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ポルノグラフィティの新曲を限界まで考える 2曲目「ナンバー(仮)」

新曲発表は1曲で終わらないと、一体誰が想像できただろうか。

はじめに

「続・ポルノグラフィティ」とは、活動23年目を迎えたロックバンド・ポルノグラフィティが、コロナ禍において決行したツアーである。彼らにとって17回目の全国ツアーとなる通称「続ポル」が、2021年12月22日㈬に最終日を迎えた。無事完走の運びとなったその日、私はそれを配信組の一人として見届けていた。

とにかく「すごいライヴ」だった。もうそれで十分だったのに、彼らは「何をもってして続と言えるのか」の証明として、そこに上乗せしてきたものがある。

新曲である。2曲も。

1曲目が「メビウス(仮)」、そしてもう1曲が本記事である「ナンバー(仮)」だ。この曲は2021年12月時点で「全く新しいポルノグラフィティ」である。

なぜ「(仮)」なのかというと、8月3日に5年振りにアルバムとしてリリースされる楽曲の中に収録される前フリとして、続ポルでの披露の際は(仮)表記になっていたからである。この記事を読んでくれているあなたは、その日を今か今かと待ち続けていることかと思う。ゆえにメビウス(仮)では外していた(仮)表記はここではつけたままにさせてもらいたい。なぜなら、そう、繰り返しになるがリリース日が近い。

もしあなたがファンでなく、わけもわからないままこの記事を目にしてしまったとしても、ポルノグラフィティの新曲および5年振りに出されるアルバムにほんの少しでも興味を持って頂けるお手伝いができれば嬉しい。

1曲目のメビウス(仮)についてはコチラにて限界まで考えてみたつもりだが、2曲目のこのナンバー(仮)もやっぱりいちファンが頭を悩ませながら書いた記事になっている。メビウス(仮)よりは圧倒的に書きやすかったんだけどな……おかしいな………。

※リリースの詳細についてはコチラ
※なお、だいぶ時間を置いて書き始めた記事になるので、ナンバー(仮)の作詞が新藤晴一ということをわかった状態で加筆・修正している


ナンバー(仮)

配信では全編に渡って歌詞が表示されていたので、どんな歌詞なのかすぐにわかることができた。前述の通り「(仮)」の曲なので、現時点での仮歌詞は以下。

水車小屋で微睡む猫 小川を超え僕は歩く
草笛の音 蜜蜂のペアダンス

悪戯なキツネが数字を盗む
「そんなもの置いてゆけ」

こうして僕は見失った 日付だとか時間だとか
君の住む街の番地さえ不思議な模様に
けれど花は咲くのだろう
熊は春に目覚めるだろう
数えるのではなく満ちるの待っているの

僕は蝶の視点を借り 芦毛の背にとまっている
彼が走り 麦が揺れ 波打つ

腹ペコなウサギが数字を食って
赤い目で泣いている

ここはかつて通り過ぎたシルシとして残る田園
まだ何も知らずにいれた僕の残像

いつものように遠出をして
帰り道が消えてしまい
あの日から寂しい夜を数え続ける
蟻が冬に備える頃 すぐに鳥も旅立つだろう
数えるのではなく欠けるの知っているの

メビウス(仮)とは違い、ストリングスがイントロとアウトロ含め印象的に使われており、歌詞とメロディーが合わさるとさらにメルヘンな雰囲気を感じられた。サラリと書いているようで、派手ではないが強いメッセージを感じられそうである。


1番Aメロ〜サビまで

水車小屋で微睡む猫 小川を超え僕は歩く
草笛の音 蜜蜂のペアダンス

悪戯なキツネが数字を盗む
「そんなもの置いてゆけ」

こうして僕は見失った 日付だとか時間だとか
君の住む街の番地さえ不思議な模様に
けれど花は咲くのだろう
熊は春に目覚めるだろう
数えるのではなく満ちるの待っているの



この牧歌的な始まりは聴く者をホッとさせる。「草笛の音 蜜蜂のペアダンス」とあるように、「僕」はこの平和な景色と季節を楽しみながら足取り軽く散策しているのだろう。表情の描写はないが、気持ちよさそうに微笑みながら歩いているかもしれない。ここは初めて来た場所で、そのあたたかさに物珍しそうにしながらも心地よく身を任せているような姿も想像できる。

この、のどかな田園風景を浮かべさせる微笑ましいAメロから、Bメロで唐突に謎掛けのような詞が出てくる。「悪戯なキツネ」はこの景色に紛れてひょっこり現れ、無防備な「僕」から数字を盗んで行くのだ。個人的イメージとしては、四つ足で歩いていたはずの「キツネ」が急に二本足で立ちあがって人語を喋り、自分の大切なものを盗って駆け去る――なんて治安の悪さだ。

ここだけでは突然すぎてわからないが、続くサビ詞を見ると「僕」は「日付だとか時間だとか」をこの「悪戯なキツネ」から奪われ、曖昧にされてしまったことがわかる。

しかし、勝手に奪われたというような被害性を感じているほうがまだ救いがあるようにも感じるのは、サビ詞の「君の住む街の番地さえ不思議な模様に」だ。やや不気味だがとても悲しいこのフレーズには、「番地」という立体が、「不思議な模様」という、形のないものへとほどかれ、元の姿へ崩されてしまった静かな悲劇も感じる。


2番Aメロ〜サビまで

僕は蝶の視点を借り 芦毛の背にとまっている
彼が走り 麦が揺れ 波打つ

腹ペコなウサギが数字を食って
赤い目で泣いている

ここはかつて通り過ぎたシルシとして残る田園
まだ何も知らずにいれた僕の残像


2番Aメロはまず、ただ読んでいるだけで頭の中に映画のワンシーンのように情景が浮かぶのが見事だろう。芦毛色の馬が軽やかに小道を走る。蹄の音さえ聞こえてきそうだ。彼が走るたび、麦のさざ波が体に触れる。灰色がかった毛並みと麦の穂の色の組み合わせはそれだけで美しいはずだ。「僕」はというと、自らの足ではなく唐突に「蝶」になって馬の背に乗り、その視点から景色を楽しんでいる。人間の背丈よりはるかに高い位置から感じる風景はいつもと違って見えることだろう。いいな、とても楽しそう。


そしてBメロ、ここでまたガラッと変わる。共通する「数字」に対し、今度は「腹ペコなウサギ」がそれを食べてしまうという、どこかかわいらしいフレーズだ。

数字を食べて泣くウサギ。私はここで、不思議の国のアリスの白うさぎを連想してしまったのだが、デ〇ズ〇ー公式サイトから引用すると、該当キャラクターの説明には「いつも時計を見ながら急いでいる姿が目を引きます。どこからともなく現れてアリスをふしぎの国に導く重要な役割をはたしていますが、急いでばかりいてアリスとの会話はほとんどありません」とある。さらに、おぼろげながら記憶を掘り起こすと、彼を追いかけたアリスはこの後不思議の国に迷い込んでしまっていた。

アリスの白うさぎは泣いていないし、ナンバー(仮)のウサギは時計は持っていないが、これを踏まえてみると、ナンバー(仮)の世界が動き出す(サビへと繋がる)のは「数字」が動いた時だ。それぞれ「悪戯なキツネ」が盗み、「腹ペコなウサギ」が食べるという、意味深な出来事がキーになっているように感じる。

続くサビ詞「ここはかつて通り過ぎたシルシとして残る田園 まだ何も知らずにいれた僕の残像」には、知ってしまった「僕」が、かつての「何も知らずにいれた僕」を見送る。残像として残るぼやけた姿は、今や記号化された「田園」を見下ろす。それは失われてしまった平穏かもしれない。もう戻れないものへの寂寥が伝わってくる。


落ちサビとラスサビ

いつものように遠出をして
帰り道が消えてしまい
あの日から寂しい夜を数え続ける
蟻が冬に備える頃 すぐに鳥も旅立つだろう
数えるのではなく欠けるの知っているの


1サビの「満ちる」に対して、2サビでは「欠ける」という対比が目に留まる。「満ちる」ことを「待っている」状態から、「欠ける」ことを「知っている」状態への移り変わり。単純に月の満ち欠けと捉えるならば、命が繰り返す神秘性と安心感をここに感じられる。外れることもなく不可逆性の、決まりきった生命のルーティーン。その巡りは「僕」のような人間には大きすぎるのだ。自然の中に生きる彼らからみて人間は小さなことにこだわり、怯え、また傲慢にもなるちっぽけな存在なのだと暗喩しているようにも、この詞からは感じる。

「いつものように遠出をして」ということは、「僕」はこれまで何度も出かけていたのだろう。そして、これまでは帰ってこれた。けれど今回ばかりは違ったのだ。数え続ける「寂しい夜」は、「僕」を失った「君」が見ている空かもしれない。そうして、「数字」から解放された「僕」は目に見えるものも全てではないと今や知っている。そう捉えられるかもしれない。


・1番Aメロ〜2サビまでの季節:冬から春
「けれど花は咲くのだろう 熊は春に目覚めるだろう」
・月の満ち欠け、生命の誕生?
「数えるのではなく満ちるのを待っている」
・落ちサビからラスサビの季節:秋から冬、また春
「蟻が冬に備える頃 すぐに鳥も旅立つだろう」
・月の満ち欠け、命の終わり=死?
「数えるのではなく欠けるのを知っている」

このように箇条書きにしてみると、歌詞全体を通して時間の流れや命の巡りを感じられそうだ。「猫」「キツネ」「ウサギ」「熊」「花」「麦」「芦毛」「田園」「蟻」「鳥」「僕(蝶)」などといった、大きさも生息地も違う生命たち。彼らが現れ、奪い、食べ、泣き、生命を謳歌し、来る新しい季節のために羽を休める。春夏秋冬を繰り返すことを、生命の営みのように描写している一面もあるだろうか。


「僕」にみる「君」との関わり

ナンバー(仮)の歌詞を見ていくと、この「僕」は徐々に自身のことがわからなくなっていっているようだということもわかる。存在も、意識も、現在も過去も、覚えていたかったかもしれない「君」のことも全てだ。

しかし、もしかしたら。彼は「そうなりたかった」のではないだろうか。

「数字」を盗まれ、帰り道がわからなくなり、途方に暮れている様だが、最初から彼はそれを求めて自ら迷い込み、存在をぼかしたり溶かしたりして、大いなるものに還ってゆくことを望んでいたのかもしれないとまで思えてくる。それは自死よりもいっそやわらかい。跡地になり、ただの模様にさせてわからなくなることで、囚われや抑圧からの解放を望んでいるのだと仮定すると、「数字」という概念は奪われるべくして奪われ、食べてしまったウサギは「赤い目で泣いている」理由も頷けそうだ。多くの人がわかるように、ウサギの目は赤い。その赤い目をさらに赤く充血させて涙を流す、ウサギのどうしようもない後悔や痛みが伝わってくるようだ。

「自ら迷い込むことをした、あるいは迷い込んでもよしとしたのではないか」と言ったばかりだが、反対に「君」と関わらせるとどうだろう。

ナンバー(仮)の中では唯一浮いていると言っていいかもしれない存在が、「君」だ。「君の住む番地」が「僕」の帰る場所であり、そして「さえ」という副詞を使っているということは、わからなくなりたくなかった、見失いたくなかった唯一の「僕」の拠り所なのかもしれない。もし、自身の存在や境界線なら曖昧になっても笑っていられた「僕」が、これだけは心を動かしてしまう出来事が「君の住む番地」がわからなくなること、「僕」にとっての「君」がいなくなってしまうことだとしたら、この「ナンバー(仮)」がまた少し違って感じられるだろう。


過去作との共通点

ところで、こうも数に関する言葉を繰り返されると、ファンとしてはポルノグラフィティの過去作を思い出さずにいられない。

私が思い出す曲は、5thアルバム「THUMPχ」に収録されている「何度も」という曲だ。こちらも新藤晴一作詞であるが、ここにも「数」を意味する言葉が象徴的な使われ方をしている。以下は、それらを抜き出した歌詞である。

みんな誰かに出逢って そして時には惹かれ合って
でも少し嫌いになって また少し好きも増えて
足したり 引いたり 今いくつだろう

じっと両手を見つめて 途中から数え直して
どこで躓いたのか 確かめられたとしても
同じ痛みをなぞるだけなら

目を開けたら君がいるまで何度も 目を閉じよう
じゅう数えるのはだぁれ?

足したり引いたり数え続けて、途中からわからなくなって、もう一度最初からの繰り返し。あの時の痛みをまた覚えてしまうなら、最初からないことにしてしまいたい。誰もが抱える痛みを、本人曰く詩的な存在の「猫」の目から、おはなしの1ページみたいに立体的に描けるのが新藤晴一というギタリストの才能である。彼は「数」を時にロマンチックに、時に皮肉気に捉えているように思う。

あるいは、動物さんたちや豊かな自然風景や「僕」の描写から、「生命」という大きなものへと捉えてみると、配信限定シングルであった「フラワー」(2018年)も思い出せるかもしれない。以下は、それらを抜き出した歌詞になる。

ねえ 君は寂しくはない? 雨宿りのバッタが言う

星たちは蒼い夜の闇に映える 生と死とが引き立て合うように

大地の深くにまで張り巡らせた根が 命の記憶と繋がって
隣にはいなくても確かに感じ合えている
ひとりじゃない

冬の気配が荒野を満たせば 風もないのに花びらが落ちてゆく
長い眠りが近づいていることを知って 小さな種を地面に落とした

春には氷を割って新しい景色に出会う 光あふる

ただ、フラワーにおいては実在の人物の記録を作品にした映画の主題歌として書かれた曲であるため、共通点を探せる理由としては薄いかもしれない。しかし、過去に晴一が作詞した曲から感じられるかもしれない、というひそかな楽しさはある。

ちなみに、この「フラワー」は8月3日にリリースされるニューアルバム「暁」に収録される曲である。可能であれば、アルバムの世界をより楽しめるお手伝いができたら嬉しい。



メビウス(仮)とナンバー(仮)の繋がり?

あくまで個人の感想だが、ナンバー(仮)とメビウス(仮)は繋がっているように感じてならないのは、どちらの歌詞にも「赤い目」(メビウス(仮)には「あかい目」表記)が共通して出てくるためと、形のあったものがその形を失う様を共通して感じるためだ。2曲ともが晴一詞であるという事実をより感じさせ震えさせるためなのだが、それとは別に、もう少し視点を変えて考えてみる。

メビウス(仮)における「あかい目」は、「あなた」を絞殺した「わたし」の涙か、二人の間に宿りながら殺される側の愛から見た、酸欠と悲しみによる充血した目か、というようなことを考察記事で書いたように思うが、ナンバー(仮)の「赤い目」はそんな物騒なメンヘラワードではない。

2番Bメロで登場した、数字を食べて泣いている腹ペコのウサギ。このウサギはお腹を空かせたあまり、手違いで数字を食べてしまったのかもしれないが、もしかすれば、本当に食べたかったものではなく、本能からくる衝動(飢餓)から必要に迫られて食べてしまったのかもしれないと考えるとどうだろうか。

また、「こうして僕は見失った 日付だとか時間だとか」「まだ何も知らずにいれた僕の残像」「ここはかつて通り過ぎたシルシとして残る田園」「君の住む番地さえ不思議な模様に」に感じられるような、元々あったものが消えてなくなることや形あるものがほどかれ解体される恐怖感からは、メビウス(仮)の「わたしのからだは指あみ人ぎょう やさしくほどけばなんにもなくなる」「そのくせなんども名まえをほしがり」「こわれてしまった すきだったんだけど」を思わせる。「一」であったのが「無」にかえる安堵。もう感じられなくなった、確かに感じていたものたち。これらをよりビビッドに攻撃的に描いたのがメビウス(仮)のように思う。気のせいかもしれない。あくまでも個人的主観だ。

自身の存在を証明する「数字」や目に見えるものに囚われる「僕」から「数字」を盗んだキツネは、悪戯という名目で明確な意志を持っていた。その「数字」を食べてウサギは泣いてしまっている。ウサギは「数えられるもの」として囚われ、自由や知識と引き換えにしなくてはならなかった。さながら禁断の果実のようにも思えてくるような気がするが……。

真相は作詞者のみが知ることである。


おわりに

ナンバー(仮)の歌詞は、一見してのどかな世界を描いているように思うかもしれない。情景豊かな歌詞が懐かしい風景を思い起こさせるかもしれない。しかし読み進めると徐々に不穏な空気が漂い始める。だが、二度三度と読み返していくと、歌詞の中に印象的なフレーズが浮かび上がりはしないだろうか。

そう、「数」に関係する言葉だ。


「数字」は数えられるもの、目に見えるもの。「そんなもの置いていけ」と「悪戯なキツネ」に盗まれていった後で、このあとの歌詞の中に出てくるのは「数える」「数字」「シルシ」「数え続ける」「数えるのではなく」と「数」に関する言葉が出てくる。印象的なこれらのワードは、曲タイトルである「ナンバー(仮)」そのものを表しているように思うのだ。

ナンバー(仮)のAメロやサビの情景描写は、「命」そのものの讃歌とも感じられる。命の終わりは悲しく寂しいものだけれど、最後には芽吹きを感じさせて曲を終える――全ての巡りを感じる。目に見えるものに囚われて、目前の闇の中に潜む不安を数えてばかりではいられない。それがサビ詞に表れる。季節や命は巡り、蟻は冬の厳しい寒さに備えて働き、鳥はまた新しい朝へ飛び立ち、熊は春の芽吹きで冬眠から覚める。花は咲き、この世界を彩る。数えるばかりではなく、欠けることも知っているのならば、また満ちていくまで待てるはずだ。


「愛も死も終わりがあるからこそ美しい」ということを謳ったLove too, Death tooが本ツアーのセットリストにあったことも考えると、この新曲2曲を含めたセットリストを掲げた続・ポルノグラフィティというツアーは、様々な「愛」や「闇の向こうにある光」など壮大なテーマを持ちつつも、この混沌とした時代に本当に大切なものは何かを教えてくれたように思う。

ジレンマの曲振りで昭仁が「終わるからには次が見えるように終わりたい」と言っていたように。ハネウマで晴一が半ばネタのように叫んだ「SDGsな未来が」さえもまた、それらは全て、本ツアータイトルに収束されているようにも思えてきてしまう。そしてこれは、彼らがファンに、そして今の世に投げかけた、「今届けたい音、届けたい言葉」なのだ。


改めて、「ポルノを続ける」という意志と決意を、新曲2曲と共に伝え届けてくれた彼らに、大いなる愛と感謝を送りたい。今なお続く苦しい時世にも折れず、「続・ポルノグラフィティ」を完走させてくれたことに私は並々ならぬ敬意も払いたい。

彼らが活動をし続けてくれてるからこそ、私たちは受け取ることができる。その音楽の雫は少しずつ胸に落ち、広がって、忘れられない曲たちになっていくのだ。




本当に彼らには驚かされる。1曲目のメビウス(仮)との落差で風邪を引くどころの騒ぎではなかった。むしろ、メビウス(仮)の衝撃が大きすぎたために、ナンバー(仮)のイントロが流れるや、「あ、そういうあったかい感じ…」とホッとしたことも否めない。だが、演奏が終わった頃には驚きと戸惑いと歓喜が溢れていた。この曲もまた、ツアーのみでの披露ではなく正式にリリースされるのだという予感という名の確信があったからだ。

ナンバー(仮)の(仮)表記が取れ、「ナンバー」となってアルバム曲としてリリースされる日は、いつの間にかもう目の前に来ている。どういう形になっているのか、刮目して期待したい。






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