文化財

写真:2022年12月大阪歴史倶楽部 撮影


おわりに ―束の間の栄光(大大阪の時代)―
大阪市が「大大阪だいおおさか」「モダン都市大大阪だいおおさか」「モダン大阪」などと呼ばれていた頃(すなわち「大大阪時代だいおおさかじだい」)。それは、大阪市が繁栄を極めていた大正時代の後半から昭和の初めごろの十数年間の短い期間をさします。

大大阪時代の大阪市は、人口においても経済規模においても首都東京を上回り、都市計画の面でも日本の最先端を行く街でした。束の間でしたが、この時代の大阪市は日本一輝いていて、東洋では最大、世界でも6番目の規模を誇る活気に満ちた大都市となっていました。

この時期の大阪市ではあらゆる産業が発展し、学問・芸術・文化が花開いていました。モボ・モガ(モダンボーイ/モダンガール)たちが街を闊歩していた華やかな時代でした。

大阪市のなかでも船場せんばと呼ばれる地域(概ね北浜から心斎橋しんさいばしあたりまで)は、当時の大阪経済の心臓部でした(いまも同様に大阪経済の中心地です)。このような時代、このような場所にこの綿業会館が建てられました。その洗練された品格ある佇まいは当時の栄光をいまも伝えていると思います。

この繁栄を謳歌していた大大阪の時代は、その後の太平洋戦争(大東亜戦争)によって瓦解しました。

なお、ここで紹介いたしました綿業会館の建物を見学したり写真や動画などを撮影されるときには、所有者さんや管理者さん、周辺の方々に不快感を与えたりご迷惑にならないよう充分なご配慮をお願い致します。

また許可なく他の人の敷地内に入ったりしないようお願いいたします。とくに建物内部の撮影はセキュリティの関係もありますので、必ず所有者さんや管理者さんなどの許可を得てくださいますようお願いいたします。

今回も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

【参考サイト】
『日本綿業倶楽部』
(綿業会館さんオフィシャルサイト)


【おもな参考資料】
◎『国指定文化財等データベース』文化庁 2022年版
◎『文化遺産オンライン』(Web 版)2022年
◎『大阪市(中央区の都市景観資源)』(Web版)大阪市 2022年
など。


(『大阪歴史倶楽部』第2巻 第1号 通巻9号 2023年1月1日)

©2022-2023 大阪歴史倶楽部 (Osaka Historical Club)
無断引用・無断転載等を禁じます。

※次号は2023年2月1日に投稿する予定です。

《次号予告》
【文化財紹介】
(内容未定)
いつものように近代の文化財をご紹介させていただきたいと考えています。

※予告内容は変更する場合があります。ご了承ください。

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