アメリカに居た時のハナシPart5
時間はかかったが
アメリカでデビューし
日本に戻るもプロレス活動する場所が無く
途方に暮れる
そんな中、誘われて参戦したマットプロレスから
何故か客席に居た崔領二......
Part5.....(最終話)
何故か分からないがマットプロレスの客席に居た
崔さん
挨拶もする事無く会場を出て行かれ
何だったんだろう...
と?マークなままその日は終わった
そしてそれから数日後.....
2度目の渡米
前回も書いた様に
今回の渡米は完全に思いつき
何も計画してなかった
航空券もとにかく安いやつを探した
そしたらかなり時間かかるが
東京→インド→NY→マイアミ
というものがあった
他より数万円安かった
これがハードだった......
まずインドまで約10時間くらいのフライト
しかも自分の席のモニターが壊れてるのか
観たい映画のラスト20分くらいで突然メニュー画面に戻るというバグ!
何度試しても一番観たい所からメニュー画面に飛ぶ!
非常にモヤモヤした10時間でした....
そしてインドのニューデリー空港に到着
乗り換え時間は10時間.....
一度外に出る事も考えたが万が一が怖いから
ひたすら空港で待った
飛行機乗って10時間
空港で10時間
もうこの時点で1日だ
そしてそこからNYまで
約15時間.........
もう寝るのにも疲れるレベル....
NYに着き
そこで6時間待つ........
もう出発から2日.....
2日弱かかり
遂にマイアミへ
前回のスーツケースを乗り換えで置いてかれたのもなかなかだが
安いからと言ってハードな旅程も良いものではなかった....
しかしとにかく2度目のフロリダ
着いた次の日、即道場に行った
また再び大好きなプロレスに触れれる!
練習の日々が始まった
今回の渡米に大きな目標はなかった
団体のスケジュールもあまり確認せずに....
とにかくリングでの練習が嬉しかった
2度目にもなると生活もスムーズになり
練習にもチカラが入った
ただ日本に帰ったらどうすれば良いのか分からない
またお先真っ暗になる.....
というネガティブな感情が毎晩の様に込み上げて来た
プロレスって
難しいな
色々...........
練習とマイアミでの生活がとにかく楽しいだけに
ふと我に帰るの事がよくあった
さて試合だ
スケジュールを確認せず来た
残念ながら2度目の渡米は
2試合のみだった
しかし良き思い出となる
試合は第一試合で
親友のエリックと
ダイビングヘッドバッドで初めて勝利した
勝利ももちろん嬉しかったが.....
試合後
会場を歩いてたら呼び止められた
"日本人の方ですか?"
マイアミに来てからデイビッド以外からは
サムライ
アニメ
サヨナラ
アリガト
などカタコトの日本語しか聞いてこなかったが
めちゃくちゃちゃんとした日本語で話しかけられて
最初わからなかった
呼び止めてくれたのは
日本人の男の子とそのお母さん
お父さんはアメリカ人で
今、この会場の近くに住んでて
WWEが好きだから見に来たとの事
マーリンズの球場ですら1人か2人観光客で見る程度のフロリダでの日本人遭遇率
そのご家族もこの地域で日本人に会ったのは初めてとの事
一緒に写真を撮ってと言われて
アメリカでのファン1号は
その男の子だった
時系列は飛ぶが
それから6年経った今年
コウタくんから連絡が来た
成人して日本に引っ越した
そして試合を見に行こうと思う
と連絡が来た
1月、大日本プロレスの保土ヶ谷大会に来てくれた
自分のアメリカ時代と今をどちらも知ってくれてるなんて
プレイヤーとして本当に嬉しい事だ
その後もタイトルマッチなどに来てくれたりと
自分がプロレスを頑張れてる1つのモチベーションでもあるかもしれない出会いだった
この場を借りて感謝する🙏
さて話しは戻るが
試合や観光を楽しんだが
日本に戻る時間はあっという間に来た
帰りもニューヨークを経由
ただ帰りはNY→東京と非常に楽なルート
になるハズだった.....
NYに移動し
2日間観光もした
観光も楽しみ
いよいよ帰国日
さて今回のフライトのトラブルは
今までで一番最悪なやつだった
JFK空港に向かう途中
地下鉄が思う様に進まない
30分くらいで着くはずがもう2時間近く乗っている.....
空港に着き、急いでカウンターに向かうと
"搭乗締切"の看板が.....
終わった..
スタッフに聞いたら
"明日の昼12時から受付再開だからその時に来て、今日は終わり"
現在は夜22時
JFK空港のロビーで一晩過ごす事になった
あまりにも焦ってたのと
たぶん充電をセーブしてたのか
この時の写真は何も無い
とにかく焦ってはいた
次の日、カウンターに行きスタッフに伝えて
結局、再度予約を取り直す事になった
未だにあの時の事が謎なんだが
スタッフが電話で掛け合ってくれて
"大変なルートだがそれでもいいか?"
って言われて、とにかく東京に帰してくれ!
と伝えた
"よし!チケットが取れたぞ"
5万〜10万くらいかな..........
"50ドルだ"
?
"50?500じゃなくて?"
本当何故かは分からないが50ドルで帰れた
ただNY→上海(空港に10時間待機)→成田
となかなかハードだったが
本当に未だに謎だ....ありがとうスタッフ....
さてどうにか日本に帰って来て
アメリカ編は終了.....
なのだが
崔さんの話しだ
今回、アメリカ滞在の内容が薄いのは
どちらかというとコチラがメインな話しだから
マットプロレスの客席に居た崔さん
そんな事もアメリカに行き数ヶ月が経ってたから
特に気にも留めてなかった
2度目の渡米も
日本でプロレスをする環境は変わらず
2ヶ月に1度のマットプロレスだった
帰国から3ヶ月くらい経った頃だ
今後の事も考え
一旦、プロレスを諦めようと思ってた
そんな時
マットプロレスの主催の矢野啓太さんから
"崔さんが連絡を取りたがってるんだが連絡する?"
とラインが来た
えっ?崔さんが?あの崔領二?
何故かは分からないが
とにかく何かのキッカケが欲しかった自分は連絡した
ラインでの連絡
だったのだが
たぶん7割くらい説教というか核心を突かれた連絡だった笑
要約すると
日本でプロレスから逃げてアメリカに行ったが
今、どうしようもなくなってるだろ
おっしゃる通り.....
そして崔さんから
"真剣にプロレスに向き合う気はあるか?"
もちろんあります!
"よし、年末にランズエンドの大会あるからそれに出ろ、試合を組んでやる!"
やったー!!日本でもリングで試合ができる!!
と
コレだけでもなかなか良い話しなんだが
コレだけで済まなかった
その数日後
崔さんから突然の着信
大"もしもし、初めまして、柴田です(当時は本名だったので)"
ラインしかしてなかったから、実質これが最初の挨拶だった
崔さん"今、時間あるか?明日か、明後日は暇してるか?"
お!遂に崔さんに会えるのか!
大"明日は空いてます、明後日はバイトが入ってまして"
崔さん"そうか、明日空いてるか"
"全日本プロレス出る?"
?
.........
?
⁇
⁇⁇⁇
大"え?全日本てあの全日本ですか?"
崔さん"そう、自分のタッグパートナーのランズエンドのやつが怪我して出れないからその代役を探してるんだが、できるか?"
自信もなければ技術もない
バイトばかりでトレーニングだってまともにはできてなかった
しかも日本でリングに上がった事すらない
ましてや全日本プロレスだ......
"出れますやらしてください"
Noと言ったら、もう2度とチャンスは無いと思った、やるしかない
崔さん"ちゃんと試合できるのか?全日本プロレスだぞ"
大"出れます、やれます"
崔さん"そうか、わかった、少し待ってろ確認するわ"
マジか.....でも、チャンスだ、やるっきやない
先に結果だけ書いとく
地獄を見る
というか
あまりにも何もできないし、しょっぱいし
ボコボコで心が折れた笑笑
今だから笑えるが
本当、あんな状態で試合に出ようとした自分は逆にすごい
だが、あの時、断らなかったから
自分のキャリアがスタートし
大門寺という名前に変わり
今があると思う
選択は間違ってなかった
崔さんから再び電話が
"よし、出れる事になったから、明日、名古屋に来てもらう"
全然スケジュールとか見てなかったからそこでまずびっくりした
大"分かりました!"
崔さん
"カードなんだけど、欠員の所にそのまま入ってオレと組んでもらう"
大"はい!"
崔さん
"名古屋国際会議場大会のセミファイナルで"
ん?
名古屋国際会議場?
セミファイナル?
崔さん
"諏訪魔、石川組と対戦してもらう"
??????????????
これにて
Part5までかかりましたが
アメリカ編は終了です
この先は書くか分からないが
とにかくこの名古屋大会から自分の人生はまた変わって行った
長々と色々脱線しながら書いたが
色々な人の縁に支えられました
自分のプロレスは
1人では絶対にできてない
絶望してた時に助けてくれた人々により
今の自分が居る
ただ、数多くの挫折も、苦難も、嫌な事も、無駄と思う様な事も
何ひとつ
無駄な事はない
そして、続けるからこそ見えるものがあるし
続けて行く事により
過去の挫折や苦難は必要な物だったと消化できる日が来るかもしれない
全てノンフィクションで書いて来たから
読んだら分かると思うが
人生、何が起きるかわからない
分からないから
明日も頑張ってみよう
明日になったら素晴らしい出会いがあるかもしれないから
アメリカに居た時のハナシ
終
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