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天然の目覚まし時計


私はイヤホンが苦手である。

音楽を聴くのは好きだし、学生の頃は、夜中に勉強しながらラジオを聴いたりもしていたから、持っていなかった訳ではない。大学時代には、演劇の音響の担当もしたりもしたので、その時は今より抵抗なく使っていたと思う。

最近ではかっこいいワイヤレスタイプも沢山出ているようだ、と言うかそちらが主流なのだろう。
ただ、この10年は私は全く触っていない。
イヤホンにしてもヘッドホンにしても、耳に蓋をしてしまうあの感覚が、好きではないようだ。

通勤時間、英語の勉強でもしようと何度か思ったことがある。隙間時間の聞き流しレッスン。でも耳をふさがれるのがいやだから、リスニングは自宅でないと無理だな、と判断した。

苦手な理由は、耳が塞がれる感覚だけではないと思う。私は、今これを聞いているのですよ、と見た目に分かる、外部へのやんわりとした意思表示。だから話しかけないでね、と言われているような‥とまでは考えすぎかも知れないが、少なからずそういう意図の人はいると思う。

イヤホンをしていても他の音は聞こえる。一応。
だから話しかけられたり、何かブザーやアラームが鳴るような緊急の事態になっても、聞こえているから大丈夫。理屈上は。

でも、現実には、イヤホンをして目を閉じてしまえば、その人は積極的に外と関わるつもりがないと、周りは感じるのではないだろうか。

(そう言えば、最近歩きながら、あるいは自転車をこぎながら一人で喋ってる人を見かけることも多くなった。最初見た時はギョッとした。ハンズフリーで今話し中なのだと分かってからも、時代遅れの私は、見かけると未だドキッとしてしまう。)

今朝、ウグイスの鳴き声で目が覚めた。
時刻は4時50分、爽やかな早朝の空気。まだアラームまで30分ある。
このまま起きれば朝活バッチリだったのに、鳥のさえずりをBGMに、気持ち良く二度寝してしまった。日曜日だし、まぁいいか。

サウンドスケープ という言葉がある。訳すと、音の風景。1960年代後半に、カナダの作曲家マリー・シェーファー という人が提唱した、サウンド(音)とランドスケープ(風景)の、元々は造語である。
(アメリカの作曲家 ジョン・ケージが、会場で聞こえる全ての音=作品として、「4分33秒」を作曲?したのはそれより前の1952年のこと。)

私がこの概念を知ったのは大学生になってからだが、音環境という言葉、耳をひらくという感覚は、そこから常に頭のどこかにある。
でもそれより何より、イヤホンの中だけに世界を求めるのは、もったいない気がしてしまうのだ。

街中にいれば、聴こえてくるのは綺麗な鳥の声ばかりではない。ないけれど、私はいつも耳を開けておきたい。

※ここまで書いて、世の中にはいろんな理由からイヤホンをつけて生活されている人がいるだろう、とも思いました。個々の事情があるでしょう。少なくとも、私の場合はこう感じるという視点でした。気分を害される方がいれば、私の表現の拙さによるものです。ごめんなさい。

さて、6月に入って5日間、毎日投稿にトライした。
息子には、また携帯触ってるの?と問われ、画面にも、今週の操作時間は何時間増えました、と出て、その増加に自分でも少しひいてしまった。
書くのは楽しいし、いろいろ内容を考えるのも、たったの5日ではまだまだ飽きなかったけれど、来週からは、またボチボチ投稿に戻そうと思う。

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