生活世界の植民地化に抗して ハーバーマス『コミュニケーション的行為の理論』
◆ご挨拶
こんにちわ、だいなしキツネです。
今日は、ユルゲン・ハーバーマス『コミュニケーション的行為の理論』を台無し解説していくよ!
◆ユルゲン・ハーバーマスとは?
ユルゲン・ハーバーマスは、1929年にドイツで生まれた社会哲学者だよ。10歳の頃に第二次世界大戦が始まって、15歳のときにはヒトラー・ユーゲントに属していたそうな。1945年に第二次世界大戦が終わったときには、戦争と全体主義から解放されたという安堵を覚えたそうだよ。ナチス体制の悲惨な状況が白日のもとに晒されたとき、このような惨事をふたたび引き起こしてはいけないという責任感がハーバーマスの中に芽生えたようだね。
ハーバーマスを一躍有名にしたのは、24歳の頃、ハイデガー(※日本の哲学に大きな影響を与えた三木清や九鬼周造、カール・レーヴィット等の先生)の『形而上学入門』を痛烈に批判してセンセーションを巻き起こしたことだ。戦後に発刊されたこの本の中には、ナチスについて「この運動の内面的な真理と偉大さ」と称える文言が残されていた。ハーバーマスはこれに衝撃を受け、ハイデガーのナチス加担は単なる処世術ではなく、ドイツの伝統を引き受けた彼の哲学の本質に基づくものなのではないか、人間の独自性を強調して「人間は本来的な生き方に目覚めなければいけない」という独りよがりが創造的だというだけで暴力を賛美したり独善的な決断主義を呼び込んだりするのではないか、と批判した。そして、理論と実践は決してバラバラのものではなく、一体のものだと考え始めた。
このあとハーバーマスは、フランクフルト学派に参加して批判理論の薫陶を受ける。フランクフルト学派とは、フランクフルト大学の社会研究所を拠点とし、ホルクハイマーとアドルノを第一世代とする一派だよ。二人の共著『啓蒙の弁証法』が有名だね。この本は、「なぜ人類は、真に人間的な状態に踏み込む代わりに、新たな野蛮へと落ち込んでいくのか」を問うものだよ。20世紀の野蛮な殺戮は、高度な計画性とテクノロジーに裏付けられていた。しかも、その殺戮は何らかの正当化根拠をおおっぴらに掲げて行われていた。かくも悲惨な近代とはそもそも何なのか、その答えを見出そうと藻搔き苦しむ昏い時代の作品だ。ハーバーマスは、その裏付けとなる批判理論(※現存している社会のあり方を所与のものとして受け入れる伝統的理論とは決別し、自らが矛盾に貫かれた社会に置かれていることを自覚して、それを批判的に検討することで社会そのものに矛盾を廃棄させようという実践的関心をもつ理論)を自らの模範とするようになる。
さて、ここから本題の『コミュニケーション的行為の理論』に至るまでには、長い論争の歴史を経なければならない。ハーバーマスは人類の歴史上トップクラスにストローマン論法(※相手の理論を歪めて理解し、それに対して反論する)が得意な人で、いくつもの論争に首を突っ込んでは引っ掻き回して去っていくんだ。だから論争の相手はいつも適当にハーバーマスの意見をあしらうのだけど、ハーバーマスをみるうえで面白いのは、ハーバーマスの視点そのものはいつも興味深いこと、そしてハーバーマス自身は論争の相手から色んなものを学び取って自分の理論に活かしていくことだ。つまり、「納得いかないところはあるけれど他の点は素晴らしいから参考にします」という姿勢で論争に参加するんだね。以下、代表的なものを簡単に見ていこう。
1.実証主義論争
まずはカール・ポパーとの論争が有名だね。カール・ポパーは『開かれた社会とその敵』などの著作で、全体論的な思想を攻撃した。つまり、批判理論のように理論と実践を一致させて社会全体を特定の方向に誘導する思想は、全体主義へとつながるリスクがあって危険なんだ。むしろ理論と実践を区別した上で、自由に反証が可能な状態を確保しなければならない。科学というのはいつでも反証され得るけれども当面は反証できないので真理として扱う、という規約的なものに過ぎない。すなわち、科学的な真理は客観的な真理と一致しているから真理と呼ばれるのではなく、真理への純粋な関心を有する科学者集団から差し当たり反証できないという合意が取れているから真理なのである(※真理の合意説)。
これに対してハーバーマスは、科学者集団もまたその社会的生活関係をもっており、その意味で社会全体から無縁ではない。この社会全体にすでに先取りされてしまっている構造を批判的に検討する必要があるだろう。また、科学は単に客観的真理を目指すものではなく、その認識に基づいて自然をコントロールするという実践的な関心に基づいているものであるから、理論と実践の関係を等閑視することはできない、という。
……というものの、真理の合意説は大変魅力的なので貰っていきましょう、あと、社会を一個の主体であるかのように捉えるのは危険ということですねわかりました、というのがハーバーマスであった。
2.解釈学論争
つぎにハンス・ゲオルク・ガダマーとの論争が注目に値するね。ガダマーはハイデガーの存在論的研究を哲学的解釈学に応用した『真理と方法』という本で有名だよ。解釈学とは、もともと聖書解釈などで活用されていたテクストの解釈技術を「理解」の一般理論として哲学的に彫琢したものだね。すなわち、キツネたちが何かを理解しようというときには、必ずその理解を妨げる何らかの要素が存在している(※そうでなければ理解しようと思うきっかけがないはずだ)。つまり、理解を誘う何らかの要素に立脚してはじめて理解しようという行為が始まり、だからこそ本当に理解できているのかどうかを問うという反省的な営みも始まる。何かを理解するという行為には、このような先行的な営みがあるんだね。この漠然とした理解の営みを、理解の先行構造と呼ぶ。ハイデガーは「存在とは何か」を理解したかったから、とりあえず人間が漠然と先行的に理解しているであろう「人間が現に存在しているとはどういうことか」を問題とした。ガダマーはこれを参考にして、哲学的解釈学の一般的方法をつくりあげた。それは、キツネたちが属している伝統というものがいつの間にか物事の基本的な理解、つまり先入観を形成しており、何かを理解するということはこの伝統への参加にほかならず、テクストが有する過去の地平と解釈者が有する現在の地平が融合したところにこそ解釈が成立する、ということ。そして、このようにテクストを介して対話を行う解釈学を出し抜く学問は存在しえないという意味で、解釈学は普遍妥当性を有する。
これに対してハーバーマスは、解釈学は自己を社会の中で相対化することができず、伝統がイデオロギーと化し得るが、伝統の権威は解釈者の批判と変革を許さないほどに堅固なものではない、という。
……というものの、言語を介して対話を行うことが普遍妥当性を有するという発想は大変素敵ですね、貰っていきましょう、というのがハーバーマスであった。
3.システム論論争
最後にニクラス・ルーマンとの論争を眺めよう。ニクラス・ルーマンは実証主義の系譜を受け継ぎながら、社会システム論というユニークで壮大な理論を打ち立てた人物だよ。社会システム論とは、環境と社会システムの関係を生物のモデルに則って構想、統御しようというものだ。生物は環境の中で独自のシステムを形成する。すなわち、自身の外部である環境の複雑性をそのまま受け取るのではなく、自身でコントロール可能な範囲に縮減して環境と接する。環境の中に多様な生物がいるということは、環境の中に多数の縮減が生じているということであり、逆にいうと、この縮減の多さが環境そのものを複雑化していく。社会システムもこれと同じではないか。生身の人間は当然環境に属しており、人間の総体である人間社会(ゲゼルシャフト)は一番広い社会システムを構成する。そして、その社会システムを縮減する形で、人間社会の中には多数のサブシステム(※経済システム、政治システム等)が形成される。サブシステムからみると、他のシステムは自身の外部たる環境に他ならず、システム同士は相互に作用しあう。社会システム論の目標は、人間社会のシステムをきちんと人間がコントロール可能なものとして設計すること、その見通しを得ることである。
これに対してハーバーマスは、人間の文化や理念は常に再生産が必要であるが、これは必ずしも制御に馴染まないものだ。つまり、これらは特定の専門家集団に技術的にコントロールされるのではなく、自由な表現と討論を必要とする。これを制御の対象とするのは技術至上主義の傲慢だ。
……というものの、貨幣や権力など人間の制御を要するメディアが存在するのも事実であって、これにシステム的な見通しを与えるという提案は魅力的ですね、採用しましょう、というのがハーバーマスであった。
以上が『コミュニケーション的行為の理論』に至るまでのハーバーマスの論争史だよ。『コミュニケーション的行為の理論』はハーバーマスの集大成だから、これまでの論争の成果がすべて注ぎ込まれているんだ。とはいえ、これ以外にもたくさんの思想家の影響を受けているのがハーバーマスだ。『コミュニケーション的行為の理論』の中では、マックス・ヴェーバー、タルコット・パーソンズ、ジョン・L・オースティン、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、チャールズ・サンダース・パース、ジョージ・ハーバート・ミード、ヴィルヘルム・ディルタイなど錚々たるメンツが参照される。彼らの議論を批判的に吟味しながらパッチワークのように繋いでいき、自説を補強するのがハーバーマスの流儀だね。残念ながらこれを逐一追っていくと何時間あっても足りないから、ここからは、他の思想家には極力言及せず、ハーバーマスが言いたかったことにだけ焦点を当てて紹介していくよ。
◆『コミュニケーション的行為の理論』とは?
『コミュニケーション的行為の理論』は、1981年に発表されたハーバーマスの主著であり、これまでの議論を総括するものだよ。近代哲学はいったん全てカントに流れ込んで、カントから流れ出たなどといわれることがあるけれど、ハーバーマスのこの本もまた、カント以後の思想をほぼすべて掌中におさめて展開されるものだ。そうした点でも現代哲学において重要な地位を占める著作だとキツネは思うね。ここでは、ハーバーマスが重視する近代とは何のことか、近代を特徴づける合理性とは何か、そしてコミュニケーション的行為とは何か、現代の弊害はどんなところにあらわれているかを確認するよ。
先にかいつまんで紹介しておくとね、ハーバーマスの目標は、人間同士の歪みのないコミュニケーションを通じて真に民主主義的な社会を実現すること、そのために必要なのが脱宗教化を推し進めた近代のプロジェクトを完成させること、その具体的な方法として、コミュニケーション的な合理性の意義を再確認し、これを守り抜くことだ。
1.近代とは何か
近代とは合理化の過程、すなわち脱宗教化の過程である。宗教的社会においては、社会が統一的な理念に従って、その客観的真理性、社会的正当性、主観的誠実性に異議を申し立てる機会が許されなかった。これらは宗教的権威に抑圧されていたのである。しかし、プロテスタンティズムが宗教的禁欲の理念とともに世俗的な経済活動を促進したため、まずは資本のシステムが独立し、社会システムの一部が宗教から切り離されることとなった。これを嚆矢として宗教的権威からの解放が進み、近代的意識構造が生まれることとなる。近代的意識構造は、客観的世界、社会的世界、主観的世界の認識それぞれに妥当性要求(※それってほんとに正しいことですか、根拠はあるんですか)をなし、分化独立する傾向をもつ。それぞれの世界が分化独立した結果として、人間社会には、システムと生活世界の二つの領域があらわれる。システムとは、貨幣と権力に代表されるもので、人間が生活を営む上で異議申し立てのコストを削減する役割を果たす(※民主的な法律を定めて皆で従うことにしたり、貨幣に基づいて商品交換したりする。これに疑義が生じるときも、裁判規則に基づいて紛争解決する)。生活世界とは、人間の私生活と公共生活を支える資源となる世界のことで、人間の文化や道徳、民主的理念などはここで育まれる(※キツネたちが日常生活を気ままに営む場所のことだね)。このときようやく、近代を基礎づける合理性が誕生したのである。
2.近代の合理性とは何か
合理性には、道具的・技術的関心に導かれて事物を操作するという戦略志向型のものと、人間が相互に人格を認め合って合意を模索するという了解志向型のものとの二つがある。後者の存在を忘れると、戦略志向型の合理性のみを重視することになり、民主主義は骨抜きとなる。ホルクハイマーとアドルノが恐れていた近代の野蛮とは、了解志向型の合理性を等閑視して、戦略的に人間をコントロールしようと理性が暴走している状態のことだ。ナチズムやスターリニズムを代表とする全体主義は、この病に侵されている。しかしながら、近代化の成果が戦略志向型の合理性に尽きると勘違いしてはならない。誰もが自由に抑圧を受けずに発話できるという理想的な状況のもとで、他者との合意を模索するという了解志向型の合理性を尊重すれば、この困難は克服できる。その意味で、近代はいまだ完成していないのである。
3.コミュニケーション的行為とは何か
了解志向型の合理性に基づいたコミュニケーション的行為は、主に生活世界の地平で行われる。コミュニケーション的行為とは三つの妥当性要求のことである。すなわち、客観的世界においては真理性が、社会的世界においては正当性が、主観的世界においては誠実性が問題となる。(※例:仕事の休み時間に上司から水を取ってこいと言われた。客観的真理性に関しては、休み時間内に水を入手できる環境にあるのかが問題となる。社会的正当性に関しては、休み時間に上司の命令を聞くのが適切かが問題となる。主観的誠実性に関しては、上司が本当に水を欲しがっているのかが問題となる。)人間社会はいつでも間違い得るものであるから、この妥当性要求は常に開かれていなければならない。そうすることで人間社会の意味資源は補充される。つまり、科学的真理が更新されたり、道徳規範が刷新されたり、芸術表現が発展したりする。これによって個々人の生活はより充実したものとなる。
4.生活世界の植民地化
しかるに、現代社会では生活世界の植民地化が懸念される。というのは、往々にして近代の合理性は戦略志向型のものに切り詰められてしまい、理想的発話状況は実現していないからだ。民主主義の理念を重視した、討議倫理学の登場が待たれる所以である。また、現代では貨幣と権力のシステムが先鋭化しており、生活世界や公共性そのものが技術的操作の対象となっている。政治は社会の構成員に向けた広告となっており、貨幣は人間のあり方を根本から規定してしまう。生活世界がシステムに隷属し、植民地化しているのである。
新たな抗争は、システムと生活世界の接点で生じる。哲学は多様な理論の相互干渉の場であり、人間が可謬的であるという理解をその本性とする。コミュニケーション的行為の重要性を思い起こすことは、生活世界の植民地化の圧力に抗する手段に他ならず、決して軽視してはならない。
以上が『コミュニケーション的行為の理論』の概要だね。駆け足だと思った君は、本文にあたろう。キツネより賢い君ならば、もっと色んなことが汲み取れるんじゃないかな。
ハーバーマスはこのあと、未完のプロジェクトとしての近代の理念を擁護するために、ポストモダンの哲学者であるデリダやフーコーらを反-近代合理主義者と見做して対決するよ(※ハーバーマスによる決めつけ)。また、討議倫理学の実現に向けて具体的な方法を模索していく。
◆ハーバーマスの問題点?
ところで、ハーバーマスの議論が腑に落ちないと思った人はいるだろうか?
たしかに戦略志向型の合理性だけでなく、了解志向型の合理性を重視して、健全な民主主義社会をつくり上げようという目標は立派なものだ。しかし、彼のいう理想的な発話状況とは、いつ、どのようにして実現するのだろうか?
そして、例えばそもそも発話できない人、コミュニケーションに参加する能力を何らかの理由で失っている人は、どうなるのだろうか?
ハーバーマスは、排除に反対することを信条とする人だから、発話できないからといってコミュニケーションから排除する気はないだろうね。とはいえ具体的なアイデアを持っているかと問われればそうでもないんだ。彼は、本当に困難な問題には口を閉ざす傾向がある。キツネのような獣の権利はどう考える? まだ生まれていない未来の世代の権利はどうする? コミュニケーションを断固として拒絶する人が暴力的な行動に出る場合にはどうなる?
かろうじてその答えを模索しようという試みが、法と道徳の議論だ。道徳は生活世界における規範、法は生活世界とシステムをつなぐ規範として捉えられているよ。これはハーバーマスの第二の主著『事実性と妥当性』の主題となる。とはいえ先取りしていうと、見通しはかなり厳しい。民主主義を大切にしようという優しい世界でならば有効なその議論が、暴力と差別が蔓延る現代の処方箋となるのかは大いに疑問だ。キツネ個人としては、マルチチュード(※多様性を前提とした民衆概念。ネグリとハート『帝国』参照)の考え方を応用して、SNS等の双方向メディアを通じた新たな不服従の在り方、共同体ベースではなく論点ベースの討議形態を検討したいところ。また、権力による制限を否定する「切り札としての権利」(※ドゥオーキン『権利論』参照)のように、思想信条の自由や表現の自由の一部については個人が最後の切り札を持つという発想も重要だね。
その他にキツネが気になるのは、この世界が可謬的なものだとして、それを絶えざる批判にさらす要請はどこからくるのか。「批判が可能でなければならない」ということと「批判しなければならない」ということは違う。仮に社会の構成員が一人も異議を申し立てなければそれでよいのか。それでよいなら、これはハーバーマスがいうところの前近代ではなかろうか。そうじゃないぞ、絶えざる批判にさらす必要があるんだぞと主張するなら、その根拠が必要だけど、その根拠を与えてくれるのはハーバーマスではなく、彼が揶揄していたデリダじゃないかな(※「どのような法も法である限り創設の原-暴力を含んでいる。法が正義と完全に一致することはない。全ての法は脱構築可能であり、それは正義が脱構築できないからだ。」『法の力』参照)。法の定立と運用は常に問題化する必要がある。その意味で、適正手続の保障と違憲審査制の実効性確保は喫緊の課題であり続ける。
また、ハーバーマスは西洋中心主義者だと批判されることがある。実際、ハーバーマスが依拠する近代化の過程は西洋で実現したものだし、『コミュニケーション的行為の理論』の中には西洋以外の文化に対して「未開」だと表現する箇所がある。この世に成熟していない幼稚な文化などないと主張したレヴィ=ストロースの議論はハーバーマスには響かなかったみたいだね。しかしキツネの見立てでは、生活世界の深淵をのぞき込むことについて東洋は西洋の比ではない。ハーバーマスは生活世界を言語的に了解可能な範囲に限って把握する傾向があったけれど、もともとフッサールが展開した生活世界の概念は前科学的で前言語的な地平を有していた。この点、フッサール研究で有名なメルロ=ポンティは、言語以前の身体性の次元をより強く意識している。そのメルロ=ポンティと似通った議論が道元『正法眼蔵』に見られるということはご存知だろうか(※南直哉『正法眼蔵を読む』参照)。そもそも、言語的な意味分節が行われる以前の世界の探究と、その意味分節のあり方の考究が広く東洋思想に通底しているという事実は、もっと認識されてよいだろう(※井筒俊彦『意識と本質』参照)。
以上の難点をもってハーバーマスの議論を切り捨てるのは早計だ。そう、大切なのはコミュニケーションさ。獣の主権を主張するのはキツネ自身の役割だし、西洋中心主義を相対化するのは東洋に生きる者が行えばいい。それをするための土壌をつくろうぜ、というのがハーバーマスの提案で、キツネはそれについて反対する気はさらさらない。「俺たちは戦って強くなる」というのが弁証法の理念で、ハーバーマスが依拠する批判理論は弁証法の発展形態の一つだよ。議論するというのは決して無益なことではない。自分の立場から一個の意見を提出すること、そして他者のそれを聞き取ること、これがキツネたち一人ひとりの果たすべき役割なのさ。
というわけで、今日はユルゲン・ハーバーマス『コミュニケーション的行為の理論』を台無し解説してみたよ。
ちゃんと台無しになったかな??
それでは今日のところは御機嫌よう。
また会いに来てね! 次回もお楽しみに!
◇参考文献
ユルゲン・ハーバーマス『コミュニケイション的行為の理論』(未来社)
ユルゲン・ハーバーマス『事実性と妥当性』(未来社)
ユルゲン・ハーバーマス『討議倫理』(法政大学出版局)
ユルゲン・ハーバーマス『近代 未完のプロジェクト』(岩波書店)
ユルゲン・ハーバーマス『近代の哲学的ディスクルス』(岩波書店)
ユルゲン・ハーバーマス他『批判理論と社会システム理論』(木鐸社)
アドルノ/ポパー他『社会科学の論理、ドイツ社会学における実証主義論争』(河出書房新社)
村上隆夫他『ハーバーマス』(清水書院)
中岡成文『増補ハーバーマス』(筑摩書房)
アントニオ・ネグリ他『帝国』(以文社)
デリダ『法の力』(法政大学出版局)
ロナルド・ドゥウォーキン『権利論』(木鐸社)
井筒俊彦『意識と本質』(岩波書店)
メルロ=ポンティ『見えるものと見えざるもの』(法政大学出版局)
南直哉『『正法眼蔵』を読む』(講談社)