民の不平不満

[民数記 11:1,2,3,4,5,6,7,8,9,10]

さて、民は主に対して、繰り返し激しく不平を言った。主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。
すると民はモーセに向かってわめき叫んだ。それで、モーセが主に祈ると、その火は消えた。
その場所の名はタブエラと呼ばれた。主の火が、彼らに向かって燃え上がったからである。
 彼らのうちに混じって来ていた者たちは激しい欲望にかられ、イスラエルの子らは再び大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。
エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。
だが今や、私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ。」
 マナはコエンドロの種のようで、一見、ベドラハのようであった。
民は歩き回ってそれを集め、ひき臼でひくか臼でつき、これを鍋で煮てパン菓子を作った。その味は、油で揚げた菓子のような味であった。
夜、宿営に露が降りるとき、マナもそれと一緒に降りて来た。
 モーセは、民がその家族ごとに、それぞれ自分の天幕の入り口で泣くのを聞いた。主の怒りは激しく燃え上がった。このことは、モーセにとって辛いことであった。

民数記 11:4,5,6節には 「彼らのうちに混じって来ていた者たちは激しい欲望にかられ、イスラエルの子らは再び大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。だが今や、私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ。」と書いてある。
イスラエルの民たちは、荒野の旅中、毎日日ごとにマナというパンを神様から頂いていた。これは神の憐みであり、恵みである。なぜなら荒野での生活は食料は手に入らないからだ。それにも関わらず、彼らは激しい欲望にかられて神に不平不満を漏らしたのだ。
この出来事は私たちの生活にも当てはまる。
私は青年期、よく朝ごはんにパンを食べていた。
私の家では朝ごはんにはいつもパンがでてくるからだ。特に、食パンが苦痛に感じた週があったのを覚えている。私は母につぶやいた。
「毎日食パンかよ!飽きるわぃ!
もっとカレーとかお味噌汁とかない?」
母は言った。
「あんた、食べれるだけで感謝やでぇ?」
それは強烈な右ストレートパンチのようであった。
たしかに、毎日食べ物が用意されているだけで感謝なのである。
私たちはすぐに当たり前でない出来事を数回経験すると、「当たり前」というレッテルを貼り付ける傾向にある。その結果、その出来事に対して感謝の気持ちが薄れていく。
イスラエルの民もそうであったのであろう。
私たちが今日覚えなければならないのは、
当たり前でない主の恵みである。
主は、私たちに数え切れないほどの恵みを味わわさせてくださっている。
息ができること、目が見えること、耳が聞こえること、手足があること、住む場所があること、
数え出したらキリがない。
私たちの主は私たちを愛し、日々の糧を下さる恵み深いお方だ。ハレルヤ。


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