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ハイファ(48イスラエル, 47イギリス委任統治領パレスチナ)への旅 〜 1983年10月4日

イスラエル国(1948年, 従前 約30年間「イギリス委任統治領パレスチナ」だったその域内に「建国」)の領内なのでその意味では単純に「イスラエル」と書いてもいいのだが, 1967年6月のイスラエルによる軍事侵攻以降 同年11月の国連安保理決議242号をはじめとする複数の安保理決議に逆らって既にこれまで半世紀以上の長きにわたりイスラエルが占領している土地(東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区, しかもイスラエルはその占領地内に国際法違反のイスラエル・ユダヤ人入植地を数多建設)や軍事封鎖している土地(ガザ地区)などを踏まえると, 領土や占領の観点においてイスラエルという国の在り方は些か錯綜している。そこで, 16世紀以降オスマン帝国の支配下にあり, 1918年になると同帝国に第一次世界大戦において戦勝したイギリス(大英帝国!)が占領, 1920年から1948年にかけては「イギリス委任統治領パレスチナ」であった地域のうち, 東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区およびガザ地区を除く, つまりは 1948年の「建国」以来 1967年6月以前までイスラエルが統治していた範囲を指して, ここでは便宜的に「48イスラエル」と呼ぶことにする。

なお, イスラエル「建国」に伴って域内の全パレスチナ人が難民化したわけではないので(当時 7-80万人のパレスチナ人が自らの家や土地を失い, 故郷を追われた, アラビア語で「大災厄」を意味する「ナクバ」については次章 *2 の note 第1章に詳述), 「48イスラエル」域内にも同域内のその全域においては少数派ながら, アラブ系イスラエル市民(パレスチナ人)が居住している。また, 例えば, 筆者が 1983年10月5日にハイファから旅したナザレに関しては今も住民の多数派はアラブ系イスラエル市民(パレスチナ人)。

1983年4月26日に日本を発って, 9月28日からパレスチナ/イスラエル 〜 ここまでの振り返り

1983年4月26日に日本を発ってソ連・ヨーロッパ諸国, トルコ・シリア・ヨルダンを旅した後, 同年9月28日早朝, ヨルダンの首都アンマンを発ってヨルダン川を渡り, 1948年5月「建国」のイスラエルが 1967年6月の軍事侵攻以来, 同年11月の国連安保理決議242号をはじめとする複数の安保理決議の撤退要求に従わぬまま(2021年の現時点で既に54年間, 1983年当時においては16年間)不当な軍事占領を続けているヨルダン川西岸地区に入り, エルサレム旧市街がある東エルサレムに宿をとった。以下リンク先 note *2 の第1章で パレスチナ/イスラエル問題概観, 第2章でエルサレムで撮った写真, 第3章で最初の2日間の見聞録, 第4章はパレスチナ系ヨルダン人のバンドの曲紹介。

その時代, 1982-83年頃がどんな時代だったか, とりわけパレスチナ人, パレスチナやイスラエル, レバノンに関わってどんな時代だったか, その一端, とはいえ重要かつ重大な一端に触れることになるのが, note *-1 にある1982年のイスラエルのレバノン侵攻, そしてベイルートのパレスチナ難民キャンプ(サブラ・シャティーラ)における虐殺事件(因みにボブ・ディランはその直後に恥知らずなイスラエル支持ソングを書いてリリースしている)。 

なお, パレスチナ/イスラエルの旅の3日目は, 西岸地区にあるパレスチナの街, キリスト生誕の地と信じられているベツレヘムを訪問し(note *3), 4-5日目にはジェリコ(エリコ)そしてマサダ死海に行った(note *4)。6日目, 1983年10月3日は, 東エルサレムのエルサレム旧市街を歩き, 西エルサレムでは「ホロコースト記念館」(ヤド・ヴァシェム)を訪ね, とエルサレムの「東西」巡り(note *5)。

また, 日本を発って以降, パレスチナ/イスラエルの旅に入る前に関しては, 以下リンク先 note *1 の第3章 1983年4月26日に日本を発って, 中東(西アジアおよび北アフリカ)諸国の旅に向かう前までの振り返り: ソ連 および ヨーロッパ諸国, および 第2章 ここまでのイスラーム圏(ムスリム多数派)の国々, 旅 note 振り返り 〜 トルコ, シリア, ヨルダン に。

*−1 ノーベル賞の季節になると思い出す, 2016年ノーベル文学賞受賞のボブ・ディラン。ディランの恥知らずなイスラエル支持ソングは, 1982年イスラエルのレバノン侵攻と同年9月のレバノンにおけるイスラエル同盟者であったキリスト教右派民兵たちによるパレスチナ難民等虐殺事件(ベイルート, イスラエル軍が包囲したサブラ・シャティーラ難民キャンプにて)の直後に書かれ, 1983年リリースのアルバム "Infidels"(「異教徒たち」)に収録。 

この一文は, 今も胸くそがわるくなるボブ・ディランの恥知らずな 1983年リリースのイスラエル支持ソングについての上掲 note と, 以下の 1983年の自分の旅 note との間に距離を置くための一文なり。

*1

*2

*3

*4

*5

さて, パレスチナ/イスラエルの旅の7日目, 1983年10月4日は, エルサレムを発って, 「48イスラエル」のハイファに行った日。

ハイファで会ったアラブ人(パレスチナ人)の老人 〜 1983年10月4日 

下に写真で掲げる旅日記の冒頭は, 前日 1983年10月3日に書いた「思い出し記」の最後の部分(前回 note に当たる, 本 note 前章リンク *5 note の第3章 パレスチナ/イスラエル見聞録 〜 1983年10月3日 に掲載したものの続き)。「ブリッジ」とは 1983年9月28日早朝 ヨルダンの首都アンマンを発ってヨルダン川を渡り, イスラエル占領下の西岸地区に入った時の「ブリッジ」(詳しくは前章リンク note *2)。筆者がそこで占領者イスラエルによるチェックを受けた「オフィス」には, "Welcome to Israel" というプロパガンダ・メッセージが掲示されていた。

以下の 1983年10月4日付 旅日記にある「師匠」とは, シリア・ダマスカス note から度々登場していた, トルコ・イスタンブールで同宿し, ダマスカス滞在時に偶然再会, その後のヨルダン, そしてこのパレスチナ/イスラエルの旅のこの日の朝まで行動を共にすることが多かった日本人バックパッカーでプロのカメラマン(「師匠」は風貌に由来するニックネームだったものと記憶)。

この日の朝, 筆者はひとまずエルサレムを発ち, 「48イスラエル」(については 本 note 冒頭に記述)の都市ハイファに向かった。「ベングリオン空港を経由」のところに書き込んだ「乱射事件のところ」とは, 例の 1972年, 赤軍派(後の日本赤軍)の日本人3名が実行部隊となったテロ事件のこと(当然ながら, 言うまでもなく, 筆者はこれを全く支持しない)。

因みに「ベングリオン」は, イスラエルの初代首相の名前。以下のイスラエルのメディア Haaretz, 2020年10月4日付の記事, 参考まで(!)。

記事のヘッド(見出し): Even Ben-Gurion Thought ‘Most Jews Are Thieves’

本文の冒頭は 〜 The quote in the headline wasn’t uttered by an antisemitic leader, a Jew hater or a neo-Nazi. The words are those of the founder of the State of Israel (David Ben-Gurion), two months after it was founded (on May 14, 1948) ... ( ) は筆者が加筆(May 14, 1948 は "it was founded" の日として イスラエルの一方的な「建国宣言」の日を付した)。

詳しくは前章リンク note *2 「パレスチナ, 1983年9月28・29日 〜 ヨルダン川を渡り イスラエルによる国連安保理決議違反 軍事占領下の西岸地区に入る」第1章 2021年の今も続くパレスチナ人の悲劇 「ナクバ」 〜 アメリカ合州国による徹頭徹尾のイスラエル(1948年「建国」)支援のもとで の *4)。

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旅日記の次頁(下掲)にある「オデッセイ」とは, 筆者を含む当時の日本人 "貧乏旅行" バックパッカーの一部が愛読していた世界 "放浪" の旅をガイドする日本のミニコミ誌(今もあるかどうかは知らない)。「オデッセイ」とは, いいネーミングだった。なんたって "Odyssey",

しかし旅日記にある通り, 「オデッセイのイスラエル版は かなり いいかげん」だった。 

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道をたずねて教えてくれた老婦人といい, 声をかけてくれたカップルといい, たいへん親切だった。

最初の「いい」は上掲の旅日記の中で勢い余って(?)誤って「言い」と書いてあるけど, 勿論これは正しくは「いい」。それはともかく, イスラエルの体制に極めて批判的な筆者ではあるが, とりわけ「48イスラエル」を旅していて, 多くのとても親切なイスラエル人(多くはユダヤ人)に出会ったことについては, きちんと書いておきたい。道を丁寧に教えてくれたり, ヒッチハイクに応じて車に乗せてくれたり, 等々, そういったことは一度や二度ではなかった。

さて, 下掲の旅日記からの引用。

Egged Bus Terminal からのバスの中から, ハッタをかぶったおじさんを 2人ほど見た。すなわち パレスチナ人だ。標識なども わりと アラビア語併記がある。
夕方近くなって 地図にのってる, 海に近いモスクをめざした。パレスチナ人に会える気がしたのだ。しかし そのモスクは閉まっていて, もう使われてないふうだった。

どういうわけか, わざわざ「ルーイン of モスク」なんてカタカナ英語(!)も書いてあるけれど, 

近くに, 他にも こわれたモスク(ルーイン of モスク) モスクの跡というべきか, 2つほど見た。ミナレットがあって, よくわかる。おわん型のドームも。(1つはミナレットのみ) そのあたり, くずれかけて もう使われてない建物が いくつかある。
明らかに アラブ人とわかる顔をした人たちを見た。アラブ人(つまり ここではパレスチナ人)経営と思われる理髪店も見た。お客さんも みんな アラブ人 風だった。アラビア語文字も わりと見た。

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ハターハをかぶった人を見た。おじいさんだった。彼は どこか あてどもなく歩いている かんじだった。静かにすーっと歩いてる。バーのようなところに入って すぐ出てきて また歩き出す。

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下掲の旅日記にある「フィラスティーン」とはアラビア語の「パレスチナ」。

追いかけて行って カメラを見せて take picture? と言うと 彼はだまって立ち止まった。暗いので こちらに移ってとジェスチャーで言うと, また だまって動いて立ち止まった。2枚とった。とりおわると, 彼は また すーっと歩き出した。気になったので しばらくして追いかけ, おじさん, マッサラーミ, アッサラーム アレイクム と言ってみたが 彼は何かつぶやくのみだった。フィラスティーン? アイワ? ときくと, かすかに うなずいたようだった。You? ときかれたので ヤバーニ と言うと, ヤバーニ と彼もつぶやいた。追いこして マッサラーミ と言って 手を上げると, 彼は歩きながら, こちらに手を上げて あいさつした。

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帰り, 他にも 1人, ハターハ(ハッタ)のおじさんを見た。(彼は元気そうだった)
また, シナゴーグらしきものも見た。(小さかったが, 中で ユダヤ人が 本 ー たぶん旧約聖書 ー 持って 祈ってた)

上記 シナゴーグとは, ユダヤ教の会堂(礼拝所のことでもある)。

以下, 上掲の旅日記から, 下掲の次頁 旅日記にかけて, 引用。

ここに住むパレスチナ人が どんな生活をしてるのか むろん わからない。何人ぐらい いるのかも わからない。
しかし, たとえ 彼らが 法的に ユダヤ人 と同等ということになっていても, ここは ユダヤ人の国 イスラエル が占領してる場所。しかも WEST BANK とちがい, まわりは圧倒的に イスラエリ・ユダヤ人。
彼らが日の当たるところで くらせてるとは思えない。
当然のように, ユダヤ人が 日常生活を送っている。もちろん, ここにも 幸せなユダヤ人家庭があるだろう。もう 35年, イスラエル建国から 35年 たってしまっている。

1948年から, 当時の1983年まで, 35年 経っていた。

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ハイファは港街。わりと静かなかんじの「いい」街だ。
アラブ人を わりと見たあたりで, アラビックの歌が流れてた。オデッセイによると, ラジオでアラビア語局が独立して 1局あるとのこと, それだろうか。
ホテルは EDEN HOTEL, Hahalutz ストリートにある。
アラブ人を わりとみたところは, Town Hall の横を右へ行って 海へ向かって おりていった Wadi Zalib 地区。

1983年10月4日, 「48イスラエル」の都市 ハイファ で見つけた, 「バルフォア・ストリート」 〜 1917年11月のバルフォア宣言 の「バルフォア」, その宣言(当時のイギリス政府によるシオニズム支持表明, イギリス三枚舌外交の一つ)をした主であるイギリスの外務大臣アーサー・バルフォアの「バルフォア」

前章に載せた 1983年10月4日 付 ハイファ旅日記 の続き。

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上掲の旅日記から 引用。

ホテルのわりと近くに バルフォア ストリート なんてのがある。

バルフォア は勿論, 1917年11月の バルフォア宣言 の バルフォア, その宣言をした主である, 当時のイギリスの外務大臣アーサー・バルフォアバルフォア

バルフォア宣言 は イギリス政府によるシオニズム支持の表明(当時のイギリスの三枚舌外交:1915年10月のフサイン=マクマホン協定で中東地域におけるアラブ諸国独立を約束, 1916年5月のフランス・ロシアと秘密裏に結んだサイクス・ピコ協定で同3ヶ国による中東地域の分割支配を目論み, 1917年11月のバルフォア宣言ではイギリスの当時の外務大臣アーサー・バルフォアがイギリス政府によるシオニズム支持を表明)。

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この男が, アーサー・バルフォア。右が, バルフォア宣言。

引き続き, 上掲の旅日記からの引用。

地図によると, シオニズム アベニュー なんてのもある。

シオニズム(ヨーロッパにおける長年のユダヤ人差別の歴史を背景に [直接的きっかけは1894年のフランスにおけるドレフュス事件] 19世紀末から始まっていたユダヤ人のパレスチナへの移民の動き; シオニズムの「シオン」は 旧約聖書に出てくるエルサレム地方の呼び名)が 1948年のイスラエル「建国」や今日のパレスチナ/イスラエル問題に果たした・果たしている役割については, 以下 note 第1章 2021年の今も続くパレスチナ人の悲劇 「ナクバ」 〜 アメリカ合州国による徹頭徹尾のイスラエル(1948年「建国」)支援のもとで において言及。

さらに, 上掲の旅日記からの 引用。

そういえば, ベングリオン空港なんてのもあるからなぁ。

前章でも書いたが, ベングリオン は, イスラエルの初代首相の名前。以下イスラエルのメディア Haaretz, 2020年10月4日付の記事, 参考まで(再び!)。

記事のヘッド(見出し): Even Ben-Gurion Thought ‘Most Jews Are Thieves’

本文の冒頭は 〜 The quote in the headline wasn’t uttered by an antisemitic leader, a Jew hater or a neo-Nazi. The words are those of the founder of the State of Israel (David Ben-Gurion), two months after it was founded (on May 14, 1948) ... ( ) は筆者が加筆(May 14, 1948 は "it was founded" の日として イスラエルの一方的な「建国宣言」の日を付した)。

詳しくは本章の上段で再びリンクを付した note 「パレスチナ, 1983年9月28・29日 〜 ヨルダン川を渡り イスラエルによる国連安保理決議違反 軍事占領下の西岸地区に入る」第1章 2021年の今も続くパレスチナ人の悲劇 「ナクバ」 〜 アメリカ合州国による徹頭徹尾のイスラエル(1948年「建国」)支援のもとで の *4 に。

さらに, 上掲の旅日記からの引用, 続き。

地図によれば, ハイファには 非合法移民の museum がある。

1948年のイスラエル「建国」前の「非合法」活動ということでは, こんなものもある。以下 note 第3章 パレスチナ/イスラエル見聞録 〜 1983年10月3日 に書いたことを, この note リンクの下に転載しておく。

上掲 note 第3章の中の 旅日記 4/4 にある, ヤド・ヴァシェム(西エルサレムにある, イスラエルが 1953年にクネセトつまりイスラエル国会の決議に基づいて設置したイスラエル国立の「ホロコースト記念館」)で見た説明に関連しての記述。

「イスラエル」への「帰還」とあるが, 20世紀に作られた国「イスラエルは, 1948年5月以前は存在しない国。
なお, 「イギリスは ユダヤ人が パレスチナに帰ること(enter to Palestine とあった)を拒絶したが, 非合法の帰還をふせげなかった, という説明」について, 当時のシオニストたちが, パレスチナ人に対してだけでなく, イギリスに対してもテロ活動を行なっていたことに関連し, 後にイスラエル首相となるメナヘム・ベギン(מנחם בגין‎, Menachem Begin; 1913年8月16日生まれ, 1992年3月9日他界)のことを, 以下の旅日記 当該頁の写真の下に, 書いておきたい。

(以下は, その 1983年10月3日付 旅日記の一部, 「当該頁」)

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メナヘム・ベギンは, 1977年6月20日から1983年10月10日まで イスラエル首相を務めた人物 である。つまり筆者のパレスチナ/イスラエルの旅の途中の時期まで, 彼はイスラエルの首相だった。
メナヘム・ベギンは, ロシア領ブリスク(現ベラルーシ領ブレスト)生まれ, 同地は1919年から1939年にかけてはポーランド領, 1939年からソ連が占領。ベギン自身は1942年のソ連脱出後にユダヤ人の非公然武装組織イルグンに参加し1947年頃にはそのリーダーになっている。ベギンが参加していたイルグンは, 当時パレスチナ(イギリス委任統治領パレスチナ)に駐在していたイギリス軍司令部があったエルサレムのキング・デイヴィッド・ホテル爆破(1946年7月, 91名死亡)といったテロ活動を行なったが, さらにベギンがリーダーとなって以降のイルグンは, 1948年5月のイスラエルによる一方的な「建国」の宣言の直前, 同年4月のパレスチナのデイル・ヤシーン村におけるパレスチナ人村民(アラブ系住民)虐殺(犠牲者数は定まっていないが, 少なくとも107人以上が殺されたとされる)などのテロも行なっている。
これらは歴とした事実, 当然ながら歴史的な事実と認定されている事件なのだが, 要するに当時のパレスチナ駐在中のイギリス人や住民であるパレスチナ人(パレスチナに住んでいたアラブ系住民)などに対するテロを行なった, 文字通りのテロリストであった男が, 後にイスラエルの首相になっているということ。ウィキペディアによればベギンは「パレスチナ人は2本足で歩く野獣である」と公言していたとか。(首相辞任の前年)1982年のレバノン侵攻時もイスラエルの首相はベギン
因みにイスラエルによる1982年のレバノン侵攻といえば,

次章は, 1983年10月4日付 旅日記の最後。

ああ! 疲れる! Heavy だ!

前々章, 前章に掲載した旅日記から続く, 1983年10月4日付 旅日記, その最後。

「ここ」の下に「パレスチナ」と書いてあるのは, 別の言い方, より厳密な言い方をすれば, 「47パレスチナ」, 当時(1920-1948年)の統治の主体を明確に併記するなら「47イギリス委任統治領パレスチナ」, そしてその域内に1948年5月以降できた国が 1967年6月以前まで統治していた範囲が「48イスラエル」。

「ヘブロン」は, 1967年6月のイスラエルによる軍事侵攻以来, 同年11月に採択された国連安保理決議242号をはじめとする複数の安保理決議に違反してイスラエルが 2021年の今に至るまで既に半世紀以上の軍事占領・支配を続けている, 東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区にある街の名前。「ユダヤ人のヘブロン」とは, 下掲の旅日記に記載の通り, エルサレムで最初に泊まった宿に置かれていたヘブライ語の新聞の見出しにあった表記(筆者はヘブライ語を解さないから同宿のヘブライ語が分かる人間から聞いて知ったか, あるいはそこだけ英語表記だったのかも)。「軍への投石に反対する(!)デモも。(もちユダヤ人のデモです)」の「軍(占領軍)への投石」をしているのは, 言わずもがな, 占領されている側のパレスチナ人たち。で, この投石のあった方向にあるパレスチナ人の店が, それだけの理由で イスラエルの占領当局によって強制閉鎖されたりする(ナチス・ドイツの時代は, ユダヤ人の商店がナチスに強制閉鎖されたりしたものだったが)。 

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さて, 今日も今日とて, note の最後は 音楽で。

"A little love and affection in everything you do, will make the world a better place, with or without you" 〜 'Falling From Above' (Neil Young) ♫

この歌の歌詞の中には "Rollin' through the fighting, rollin' through the religious wars, rollin' down the temple walls, and the church's exposed sores" というくだりがあるけれど, 今日の note の中でも度々取り上げていたパレスチナ/イスラエル問題の本質は, 一部で依然として誤解されているような, あるいは喧伝されているような「宗教戦争」でもなければ「宗教紛争」でもない。宗教の対立によってコトが起きたわけではない。事実, あの地にシオニズムの波が押し寄せる前までは, 多数派のムスリムも比較少数派のキリスト教徒もユダヤ教徒もそれぞれ際立った対立などすることなく, 現地に住む彼らは平穏に暮らしていたとよく言われる。ただ, 問題の根源は宗教間の対立で始まったことではないにもかかわらず, 残念ながら宗教の違いが「火」= 出来上がってしまった険悪な関係性 = に「油」を注ぐという側面はあるのだろうと思う。それはともかく, 

Falling From Above 〜 from Neil Young's 2003 album "greendale" ♫

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞・全編を削除し, 以下の通り歌詞の一部のみの掲載に改めました。歌詞・全編に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

..............................

Rollin' through the fighting
Rollin' through the religious wars
Rollin' down the temple walls
And the church's exposed sores

Rollin' through the fighting
The religious wars
Mostly came up with nothin'

...

"a little love and affection
In everything you do
Will make the world a better place
With or without you" ..

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