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空はみんないっしょ。

あれから15年ほど。
意を決して再度飛び込んだ仕事は、人生のターニングポイントになった。

若くして結婚、離婚をし、男性への不信感から海外へ出た。
戻ってからの派遣の仕事は、いわゆるハラスメントとメンタル不調と、課から逮捕者まででる惨状。もちろん、当時そんな記事は掲載もされず、残ったのは私の「うつ病」と地獄の生活の始まりだった。

いろいろあって、コロナ前。
いろいろあったけど、病気もかなり落ちついた為、一年発起。

リハビリを兼ねて飲食に勤めていた私は、再度人生を変えたくて事務仕事についた。まるで原始人のように、PCも社会も変わり、すべてが緊張の連続だった。

ちょうど、その頃は好きな人もいて、お相手も事情がありお付き合いはできなかったけれど、それでも私は、その人が居て、好きになれたこと好きになってくれたことに浮かれていた。「これから、もう一度やり直すんだ。頑張る。」そう思っていた。

丁度、会社はM&Aからのシステム移管やら、バタバタしている時期で、前任者からのまともな引継ぎもなく、一人手探りで仕事をする毎日。
どんどん飛んでくるメール、設定のわからないシステム、いきなり飛んでくる話。「ちょっとまってて」と言われて休憩にも行けない日々が始まった。

「ここをこうしたら、こうなってね」って。
データだらけの画面を前に、言葉すら理解できない私に仕事を投げる社員。今ならわかる、これは給与に係わる大事なこと。でも、PC初心者で入った私には荷が重かった。しかもシステム変更中だから、毎月やりかたが変わる。

前任者の丸抱えと、他に業務を把握している人が居ない中、どうやら経費削減のため、会社中で軽微な備品から何から総ざらいも始まった。
何がどこにあって、誰がどれだけ買ってるか、今どうなっているのか、誰もちゃんと把握していなかった。結局、1個50円の消しゴムから確認し始め、総額1200万の備品が出そろった。
PC教室に自費で通い、記憶をたどり練習し、手伝ってもらいながらデータベースの基礎まで作った。誰が使ってるか、なんで必要か、そんなこといちいち聞かれてチェックされる従業員は一様に不満を述べる。そこもいちいち説明し、時にぶつかりながら手作業でやってきた。何もわからない私にPCを教えてくれる親切な方がいらしたが、ご自身の産休でお休みになられ、不安は大きいままだった。

来客に、大代表TEl、従業員対応、業者対応、体調不良者の一次対応も突発的にやってくる。私だけじゃない。ほかの上席者もみんな一様に大変だった。マニュアルってなに?初心者ってなに?これが普通なの?自分のレベルも何もわからず、ただ必死に食らいつくしかできなかった。

なにかやってみると「それ、自己満ですか?」って笑顔で返ってきた。今ならわかる。レベルの低い人に説明するのって、イライラするよね。ごめんなさい。でも、最終的には次の引継ぎに役だったから、結果オーライ。

一方、好きな人にはなかなか会えず、混乱していた私は、彼へ屈折した文章を一方的に送り、返信はあるものの突き放されていた。

プライベートでは、老猫が認知症になりオムツもしてくれず、オシッコと夜泣きでロクに眠れず、それでも、ありのまま自然に逝かせたい一心で看取った。途中、疲れすぎて、低温火傷し、危うく皮膚移植になりかけたが、ラッキーにも回避。あまりに辛かったとき、好きな人に「助けて」と言ったことがある。でも「俺にはなにもできないよ」。そう返信があった。正直、口に出せただけでも、当時の私には救いで。それだけでも、尻を叩かれたんだと思い、踏ん張った。

ご飯も作って、節約に励み、好きな人とラインして、PC教室通って。。猫の面倒見て。通勤電車で、日常を支えてくれる駅員さんが眩しくて。。
電車の中でも勉強した。もう引き返せなかった。

そうこうしている間に、コロナが始まり、会社はにわかに忙しくなった。食品を扱う会社だ。衛生も通常の業態よりかなり厳しい。それでも、日々世の中の罹患者の情報が行きかい、国と会社と様々なことで混乱していた。毎日毎日、世の中は厳しくなっていく。大代表を預かる私は、必死に仕事を探している派遣会社の営業さんを、一切切り捨てた。遠方から足を運び、仕事がなくなった実情を一生懸命お話しされ、その先に苦しんでいる方々がいることを痛いほど理解しながらも、切り捨てた。やんわりと、労りながら。受け付けなかった。これが、会社の見解だから、心が張り裂けそうだった。

そんな私も、派遣なのだ。会社の状況は嫌でもわかる。いつ終了するかもわからない状況の中、「笑顔だけは」「人とのコミュニケーションだけは」やろうと、決めた。会議や打ち合わせ、居室には上席者と私しかいないことも増えた。人の話を聴きながら持てる情報はフル活用して電話にでた。繋いだ。自分に手伝えるのは、日々を守ること。みんなの時間を邪魔しないこと。そう決めた。

気づいたら、あんなにも好きだった人とはラインだけしか連絡が取れなくなった。今ならわかる。彼には関係ないことで、ひっきりなしに連絡しては、守秘義務と自分の感情がごっちゃになって、意味のわからないことばかり送っていたからだ。こんなヤバいやつ、誰が相手にするもんか。

たぶん、私は、レベルに合わない過剰業務と環境に気づかず、大事な心をなくしていったのだと想う。厳しい管理、過度な緊張、もともと育った環境や経験からくる責任感。そして、過集中。

とっくに終わっている、好きな人との関係も、気づかずに。
勝手に傷ついて、勝手に混乱して。。それでも、仕事は続けた。ここで逃げることも負けることもできない。引けない。と思っていた。

時がたち、イロイロあった他部署の方々とも気軽に話せるようになった。(最初はけっこうな言葉の暴力もあった)直接足を運んで食い下がって教えてもらったことが良い方に転んだ。癖は強いが、みな愛すべき人々。

苦手だったPCも最低限できるようになり、少し落ち着いてきたころ。
派遣の営業から言われた。「契約解除」。いよいよか。来るべき時がきたなって。そこからは、最悪を想定して、休み時間に就活の日々。社員さんへ引継ぎなんてよくわからなかったけど、それでも、よくしてくれた方々に、私が味わった混乱した業務を渡す気はなかった。「自己満ですか?」が役に立つときがきた。そこでちょっと報われた気がした。

今は、運よく切れ間なく違う仕事に就いている。体重は、うつ病が酷かった当時と同じギリギリまで落ちた。不安定から安定剤を頓服することもあった。ストレスから味覚嗅覚障害になり(コロナじゃないよ)早々と閉経までした。残ったのは、職歴と、好きな人とのなんだか訳のわからないライン。

今ならわかる。彼とのラインは、私にとってのクモの糸だったのだ。最初のころの労りや恋愛感情なんて、とうの昔に終わっていても手離せなかった。それほどに追い詰められていた。

この関係は私にとって辛かった期間を支えてくれた大事なものなのだ。彼がどんな人であろうと、私は救われた。惜しむらくは、もう一度一緒にお蕎麦が食べたかったこと。

依存や執着なんてテーマも裏メニューであったけれど、このコロナによってだいぶ改善されたように感じる。

元来あった、家族との問題もいつの間にやら改善された。これは親友たちの支えも大きい。私の大切な宝物だ。

今回の、うつ病からの復職計画は、個人的にかなり厳しい状況になった。他人から見たらただの甘ったるいグチにしか聞こえないかもしれないが、それでも構わない。

現在、リモートワークや育児休暇、労働安全に関し世の中がデリケートになっているが、私からしたら、15年前に経験したことの塗りなおしである。

うつ病や仕事がなくなる不安感。これは本当に大変。経験して、スタート地点まで戻ってこれたからこそ、よくわかる。

だからこそ言いたい。
世の中そんなに悪くない。思ったように人生が進まないことも沢山あるけど、それで終わるなんてないから。大丈夫。逃げていい。頼っていい。

うつ病なんて、ならないに越したことはない。ならないように自分を大事に守って生きていいんです。誰でもない自分の人生だから。

ゆっくり歩いていいんです。


で。


歩きます。


とりあえず明日も。






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