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映画

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映画のレヴュー的なものから、主題は別でも映画の話題が多少とも入っているものまで。
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#1983年

1983-84年ユーラシア大陸(+アフリカ大陸北東端!)「ほぼ」一周の旅, note リンク集

前説最初に念の為に書いておくと, この前文の下にある 本 note 目次つまり旅 note リンク に付いている, それぞれのタイトルには, 「(写真 .. 枚)」と書いてあったりなかったりするものがあるのだが, 後者であっても, すなわちそうした記載がなくとも, 殆どの note にそれぞれの土地で撮った写真は掲載してある。ではでは。 さて, 以下の前文は, 本 note を投稿する今日 2022年5月11日 から振り返ってのこと。本 note は随時更新していくので,

インドでは市井の人に「哲人」顔の人がいたりする 〜 デリー 1983年12月12日から25日

1983年4月26日に横浜港からのフェリーで当時のソ連を目指し日本を発ってから 7ヶ月半, インドでの 3箇所目の滞在地デリーには 2週間ほどいたことになるけれど, 38年前の「明日」, 1983年12月23日には デリーから日帰りの旅で タージ・マハル で有名な アグラ(アーグラ)にも行っている。タージ・マハル については, 明日(気分次第で明後日かも)別途 note 投稿するつもり。 1983年4月26日に日本を発って, ソ連・ヨーロッパ諸国・トルコ・シリア・ヨルダン

大学を訪ねたビルゼイト, ナブルス; 被占領地パレスチナ 〜 1983年10月12, 13日

1983年4月26日に日本を発って 9月28日からパレスチナ/イスラエル 〜 ここまでの振り返り 1983年4月26日に日本を発ってソ連・ヨーロッパ諸国, トルコ・シリア・ヨルダンを旅した後(そこまでの旅については以下 note *1 第3章にソ連・ヨーロッパ諸国旅リンク関連, 第2章にトルコ・シリア・ヨルダンそれぞれの旅 note リンク), 同年9月28日早朝, ヨルダンの首都アンマンを発ってヨルダン川を渡り, 1948年5月「建国」のイスラエルが 1967年6月の軍事侵

テルアヴィヴ/48イスラエル 〜 ディアスポラ博物館を訪ね, 街ではパレスチナ人達にも会い(1983年10月6日から翌7日)

ディアスポラディアスポラというのは民族離散を意味して, 語源を辿ると植物の種などが撒き散らされたものという意のギリシャ語に行き当たるらしい。そういえば我が家の小庭でも何処(いずこ)からか「風に吹かれて」(本 note 第6章)やってきた種のお陰で意外な花が咲くことがあって, ディアスポラの語源を想うと「うーむ, なるほど」という感あり。 ディアスポラが一番よく使われるのはユダヤ人に関するそれだが(今日の note の「ディアスポラ」博物館はテルアヴィヴ大学の構内にあるもので

ハイファ(48イスラエル, 47イギリス委任統治領パレスチナ)への旅 〜 1983年10月4日

イスラエル国(1948年, 従前 約30年間「イギリス委任統治領パレスチナ」だったその域内に「建国」)の領内なのでその意味では単純に「イスラエル」と書いてもいいのだが, 1967年6月のイスラエルによる軍事侵攻以降 同年11月の国連安保理決議242号をはじめとする複数の安保理決議に逆らって既にこれまで半世紀以上の長きにわたりイスラエルが占領している土地(東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区, しかもイスラエルはその占領地内に国際法違反のイスラエル・ユダヤ人入植地を数多建設)や

ジェリコ, マサダ・死海; 1983年10月1,2日 〜 そして2021年のいま白昼堂々とパレスチナ人に対する民族浄化の行為を行なうイスラエル

1983年4月26日に日本を発って, 9月28日からパレスチナ/イスラエル 〜 ここまでの振り返り1983年4月26日に日本を発ってソ連・ヨーロッパ諸国, トルコ・シリア・ヨルダンを旅した後, 同年9月28日早朝, ヨルダンの首都アンマンを発ってヨルダン川を渡り, 1948年5月「建国」のイスラエルが 1967年6月の軍事侵攻以来, 同年11月の国連安保理決議の撤退要求に従わぬまま(2021年の現時点で既に54年間, 1983年当時は16年間)不当な軍事占領を続けているヨルダ

ペトラ遺跡(ヨルダン) - 1983年9月25,26日

タイトル写真は同年9月25日, 筆者撮影。両側の大きな岩の塊を抜けるとこれ。 この女性は筆者の知り合い ... だったような(笑)。 https://youtu.be/Dbm8ZxIy98I ♫ ではでは, 自分で撮った動画, じゃなくて 写真を。 ペトラ遺跡, 1983年9月25-26日(写真7枚 および 旅日記) 〜 流石に夜空の写真は撮れてないけれど, あの晩見た満天の星が, これまでの60年余の人生で見てきた星空のなかで正真正銘, 最も美しい星空だった! 以下の

シリア, ダマスカス 〜 括弧付きながら「平和」だった, 1983年9月12-19日

1983年4月26日に日本を発ち, ソ連・ヨーロッパ・トルコを旅した後, 9月5日からはシリア・アラブ共和国(アレッポ, パルミラ)ソ連・ヨーロッパ・トルコ 旅 notes に関しては, 以下リンク先 note *1 の最後から3番目の章 1983年4月26日に日本を発ってから, 初めてのアラブの国 シリア を訪れる前までの日々 (ソ連, ヨーロッパ, トルコ) にて。*1 はアレッポ 旅 note, *2, *3 はここでは脱線 notes(同年9月11日にシリアで23歳の

パルミラ(シリア, 古代ローマ帝国の都市遺跡) 〜 1983年9月11日(ISによる破壊の32年前)

写真は, 西暦紀元32年に建造され, 2000年近くこの姿を保ちながら, 今から6年前, 2015年に "宗教" 原理主義者 IS「イスラム国」がこの地域を制圧した際に破壊された, パルミラのベル神殿(1983年9月11日, 筆者撮影)。この写真を含む 1983年のパルミラの写真は 本 note 第2章にて。 謎の東洋人, パルミラに現わる1983年4月26日に「極東」日本を発った怪しげな東洋人(以下 note 1つ目タイトル写真の右から2番目!), 「現代」のシリア・

911 を振り返る 〜 1960年, 1965年, 1973年, 1983年, 2001年, 2019年, 2020年, そして 2021年

911 って聞いて直ぐに 2001年のあれを思い浮かべる人は当然ながら多いだろうけど, 911 は自分の誕生日なんだよっていう人だって, 世界には 2,000万人ぐらいいるという計算になる(どの日も同じくらい人間が生まれるという大胆な仮説の上でのめっちゃくちゃ大雑把な計算)。俺はその「2,000万人」のうちの一人なんだ。 タイトル上の写真の右から二人目, どう見ても「怪しい東洋人のおっさん」にしか見えない(と我ながら思う)人物は, 「我ながら」と書いた通りで, シリア・アラ

トルコ・イスタンブール, ガラタ橋で眺めた夕日 〜 1983年8月15日, 日本を出国して112日目

1983年4月26日に日本を出国 〜 トルコには 8月11日入国(2度滞在, 合計1ヶ月半)1983年4月26日に日本を出国し, トルコ入国は同年8月11日だった(ギリシャ・アテネを8月9日夜11時発の列車で発ち, 11日朝にトルコ・イスタンブールに着)。イスタンブールやカッパドキア(ユルギップ)に滞在した後, トルコとシリアの間のトルコ側国境の街アンタクヤに滞在, アンタクヤから陸路シリアに入ったのが 9月5日。その後, シリア, ヨルダン, パレスチナとイスラエル, 当時

地中海の舞踏 〜 ギリシャ・サントリーニ島, 1983年7月28日から 8月1日(写真8枚)

1983年4月26日に日本を発ち, ギリシャ入国は同年7月11日 1983年4月26日に横浜港から当時のソ連・ナホトカ行きのフェリー(2泊3日の船旅)で日本を発って始めたユーラシア大陸「ほぼ」一周の旅, ソ連, つまり当時はあった(!)ソヴィエト連邦を旅した後は北欧に出て, その後, 徐々にヨーロッパを南下, 7月10日にイタリア・ブリンディジからフェリー1泊2日の船旅でギリシャ・パトラへと渡り(*1, 第3章以降にそこまでの各国各都市の旅 note へのリンクなど), その

ギリシャ, アテネ part γ' 〜 エロースが鎮座する国で「愛のコリーダ」観たり, アクロポリス・リカヴィトス等ぶらついたりの, 1983年7月下旬

1983年4月26日に日本を発ち, ギリシャ入国は同年7月11日1983年4月26日に横浜港から当時のソ連・ナホトカ行きのフェリー(2泊3日の船旅)で日本を発って始めたユーラシア大陸「ほぼ」一周の旅, ソ連を旅した後は北欧に出て, その後, 徐々にヨーロッパを南下, 7月10日にイタリア・ブリンディジからフェリー1泊2日の船旅でギリシャ・パトラへと渡り(*1, 第3章以降にそこまでの各国各都市の旅 note へのリンクなどあり), その後, ギリシャには 1ヶ月ほど滞在した(

ギリシャ, アテネ part β' 〜 1983年7月15-16日(写真14枚)

ギリシャ, アテネ part α' と 1983年4月26日に日本を発ってギリシャに着くまでギリシャ, アテネ part α' は以下 note *1 で(1983年7月10日にイタリア・ブリンディジをフェリーで発って翌7月11日にギリシャ・パトラに着き同日のうちに列車でアテネへ向かい .. そしてシンタグマ広場, アクロポリスとパルテノン神殿, リカヴィトスの丘など訪問・見物), そしてその前, 1983年4月26日の日本「出国」からイタリア・ブリンディジまでは note