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編集者・川島栄作さんのはなし(前編)――わたしの瞑想体験記その1

ほぼ毎朝、瞑想している五十嵐と申します。瞑想(マインドフルネス)の書籍を作る出版社サンガにおりましたが、2021年に事業停止し、現在は新しい職場でオールドルーキーのライターとして働いています。ライフワークに据える瞑想について、いろんな人のお話をお伺いしてブログで公開していこうと思います。

第1回は元同僚へのインタビュー。サンガ時代に「テーラワーダやマインドフルネス、チベット、禅」と多様なジャンルに精通し、多くの瞑想本を手がけてきた編集者・川島栄作さん(株式会社サンガ新社 取締役)に、ご自身の瞑想遍歴についてお伺いしました。現在、川島さんはクラウドファンディングを実施中です。 

仏教を生業とする出版社へ

ーー破産した出版社サンガのことや瞑想や仏教のことなどについて伺います。サンガでは瞑想の本を作っていましたが、自分でも瞑想はするのですか?

サンガの仕事は趣味と実益じゃないですけど、自分の実人生にとって、結構深い結びつきがあったというか、いろんな意味で自分のやりたいことをやっていたなと思うんですよね。仏教自体がそうだし、瞑想もそういう感じでしたね。
サンガの瞑想本はヴィパッサナー瞑想が代名詞だったかと思いますけど、僕自身は必ずしもヴィパッサナー瞑想だけではなかったというか、かなり我流(笑)。

ーーサンガに入る前から瞑想してたんですか?

意識的に瞑想を始めたのはおそらく30代前半からです。サンガに入ったのは43歳の時でしたから、10年以上は瞑想してたことになりますね。10年間毎日と言うと嘘になりますけど、瞑想は常にしていましたね。
それで、サンガは社長(故・島影透氏)が毎朝、会社で瞑想していたんですよね。「そうか、瞑想を推奨している会社なのか」と思って、朝、瞑想してから出社してました。夜だと疲れ果てて帰って気絶するように寝てたんで。サンガは体育会系の会社で朝の出社時間は厳守だったでしょ。夜は終電でも朝は9時出社。途中から緩くなっていったけど。入社して2年目くらいだったか、遅刻常習犯ではあったわけですけど、ある日、遅刻して「何で遅れた?」と聞かれて、「家で瞑想して遅刻しました」と言ったら、社長にものすごく激怒されたんですよね。

ーー目に浮かびます(笑)

以来、会社優先で瞑想の時間は短くなりましたね。
島影社長の名誉のために行っておくと、社長は何があろうと必ず読経と瞑想だけは毎日していて、ほぼ会社に寝泊まりして住んでいる状態でしたけど、なにがあっても、どんな状態でも、夕方に起きようが海外にいようが、絶対に瞑想だけはしてたんですよね。一度、理由を聞いたら、会社のことをする前に必ず瞑想しているんだと言ってましたね。会社の判断をするのはその日の瞑想が終わってから。これは凄いと思いました。「じゃあ他人にも許せよ」とは思いましたけど(笑)。

瞑想を始めるキッカケ

ーーそもそもどうして瞑想をするようになったのですか?

ざっくり簡単に言うと、30歳のころに精神の危機のようなことがあったんですよ。ユング心理学などで言うたぐいの話で、心の深い地下室に降りちゃったみたいな。無意識の領域が一気に表舞台に出てきてしまったというようなことがあって。そういうことがきっかけです。

ーーもう少し具体的に話してもらえますか?

その頃、某テレビ誌でフリーの契約で編集をしていて、仕事も私生活も割と順調だったんですよね。広告タイアップのページを作ってたんだけど、結構好きなように仕事していたんですね、予算もあまり気にしなくて、それなりにアイデアを形にできる感じで。ただバブルがはじけた後で、出版業界は発行部数がほぼピークに達しているようなころで、そろそろ縮小傾向に向かう時期ではあった。その時に何を思ったか、違うことがしたくなってやめたんですよね。

実際、やめる1年前くらいから、仕事中にも本ばっかり読んでいて、トランスパーソナル関係やコリン・ウィルソンを入り口にオカルト関係とか、洋の東西を問わずいわゆる精神世界系の本を手当たり次第に読んでいて。それで、やめる半年前くらいからヨーガを始めたりして。これ、1996年の話です。オウム真理教の地下鉄サリン事件があったのが1995年3月で、仕事でよく築地から日比谷線も使っていたから、事件に巻き込まれていてもおかしくない環境でした。運よくというか、その日は職場のテレビで中継を観ていたのを覚えています。
だから、ユングとか精神的な本は昔から読んでいたけど、実際自分でヨーガを始めたのはオウム事件のあとなんですよね。世間が一斉にヨーガを怪しんでいる時に、東京中のヨーガ道場を渡り歩いて、なかには空中浮遊を喧伝する人なんかもいたんだけど、最終的に沖ヨガの本部に紹介してもらった人にヨーガを習っていました。沖正弘の直弟子の方でした。
それでまぁ、1996年の春先に仕事辞めて、この先どうしようかなとヨーガに通いながらのんきに考えていて。そしてある時、友達が編プロを紹介してくれて、条件的にも内容的にも絶好だったんだけど、何を思ったかその話を断ったんですね。電話で「いいお話なんだけど、ごめんなさい」みたいな感じで。そしたら、その瞬間から世界が変わってしまった。

ーー「断ってしまって申し訳ない」という気持ちですか?

いや、そういうのとは全然違う。自分で自分の人生を閉じたというか、自分に対して取り返しのつかないことをしたような意識になったんですね。客観的にみると、何でそんなことで、と思うだろうけど、本当に苦しんだ。実はその前に少し布石があって、ヨーガを始める前くらいから変な夢をよく見るようになっていて、ユング的に言うと元型がよく夢に現れるようになっていたんですね。

ーー元型ですか。老賢者 (wise old man)とかだと格好いいですよね。

そういう穏当なのだったらいいんだけど、地下鉄ホームにいる気の狂った女の人だったり人斬りの殿様だったりシャーマンの少女だったり。それはあくまで夢の中の話だったんだけど、その電話の瞬間から世界全体が変わってしまったんだよねぇ。夢のほうもより一層深くて変なものになっていって。
それでそこからまた手当たり次第に本を読むようになって。三島由紀夫とかヘッセとかカミュとか、今思うとその時の自分の精神状態に近いものを読んでいたのかも。『金閣寺』とかめちゃくちゃ共感を持って読んだの覚えてる。またその時その方向で品ぞろえにいい古本屋さんが近所にあったんだよ(笑)。
それで、ようやく瞑想の話になるんですけど、その一連でヘッセの『ガラス玉演戯 』と『東方巡礼』を読んだんですね。この2作でヘッセはノーベル文学賞を受賞するのですけど、新潮文庫で絶版になっていて古書店にもなかったんで、図書館で探して。
当時の日記を読み返すと、世界が一変したのが9月で、10月に「『東方巡礼』を道具に瞑想をする」と記してあるんですよ。どういう瞑想をしたのかは思い出せないのだけど、そのときに自覚的に瞑想をしている。それまではヨーガのアーサナはやっていたけど、自覚的に瞑想はしていなかったはずなので、この頃から瞑想を意識的にやるようになったんでしょうね。その後も「今日はうまく瞑想できなかった」とかいう記述が日記にあるし。『東方巡礼』の終わり方を考えると、多分、仏像を観想するサマタ系の瞑想だったのではないかと思います。すみません、覚えてなくて。

ーーその後、瞑想の指導者にはつかなかった?

指導者にはつかなかったですね。心の観察を完全な我流でやっていました。知っていれば当時もう活動していたゴエンカさんの瞑想センターに行ってたもしれないですが、縁がなくて。僕はいわゆる宗教が苦手で、その時に習っていたヨーガの先生のもとも、ちょっと宗教っぽくなってきて離れていたんですね。
瞑想とは直接しないですけど、宗教系ではなく何か身体的なことをしたいと思って、現代舞踊の勅使川原三郎のワークショップに通います。実は、ここでの体験はとても大きくて、身体を通していろんなことに気づかされました。そのあと、その流れで暗黒舞踏もやるようになって。編集業務のひとつである校正でお金を稼ぎつつ、軸足は暗黒舞踏という時期がしばらくあって、紆余曲折でサンガに入ったころは、実家の畳屋をやりながら軸足は暗黒舞踏でしたからね。瞑想に絡めて言うと、舞踏はほぼヴィパッサナー瞑想ですよ、っていうと語弊があるか。
サンガに入る数年前に、友達を通じてスマナサーラ長老のことを知って、ゴータミー精舎の初心者瞑想指導に行ったりしてましたね。宗教嫌いはそのままなんだけど、仏教は別口になっていたので。

ーー予想に違わぬ瞑想オタクぎみ(笑)なエピソードありがとうございました。インタビュー後編はコチラ




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