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夢記エッセイ 生業(なりわい)探し

(⭐︎この記事は#1~7の夢記をエッセイにしてまとめています。)
(⭐︎この記事は無料マガジン「萌衣のnote」と有料マガジン「夢記(ゆめのき)」で公開されています。)

Q|「地に足をつける。」これってどういう感覚でしょうか?働いて一人暮らしができるようになったら得られますか。それとも、誰にも頼らず悩みを解決できるようになったら身につくものでしょうか。いつもどこか遠くに行きたくなってソワソワしてしまいます。

新たな地に足をつける

 RADWIMPSの5月の蝿という曲がこのところずっと頭から離れなかった。なぜだろうか?「5月の蝿」について考えることから始めよう。

この曲はRADWIMPSの野田洋次郎さんが恋人だった吉高由里子さんのことを書いたと言われている。本当かどうか知らないが、この曲のコメント欄だけ閉鎖されている。

まぁゴシップなんかはどうでも良くて、この曲が孤独な男性の最愛の女性との別離を歌ったものだとすると、いくらかの心の良薬になると感じた。「5月の蝿」のタイトルは「季節が変わりそうなので、今の部屋のままだと具合が良くない。整理・掃除をしていこう」という解釈をした。

 ところで昨日はドラマ昼顔を夜通し一気見した。2014年流行語大賞にノミネートされ、社会現象になったドラマ。既婚女性の恋愛について描いている。

キーパーソンは主人公の女性と不倫関係になる妻ある男。この男は高校の生物の教師であり、重要な場面で昆虫の生態について解説し、日本人の一夫一妻制や夫婦のあり様との対比を描く。人間も昆虫と同様に生物的本能が備わっていると暗にメッセージを発しているキャラクター。

 さてここまでに書いたのは、人間の本能、いや魂とも呼ぶべきもの同士のつながりとその終焉についての考察の例である。この現象はいかにして起きるのだろうか?

壁を抜ける引力

 ドラマ昼顔では、互いに夫婦がいるにも関わらず不倫にのめりこんでいく。その過程で主人公は家庭も友人も仕事も失う。愛は病というが、時に強烈な引力があるということなのかもしれない。

 しかし結婚しているからには家庭にだって愛はあったはずだ。ドラマで描かれた愛はどういった種類のものだったのだろう?例えば心理学者Lee. J. A. は愛を6つの型(ロマンティック、ゲーム、友愛、情熱、利他、合理)に分けて考えている。

 例を挙げてみる。日常のシーンで生物教師の北野は妻に礼を言う際、他人行儀に「どうもありがとう」と言うのだが、それを妻にたびたび咎められている。北野の夫婦愛は主に友愛で成立していたのだろう。もしかすると妻への愛に、ほとんど自覚的ではなかったかもしれない。

しかし北野は主人公の女性に出会って、自分の持つ愛情を違った形で少しずつ見出していく。作中、妻に「どうして彼女を選ぶのか?」と2度聞かれるのだが、1回目のドラマ版では、「彼女といると自分の内側からエネルギーが湧いてくる」と答え、2回目の映画では、「わからない、分からない、ただ彼女が好きなんだ」と答えた。心理学者Lee. J. A. の理論で考えると、北野の愛は、「合理的な価値志向の愛」に始まり「一体感を求めるロマンティックな愛」に移行したと考えられる。

一方、主人公である紗和(さわ)は初めから本能的に北野に惹かれているように見える。

北野と出会う前の紗和の生活は、昼間のスーパーのバイトと、家庭での洗濯と食事、掃除の全ての家事、そして姑(しゅうとめ)と憩(いこ)いの時間を過ごすことで成り立っていた。それを当たり前の日常として、何も欠かすことなく続けていた。家でハムスターの番(つがい)を愛でる旦那に対して内心では何か思ってもそれを口にするでもなく、愛嬌すら失わない。それが彼女の生活の場所であり、友愛的な家庭だった。

安定したかに見える日々の中にいても、次の瞬間には持っていたはずのものも、かつての自己認識にすらも別れを告げることがある。体感したことのない愛情とそれを欲する状況が重なる時、人はどうしようもなく異なるフィールドへといざなわれるのかもしれない。


繋ぎ目をほどく


 元いた場所から異なる場所に移る前に、その人の自我は一度死に、自己に統合されるという(仏教の十牛図という悟りに至るまでの過程を描いた作品で説明される考え方)。


 私が新たな地に足をつける前に捨てなきゃいけなかったのは昔のまま固着(こちゃく)してしまった自己認識である、とこの夢から判明した。

しかし、長らく私は過去の私を色眼鏡として携えたまま生きてきたので、転換期が来るのを歓迎しているものの、彼女(自我)の存在を忘れなければならないのがとても可哀想に思えた。ただもう生じ始めた変化は止まらないので、最期にどこかに漂っているであろう彼女の懸命な生き様に敬意を表してお別れをした。

そして異質な愛が混在した大地は、今はもうない。もともと安定的に存在してこそいなかったような気もするが。

Nariwai(生業)


 ところでドラマ昼顔を観ている間、私は「地に足をつける」ために、日常をつくるヒントを探していたように思う。そうしてるうちに、主人公の紗和に強く興味をもった。

彼女は仕事がとても板についていた。パートも家事も肌身に染みて無理なく取り組んでいる様子であり、その佇(たたず)まいは家庭を長く安全な居場所として機能させていた。

 彼女は生物的本能に従って住む所を移したが、新たな場所でも変わらずに同じような服装で同じようなご飯を作っている。どこに誰といたとしても、それが彼女が自然とやってしまうことなのだろう。

この自分の今いる場所で自然と為される行いこそ、安定して継続されるのではないだろうか。家事でなくたっていいのだが、みんながこの種類の何かをずっと探しているように思う。

 それは生業、生(生きる)ことと業(日々取り組むこと)とが両立する何かである。人はそれが骨身に染みてわかったとき、「これで生きていく」と、地に足がつくのだろう。

 「生業を自分に同居させる。」これはアフリカで1人のホモ・サピエンスが生まれた時から連綿と続いてきたこと。5万年前の時代であっても自分に生じたであろう心の機能を、今いる場所で、道具を変えて繰り返していくのだ。

ドラマを通して、「地に足をつけよう」と、私の精神の構造が底の方からズズズズッと形を変えていく動きを感じた。自分の生業はなにか?それは日常に落としこむとどういう形を得るのか?この問いに応えるように、これまで積み上げてきたものの中から一つの閃きがもたらされた。形になった考えと結果はこれからもnoteに記録していこうと思う。

 最後に、これまでの夢シリーズのうち「日常をつくる2つのおもちゃの夢」からのメッセージを共有したいと思う。

🦖|仮面をつけても誰も気づいちゃくれない
🐇|仮面を外したあなたを救う場所を探しにいこう

私もよく忘れてしまうのですが、自分の本当の声を大切にしよう。そうして自分の生業がわかったら、必要のないものは捨てられる。

すぐに捨てられないものは時間の湖に投げてしまおう。何年かかったとしても、その労力は自分の存在と等価に交換されるから焦る必要はない(と思う)。

片付けが終わるとあたりにパズルのピースが散らばっているのが見えるはずだ。色とりどりにひかり、ピースは形作られるのを待っている。

自分の手が自然と動き出し、ピースを集めて組み上げていく。扉になった。扉は壁に組み込まれているようだ。通り抜け、新たな地で見えたのは私の平凡な日常だった。


私的A|「ここで生きていくのだ。」と、腹が据わるような温かい想いがじんわりと自分を、家を、街を包むような実感が湧いた。



(⭐︎この記事は有料マガジン「夢記(ゆめのき)」と無料マガジン「萌衣のnote」で公開されています。詳しい夢記が気になる方は下のURLからご覧ください。)

まとめ
#1 新しい日常、心構えの夢
▷ https://note.com/dailyisland/n/n7b88b2b210e0
#2 名前の終わりの夢
▷ https://note.com/dailyisland/n/na9ba5a017b00
#3 癒しの夢
▷ https://note.com/dailyisland/n/n5bc714c12979
#4救済のあらまし、新たな課題の夢
▷ https://note.com/dailyisland/n/n18daf3571965
#5 日常をつくるおもちゃ 愛と夢の夢
▷ https://note.com/dailyisland/n/n5f34241d11a6
#6 新しい日常の計画の夢
▷ https://note.com/dailyisland/n/n8ddfb53e9896

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