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ポルノグラフィティの新曲を限界まで考える 1曲目「メビウス(仮)」

「続・ポルノグラフィティ」とは、活動23年目を迎えたロックバンド・ポルノグラフィティが、コロナ禍において決行したツアーである。彼らにとって17回目の全国ツアーとなる通称「続ポル」が、2021年12月22日㈬に最終日を迎えた。無事完走の運びとなったその日、私はそれを配信組の一人として見届けていた。言いたいことは本当にたくさんある(お暇な方は読んでもらえれば嬉しい)。とにかく「すごいライヴ」だった。もうそれで十分だったのに、彼らは「何をもってして続と言えるのか」の証明として、そこに上乗せしてきたものがある。


新曲である。


1曲が記事タイトルの「メビウス(仮)」、そしてもう1曲が(もう1曲……????)、22日のオーラスでのみサプライズで披露された「ナンバー(仮)」だ。1曲でも十分なのに2曲も作れと言ったのは誰だ。社長か?

本記事では1曲目のメビウス(仮)について限界まで考えた内容になっているつもりだが、現時点でもやっぱり無理だったので、いちファンがのたうち回りながら書いた記事になっている。

ちなみに、なぜ「(仮)」なのかというと正式にリリースされる予定があるからである。「(仮)」といちいちつけるのはシンプルに面倒なので、この先の曲タイトルは「メビウス」とするのをご了承ください。そして、この記事を読んでほんの少しでもポルノグラフィティの新曲に興味を持って頂けたら、そして「これがリリースされるの…?」と震えて頂けたら幸い。


追記:2022年4月現在、どうやら会報にてメビウスの作詞者についての言及があったようだが、私は会員ではないので知り得ない。なので、円盤の初回特典に収録されていたライヴ音源を恐々繰り返し聴いてみた後、当初の予想に戻り「メビウス/ナンバーともに晴一詞」と結論付けてみている。なぜ晴一詞と私が思ったのかは終盤でわかります。



メビウス(仮)

配信では全編に渡って歌詞が表示されていたのでどんな歌詞なのかすぐにわかることができたが、だからってこんなふうに書かれても困る。

やさしいあなたは わたしのくびねを
りょう手でしめ上げ 泣いてくれたのに
うすれるいしきに しあわせみたして
はずかしい はずかしい
ゆるしてほしいよ
もうめぐらせなくてもいいの
しぼんだはいのままでもね
Wasted love Wasted love
こわれてしまった すきだったんだけど
わたしの体は 指あみ人ぎょう
やさしくほどけば なんにもなくなる
そのくせなんども 名まえをほしがり
ごめんなさい ごめんなさい
わすれてほしいよ
もうとじてしまっていいよ
あかい目で見ていたくない
Wasted love Wasted love
チャイムがなっている うちにかえらなくちゃ
あなたがいないあさから
わたしのいないよるまで
メビウスのわのように
ねじってつなげましょう
えいえんとは かくなるもの
もうめぐらせなくてもいいの
しぼんだはいのままでもね
Wasted love Wasted love
こわれてしまった すきだったんだけど


どうだろうか、この歌詞を読んだあなた。子どもの視点で書いた日記としたのだろうか?錯乱した大人が書きなぐった遺書だろうか?そういうふうに、あなたもいろいろと巡らせることはできるかもしれない。私はただただ、背筋が凍りましたが。

続ポルにおいて「セトリのネタバレを踏まない」ことに私は命を懸けてきた。新曲があることも、そのタイトルも歌詞も、どんな曲なのかも配信当日に初めて知ったこの衝撃をわかって頂けるだろうか。ほぼ全て平仮名の歌詞。何なんだ。これまでのポルノの曲に、ここまでの歌詞はなかった。この詞でメロウなミディアムバラードであるから、一体全体何が起きたと問い詰めても許される。

ポルノのギターであり言葉の人・新藤晴一が多く手掛けてきているポルノの詞は、彼のこだわりから「あえて英語」「あえてカタカナ」などといったものは見受けられてきたが、メビウスのこの歌詞を見た時に「今までにないポルノグラフィティ」を感じたのは私だけではないはずだ。こんなポルノ(の歌詞)は見た事がない。あくまで「怖い」「なにこの歌詞」「ゾッとする」「なにを歌ってんの?」という意味だけでの話であるが。

じっくり読んでいくと、ファンである私は「もしかして、どこかで会いましたか?」とも思えてくる。ひとつひとつ(できる限り)紐解いてみよう。


1番Aメロ〜サビまで

やさしいあなたは わたしのくびねを
りょう手でしめ上げ 泣いてくれたのに
うすれるいしきに しあわせみたして
はずかしい はずかしい
ゆるしてほしいよ


「やさしいあなたは」まではよかったのに、「くびね」を「しめ上げる」という唐突で明確な殺意が登場する。続けて「うすれるいしきに しあわせみたして」トドメで「はずかしい はずかしい ゆるしてほしいよ」………何をしてるの?失礼を承知で物を言うが、そういうプレイの最中なのかと一瞬よぎったことは否定できない。そうでなければ「殺人行為」だ。どちらにしてももたった3文字、「ヤバイ」歌詞だ。デビュー23年目を迎えた堂々たる大御所が、ついに、ついになのか。

そのまま素直に取ると「殺人行為」を描いており、「わたし」と「あなた」という関係性を単純に考えた場合、「行為の延長線上にあるプレイの最中」、もしくは仄暗くさせると「無理心中」のシーンも思い起こさせる。

私はここで「無理心中か」と考えてしまい、スピッツの名曲「青い車」(1994年)が思い浮かんだ。スピッツファンの間ではまさに「無理心中の歌ではないか?」とリリースから15年以上経ってもなお囁かれてきている。その青い車の1番Aメロの歌詞は次のようになっている。

冷えた僕の手が君の首すじに 咬みついてはじけた朝

もはや引用することさえためらうほどにあまりにも有名なフレーズではある。ここで改めてポルノグラフィティのメビウスの該当歌詞を見てみよう。

やさしいあなたは わたしのくびねを
りょう手でしめ上げ 泣いてくれたのに

つまり「死」だ。比較対象として他バンドの曲を例に出して重ねてみたことで、ポルノのメビウスも「まさか…?」とゾッとされても仕方ないなと多少なりとも思って頂けたかもしれない。

彼らとて明るいポップスを担うミュージシャンなので、聴く者をただ暗い気持ちにさせる曲ばかりを出すわけにもいかない(ボーカルの昭仁が「暗い曲を歌っている時が一番幸せ」と言っていようともだ!)。また、作詞においても明確な表現は避けつつ、伝えたいものをできうる表現で歌詞にしてきたはずだ。

それがここにきて「やさしいあなたはわたしのくびねをりょうてでしめあげ泣いてくれたのに」である。おい、どうした。

「殺人行為」や「無理心中」、そういったものを最初から思わせてしまうこんな歌詞を、何度も言うが、ポルノは書いてこなかった。しかも曲の第一印象を決める1番Aメロからこれである。チャレンジャーといおうかハイリスクといおうか、とにかく己の耳を疑うしかできない。作詞者の心理をこれほど恐る恐る推し測る詞もないだろう。この先を聴くのが怖い。

いくらなんでも「くびねをしめ上げる」には両手を上げて降参してしまうしかなかった。開いた口が塞がらず腰を抜かした数多のファンと私の姿を、容易く想像できると思う。

次に、1サビである。

もうめぐらせなくてもいいの
しぼんだはいのままでもね
Wasted love Wasted love
こわれてしまった すきだったんだけど


「わたし」が必死で「しぼんだはい」で取り入れることのできるわずかな酸素や血液の巡りを、「あなた」は「もうめぐらせなくてもいいの」と押しとどめる。極限状態もかくやというものだ。それがほとんど平仮名で、まだ書かれている。この優しい殺意、「あなた」が「わたし」に語り掛けているようにも見える。平たく言ってサイコパスだ。ここをギリギリのプレイと取るか絞殺途中のシーンと取るかでヤバさも変わってきそうだが、確実に存在しているのは悲しみである。

直後の「こわれてしまった すきだったんだけど」は、以降ラスサビでも繰り返されるフレーズであるが、それまでの強烈な想いを抱えた「大人」から、気に入りのおもちゃをうっかり壊してしまった「子ども」の顔を感じてもしまう。ここにあっけない終わりを知る残酷さを感じ、胸が切なくなってしまうのだ。


2番Aメロ〜サビまで

わたしの体は 指あみ人ぎょう
やさしくほどけば なんにもなくなる
そのくせなんども 名まえをほしがり
ごめんなさい ごめんなさい
わすれてほしいよ


人形を使ったごっこ遊びを経験した人はわかると思うが、人形に名前や役割をつけて遊んだことはなかったろうか。その際、情が移り手放しにくくなった経験はおそらく多くの人にあると思う。

名は体を表し、名づけられたものに魂を宿す。愛を宿した「わたしの体」は、「指あみ人ぎょう」のように小さく脆い。その「指あみ人ぎょう」のように「やさしく」壊せるものであり、うっかりと「こわれてしまった」。気に入っていたんだけど、「すきだったんだけど」、ただ謝罪の言葉しか口をついて出ない。

頼りなくても脆いものでも、確かな「名まえ」をほしがる様はみっともないだろうか。こんな「わたし」のことを、存在そのものを、せめて「わすれてほしいよ」とひたすら願うのだろう。ここを「にんぎょう」「なまえ」ではなく、「人ぎょう」「名まえ」と意図的な箇所を漢字にしているところを見てほしい。「人」と「名」、「体」や「目」、「見」―確実に、しかし的確に漢字に表されると、どうにもこうにも頭を抱えてしまう。

「指編み人形」とは読んで字のごとく指で編まれた人形だ。簡単で、子どもでもできる編み方らしく、それゆえに特別力を入れなくても失敗できてしまう。あっけなく「なんにもなくなる」。築いた愛も時間も、二人の存在も、終わってしまえばそういうものかもしれない。この覚束なさ、頼りなさ。「指あみ人ぎょう」と形容する他にどう表せばいいだろうか。作詞者の言語センスが光っていて怖い。

そして、書かれてはいないがこの時「わたし」はきっと泣きに泣いている。声を上げてか、ただただ涙を流してか、とにかく悲しみに暮れ泣き続けているのだろう。このAメロで登場する「幼さ」を伴って、子どものように泣いているのかもしれない。それが想像できるのが次の2サビだ。

もうとじてしまっていいよ
あかい目で見ていたくない
Wasted love Wasted love
チャイムがなっている うちにかえらなくちゃ


「目」を漢字にしたことで、色ではなく部位が強調され、「目」に重要な意味があることがわかる。

この「あかい目」は「わたしのくびね」を「りょうてでしめ上げ」ている「あなた」の泣き顔だろうか。それとも、絞め上げられて生理的な涙が出るために真っ赤になる「わたし」の目だろうか。もしかしたら、心理状態として「血の涙」がたまった状態ともいえるかもしれない。

「あかい目」が、絞殺の際の生理現象としているのであれば、それはそれで良いものだから私は構わないのだが、生理現象というなら、絞殺中はあらゆる液体が出てしまうため「全く綺麗なものではない」ということも踏まえられる。それほどみっともない姿は、例え合意の上とは言えさすがに見ていたくないはずだ。

どれだとしても、そんな「あかい目」は見ていたくない。かつて二人見つめ合った瞳には、互いの美しい姿が映っていたはずだというのに……切ないにも程がある。そして、終わってしまうことが決まっているならば、その過程がどんなに目を塞ぎたくなるものであったとしても、「あかい目」ではなく「とじてしまっていいよ」と言われて閉じるのではなく、最後まで見ていなくてはいけない覚悟が必要だった。終わるなら最期まで。そういうことでもあるのかもしれない。

Aメロを受けて、これを「あなた」が「わたし」に「もう諦めて死んでしまえ そんな目で命乞いしてくる無様な姿なんて見ていたくない」と言っていると捉えた場合、「あなた」が「わたし」に別れを告げているようにも見える。ギリギリと首を絞め上げる力を保ったまま。恐ろしくて震えてしまう。


「チャイムがなっている うちにかえらなくちゃ」には、場違いな日常を思わせる。ここは終わりを告げるチャイムだろう。子どもの遊びの終わり、1日の終わり。そして愛の終わり。始まったものを終わらせる寂しさ。そして、「うち」が「家」にせよ「内」にせよ、終わって閉じていく寂しさ。「指あみ人ぎょう」と「チャイム」にあるのは、右往左往する子どもの姿だ。


大サビ

あなたがいないあさから
わたしのいないよるまで
メビウスのわのように
ねじってつなげましょう
えいえんとは かくなるもの


曲タイトルが登場する「メビウス」以外、いよいよ全て平仮名になった。これまで以上に覚束なさを感じて仕方がないが、この大サビからは同時にすがるような想いも伝わってこないだろうか。

「あなたがいないあさから わたしのいないよるまで」を見ると、「あさ」と「よる」という1日の始まりと終わり、もっと覗き込んでみると「人の命の始まりと終わり」に重ねられる。「あなたがいないあさ」という「始まり」から、「わたしのいないよる」という「終わり」までがあるとした場合、それをねじって、繋げて、「メビウスのわ」のようにした。繰り返される輪廻の中で繋がることができる。この形を「えいえん」だと「わたし」は呼びたいのだろう。

「わたし」が「かくなるもの」と願っている「えいえん」は「メビウスのわ」であり、「わたし」と「あなた」を繋げる唯一の手段でもあるのかもしれない。ここまで切実な願望は、なかなかお目にかかれない。


ラスサビ

もうめぐらせなくてもいいの
しぼんだはいのままでもね
Wasted love Wasted love
こわれてしまった すきだったんだけど


1サビと同じ詞が繰り返されている。しかし同じながら、ここでは終わりを受け入れている「わたし」を感じさせる。「もう諦めて死んでしまえ そんな目で命乞いしてくる無様な姿なんて見ていたくない」と「あなた」から告げられた1サビから、それを受け入れ、自身に言い聞かせている「わたし」の心の動きを2サビには感じるのだ。

サビの感情だけを抜き出してみると、以下のようにだんだんと「わたし」の感情から、熱意や力を失わせていく様も感じられる。


①(1サビ)「あなた」が「もうめぐらせなくてもいいの」と「わたし」に言って諦めさせようとする/「わたし」はまだ息を吸おうと抵抗する

②(2サビ)「あなた」が「もうとじてしまっていいの」「あかい目で見ていたくない」と「わたし」に投げつける/生理的な涙であふれながらも「わたし」はまだ抵抗する

③(ラスサビ)「わたし」が「もうめぐらせなくてもいいの」と完全に受け入れ、力を抜く


動きのある繋がりだ。と私は思う。

2番Bメロまでを受けて、2サビの「こわれてしまったんだ すきだったんだけど」からは「指あみ人ぎょう」の無垢さとは対極の、自己中心的な幼稚性を感じることもできる。「優しく触ってたのに壊れちゃったよ!」「せっかく積み上げてたのに全部だめになっちゃった!」というふうに、結末を受け入れ難い哀れな大人の姿が見えてしまう。


「わたし」と「あなた」にみる二人

メビウスにおいて、明確に喜びの感情が表されているのは1番Aメロの「しあわせ」だけだ。「わたし」にとって誰より愛する「あなた」の手で、二人の中にある愛を絞め上げられる瞬間は、まさに幸福以外の何物でもなかったのだろう。そしてそれは同時に醜く、許しを乞う痴態も伴う。泣き疲れ息苦しく、満足に機能しない「しぼんだはい」の中に、酸素の代わりに満たされるものはどれほど甘美だろう。

愛が存在し育ってゆくことを「肺一杯に酸素を吸い込み血液を全身に巡らせる」という生命活動になぞらえているのであれば、「もうめぐらせなくていいの しぼんだはいのままでもね」には、壊れてしまった愛を無理やり再生させることの無意味さを説いているようにも見える。「もうめぐらせなくてもいいの」と誘い、諦めさせる。これらは同時に、「終わりを突き付け、再びの構築を諦めさせる」という優しさを感じさせる。壊すため、終わらせるために渾身の力を使いながら、それに涙するほど「やさしいあなた」なのだ。


もうひとつの説を取ってみるなら、ひょっとしたら、この「あなた」は実体としての存在はとうにないという事を示してもいるかもしれない。望めば「わたし」にいつでも手をかけてくれるような「あなた」。「あなた」は「わたし」の中に存在している。それを仮説としてみると「メビウスのわ」のようにしてねじって繋げた「わたし」と「あなた」は同一でもあるという説が浮かび上がってくる。

つまり、1サビでは微笑んで締め上げていた「あなた」が「わたし」であり、二人の愛を終わらせたのは他の誰でもなく「わたし」自身であったのではないかとも考えられそうなのだ。

その場合、「あなた」と「わたし」は繋がることができないのかもしれない。だが、「メビウスのわのように ねじってつなげましょう」とできるなら、そう願うだろう。「メビウスのわ」のようにしてでも繋がりたい相手、それは「あなた」となった「わたし」であり「わたし」となった「あなた」なのかもしれない。言い換えれば、同一になるほど愛し合っていた二人ということなのだろう。

しかし、メビウスの輪にするためには一度ねじらないと完成しない。「ねじる」という語感に対して、そこに「真っ当な」「やわらかな」「純正な」愛というものを感じにくくなる。たとえねじって繋げてみても、ハサミを入れればいとも簡単にただの紙切れになってしまうのではないだろうか。

そこにあるのは「メビウスのわ」ほど神秘的なものでもなく、赤い糸ほどロマンチックなものでもない。醜くも、儚くも、美しい。身勝手で自分本位で、綺麗におさまりきらないものだ。


Wasted Loveの意味

直訳すれば「無駄な愛」だろう。だが、この曲の文脈的には「愛の死」のほうがいくらか正しいようにも思われる。殺されているのは「愛」のほうではないだろうか。

「わたしのくびねをりょうてでしめあげ」「しぼんだはい」「もうめぐらせなくてもいい」「もうとじてしまっていい」などと、ストレートに死を書きながら、「Wasted Love」で実は肉体そのものではなく愛が終わったことを書いているとしたら。

「Wasted love」は慟哭なのだ。そして、慈しみ育んできた二人の愛に手をかけているのは、他ならぬ彼ら自身で、それほどまでに壊したくなかった愛だったのだ。泣きたくなってきた。


ところで、ポルノグラフィティはボーカルとギター共に作詞作曲をするそこそこ稀有なバンドである。そしてその作詞の大半はギターの新藤晴一による曲が多いということを踏まえると、このメビウスの詞も、過去に愛(「愛が呼ぶほうへ」)と暗闇(「IN THE DARK」)をそれぞれ擬人化して書いた新藤晴一の可能性が私の頭にはよぎってしまう。

全くの想像であり素人の試みでしかないのだが。この擬人化パターンに沿って愛を擬人化してみた場合、この「見ていたくない」としているのは、「自分が壊される様を感じたくない」と恐れ、懇願している「愛」と捉えらえてもいいかもしれない。

終わらせることのできる安堵と「わたし」のこの期に及んだ抵抗を見て、「あなた」は泣いてくれたのだ。お互いの「あかい目」の中には、同じく泣いている愛の姿も見えているのかもしれない。終わりを受け入れた互いに未練を残す。その愛憎が「くびね」へと手を伸ばさせ、「りょうてでしめ上げ」ていき、愛を、かつての二人を殺していく。「愛」を宿した「指あみ人ぎょう」のように脆い「体」が機能しなくなることで、「愛の死」を描く。

肉体の死と擬似的な愛の死で、関係の終焉を描き、後悔と悲しみを美しく描いている。これを晴一詞といわずして誰の作詞だといおうか。


そして一方でメビウスは、彼らの曲である「ハート」(2002年)や「月飼い」(2004年)を私に連想させた。どちらも晴一による作詞であるが、以下はそれぞれの印象的なフレーズである。少し見てみてほしい。

朝と夜がこれからも交互に来るとして
その間で僕たちが出会ったとしたら ほら  ―「ハート」
東から漕ぎ出した舟はやさしい夜風を受けて
西へ行く遥かな時を たゆたう想いを乗せて ―「月飼い」
あなたがいないあさから わたしのいないよるまで
メビウスのわのように ねじってつなげましょう
えいえんとはかくなるもの        ―「メビウス(仮)」


共通して「新藤晴一」のサインが浮かび上がったり、コインで削ってみて「新藤晴一」と書かれていたりしないだろうか。記事の冒頭はここに返ってくる。「もしかして、どこかで会いましたか?」。過去のポルノ曲を踏襲した全く新しいポルノの曲、まさしくメビウスは「新曲」なのだ。

これは怖い。


メロディー先行で、メロディーに乗る言葉を当てて歌詞にする作り方(いわゆる「曲先」というものだろう)をおそらく晴一はしていると思うのだが、その場合、非常に気になるフレーズがある。「すきだったんだけど」となっているサビの詞だ。

私個人の感覚なのだが、「好き」より「愛してる」であるほうが物理的な距離にしろ、心の距離にしろ、あらゆる意味で濃密だと思っている。そのため「すきだったんだけど」には一定の距離感を感じてしまうのだ。そう考えて見た場合、「あいしていたんだけど」ではなく「すきだったんだけど」この「わたし」は、とうに最初から結末を受け入れたのかもしれない。

そのあえての「すきだったんだけど」だとしたら、これも怖い。


「ほぼ平仮名である」歌詞から見えてくる事

さて、これを読んでくれているあなた、試しにこの狂気のほぼ平仮名歌詞を通常の状態に直してみてほしい。

どうだろうか。おそらく、「普通」になってしまっていると思う。

通常は漢字で書かれる文章が平仮名にされた時、無意識に頭で「未成年でかつ幼い子」が書いたものとして読んでしまいがちだ。しかし、メビウスはここにかろうじて漢字が混ざる。さらにはまさかの英語が使われている。このメビウスの主人公はそもそも子どもではなく、普通の大人であるというのが私の仮説だ。その大人が子どものように泣き、取り乱す。大人の後悔に見え隠れする幼さや拙さという悲哀が表れてくる。

「こわれてしまった すきだったんだけど」に表される、「こんなはずじゃなかった」という絶望。壊そうと思ったにせよそうでないにせよ、もう戻らないものを茫然自失と見つめる。嗚咽混じりの悲しみ、後悔。大の大人が泣きながら「ごめんなさい」「はずかしい」「ゆるしてほしい」と繰り返し謝る幼児性。もう元には戻らない残骸。これらを「ほぼ平仮名」で書くことで表しているのだとしたら、やっぱり怖い。


メビウスの輪とは

改めて、メビウスの輪とは何か。


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長方形の帯を一回ねじって、端の辺どうしを貼り合わせて得られる空間図形で、面の表裏の区別ができない点に特徴がある。数学者メビウスが初めて提示。 ―コトバンク「メビウスの帯」


Google検索をするまでもなく「メビウスの輪」といえばあなたの頭にも同じ形が浮かんでいるはずだ。だが、改めてこの形状の説明と図解を見てみた場合、「愛」というものの不確かさと歪さが見えてこないだろうか。

朝と夜は地続きで、1日は繰り返される。メビウスの輪も表裏一体であるからには、一時の暗闇も再び日が昇り照らすだろう。その救いと、繰り返される永遠。

全てに繋がり巡り、永遠に続いていくのは「メビウス」なのだ。



おわりに

以上が「新曲のメビウスについて限界まで考えたつもり」の記事になるわけなのだが、無事書き終えた現時点でもやっぱり無理だった。ただ言えることは、「あー絶対、晴一詞ですね。もう99.9%晴一詞。誰が何と言おうと、会報にすでに答えが書いてあろうと」ということなのだが、メビウスの作詞は言葉の人・比喩表現の鬼・プロの作詞家である新藤晴一その人です。

この記事を読んでくれたあなた。「これがリリースされるの…?」とほんの少しでも震えて頂けたろうか。

そして少しでも、ポルノグラフィティの新曲と、岡野昭仁と新藤晴一から成るポルノグラフィティというバンドに興味を持って頂けたのならほんとに幸い。




まだ「ナンバー」が後に控えてるんですけどね。






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