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「人間の自由」1話・兄さん、ボク、顔に刺青を入れようと思ってるんですよ

 福沢諭吉はLiberty(リバティ)を自由と訳した。リバティはFree(フリー)とは少し意味がちがう。直訳すると、政治や社会的なものから自由な存在であるって意味だ。福沢諭吉はリバティに仏教の言葉である「自由」を訳としてあわせた。自由は仏教用語で「自らに由(根拠)がある」という意味だ。

 自分自身に真理や根拠がある。理屈化されるまえの混沌とした感触が、自分から湧きでる。規律が優先される学校や会社では、無意味だって思わされていたことだ。ぼくはこの無意味なことにこそ、自由があるって気がしている。

 東京に住んでいるとき。十年くらい前の話。ぼくはマンションの清掃をする会社で、バイトをしていた。この会社はバイトが現場の責任者をしていた。責任者はリーダーと呼ばれた。Kは一番、古株のリーダーだ。といっても十歳以上もぼくからは年下だった。彼は当時、二○代の中盤くらい。
 Kとはそれほど親密な関係ではない。それでも時折、彼のことを想いだすことがある。もう何年も会っていないんだけど。反復して想い返す記憶は、ぼくが世界を知るための通路だと思っている。世界を発見するためにKという記憶の地平に降りて行こう。

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「兄さん、ボク、顔に刺青を入れようと思ってるんですよ」
「どんな絵柄を入れたらいいですかね?」

 この清掃会社には、血気盛んな二○代の不良がたくさんいた。ぼくはちょっぴり肩身が狭かった。中でも、ちゃらちゃらして見えて、お調子者っぽいやつがいた。一度、往復四時間くらいかかる現場に二人っきりで行かされたことがあった。ぼくは気乗りしなかった。最初は、会話もぽつりぽつりだったと思う。

「ボク、ニーチェが好きなんです」

 本の話になって哲学者ニーチェの名前がでてきて驚いた。それから二人で哲学の話をするようになった。清掃現場に向かうハイエースの中。紺色の作業着を着た、まさしくブルーカラーなぼくたちが、哲学の議論をしていることが不思議で奇妙で面白かった。不良に囲まれている肩身の狭さから自由になれる時間だった。Kのことを知れば知るほど、哲学的な人間だった。彼は「概念」って言葉をよく使った。ジル・ドゥルーズは哲学とは「概念を創造すること」と宣言している。Kとの会話は新たな概念を創りだそうとするような時間だった。
 刺青を顔に入れるっていうのもKなら本当にやるだろう。ぼくは当然のように思えた。刺青はこの国では、人知れず身体のどこかに隠して彫るものだ。顔に墨を刻み込むこと。これには重大な覚悟がいる。その後の人生を左右する。でも彼が概念を創造するために、必要なことだったんじゃないかな。

「顔に墨を入れるなんてバカじゃないですか? もう就職もできないし。バカをやりたいですよ、ボクは。誰かに都合のいい常識や妄想でできた社会には、付き合ってられないですよね。刺青はボクの人生を現した『ギャグ』なんです。ボクは存在そのものをギャグにしたいんです」

 Kは社会の決まりや、自分の肉体や、世界にも抵抗していた。
 Kはバカバカしいことが本当に好きだった。自分のちんちんの写真を撮っては、後輩に毎日のように写メをして呆れられたり。彼女の部屋に遊びに行って、合鍵でコッソリ入る。彼女は女の子の友だちと部屋で談笑していた。Kは忍び足で廊下を渡り、そぉーとトイレに入る。服を脱いで全裸になった。すっ裸で女の子がおしゃべりしている部屋に、当然のような顔をして入って行く。彼女たちは絶叫した。Kはお構いなしに全裸のまま、お酒をだしたり何にもなかったように会話をする。全裸であることが、彼女たちの幻のように。Kの日常はこんな現実との境界線が曖昧になった、おバカで楽しい遊びで溢れていた。
 
「刺青の柄は、おもいっきりバカバカしいのがいいですよねぇ!」

 現場の行き帰りの車中。Kの顔に、どんな絵がふさわしいが考えるのが楽しかった。候補は色々とあった。ハエとかゴキブリ。人間に毛嫌いされているものをあえて入れる。人間が自分たちの都合で勝手に嫌っているだけで、昆虫は自然の生態系を守る優れた分解者だ。残念ながら、それらの刺青はすでに入れている人がいた。
 そんなの彫ったら人生が台無しになっちゃうよ、と真面目な大人が心配するような絵柄をKは欲していた。しかめっ面の社会から自由になるために。

 むかしむかし。人間はからだに絵を刻むようになった。五千年前のミイラ、アイスマンには刺青の跡があったそうだ。動物のように毛むくじゃらだった人間は、いつの頃から剥きだしの裸体を手に入れた。それからまもなく、人は皮膚にカタチを描きこむようになった。アイヌでは精霊への信仰のしるしとして刺青を彫った。アイヌの人々は、自然のなかの葉や石に精霊が宿っていて、人々を守ってくれていると感じていた。石はアイヌの人たちを見ている。葉は人間を見ている。母が子どもたちを見守るように。人間も石を見ている。石を見つめること。石に意識を超えた何かがあることが、アイヌの人たちの肉体を存在させた。

 Kは葉っぱを乾燥させて吸う煙を嗜んでいた。ドラッグの達人のようだった。ある日。Kはすっぱり葉っぱをやめた。理由は必要なくなったから。
「草の煙を吸ったとき。煙を肺に入れて、ぐうぅと息をとめるじゃないですか。しばらく肺に煙をとどめて、ふぅぅーと、もくもくしたものを吐きだす。
 最近はね。葉っぱを吸わずに、この一連の動作だけやってるんですよ。吸ってるふり。エアードラッグですよね。自転車に乗ってイアフォンで音楽を聴きながらやるんですよ。煙はなし。ぐうぅと息をとめてぇー、ふぅぅーと吐く。この吸って吐いてを繰り返してると、キマッたときみたいになるんですよ!」
 246から二子玉川に向かって自転車で走る。四車線の広い道路は、街のすべてを見渡せるような大きな下り坂になっている。この道で春に咲く桜は綺麗だった。Kは、エアードラッグでこの光景を見ている。坂道は大蛇のようにぐねぐねの脈打っていたかもしれない。Kは気体となって世田谷と川崎と宇宙のあいだを、行ったり来たりしている。
 Kは自分の肉体だけで、覚醒を創りだすことができた。精神の深いところにある不思議な記憶を煙を吸わずに呼び起こす。葉の記憶と同じものが人間にはある。Kは、森の思考を自由に創りだした。

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 Kはリーダーの中でも一目置かれる存在だ。現場の仕事で高圧洗浄機を上手く使える者が、リーダーになった。Kは高圧が上手かった。ポリッシャーという、まあるいブラジがグルグル回る清掃機材がある。洗剤をマンションの廊下にまいて、ポリッシャーで洗浄する。泡と汚水でまみれた廊下を高圧洗浄で洗い流す。
 掃除は廊下にある汚水を、高圧で排水溝に流し込むだけの単純な作業。Kが高圧のガンをさばくとそう単純には見えない、崇高な作業になる。羊飼いに操られるように汚水は、Kの意のままに動く。他のリーダーたちが手こずるような現場でも、Kの動きはしなやかだ。どんな危険な山道でもKという羊飼いは、難なく羊の大群を引き連れた。水は生きもののようで神々しくさえあった。

 朝。現場に向かう前に、ぼくたちは清掃道具をハイエースに積み込んでいた。みんなはこの紺色のハイエースを「デカ」って呼んでいる。由来は誰も知らない。デカにポリッシャーや高圧のエンジンとガンを突っ込む。リーダーのKはいつもどうり、ゆっくりと遅刻ギリギリでやって来た。
 事務所は世田谷にある用賀インターの近く。閑静な住宅街の中にあった。ぼくらが事務所にやってくるのは、早朝のだいたい五時から七時の間。

 静かなで穏やかな空気に桜の花びらが一枚、なびいていた。桜の季節が終わった頃。Kの左の頬には花びらの刺青が一枚、存在していた。

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 Kは顔への刺青に花をえらんだ。バカバカしい柄を期待していたから少し拍子抜けしたけど、わかる気もする。ただそこに咲く花は自由だから。
 仕事中は、頬に絆創膏を貼って刺青を隠した。首の刺青はバンダナを巻いて見えないようにした。指の甲には文字の刺青が。
 映画「狩人の夜」のロバート・ミッチャムも指に刺青を入れていた。ミッチャムは、右指に〝LOVE〟左指に〝HATE〟という文字を彫った。ミッチャムは詐欺師で、宗教家になりすまして金をだまし取ろうとする男だった。意味のある文字は、人間をまやかす。
 Kは指に、〝ZUKUSHI〟というローマ字を刻んだ。ズクシにはズクシという音の響き以上の意味はない。愛とか憎しみといった、感情の押しつけもない。だからミッチャムとは全くちがう。無意味なこと。意味から解き放たれて軽々しくなること。軽みをおびた響きは、世界へと感覚をひらいた。

 YというKの同級生がいた。Yも同じ清掃会社で働く同僚だ。Kのことをよく、ぼくに教えてくれた。Kは動物があんまり好きじゃないと言ってた。
「じつは、犬とか猫そのものは好きなんですけどね。飼っている人の一部で、明らかに動物の自由を奪っている人たちがいるじゃないですか。人間と動物という服従関係は好きになれないんですよね。人間と動物ではなくて、動物と動物になれたらいいですよね」
 Yは大の犬好きで、自宅のマンションに一匹飼っていた。
「Kが家に遊びにくると、うちの犬に『しっしっ』とか『あっち行け!』とか言ってうるさいんですよ。でもね俺がトイレに行って、そぉーと戻ってコッソリ部屋を覗いたんです。Kはうちの犬を膝に乗せて、なでなでをしてたんですよね。俺が戻ってきたことに気がつくと、また犬に『あっち行け!』って犬嫌いなフリをするんですよ」
 犬は青と黄色で世界を見ている。ってどこかで聞いたことがある。犬にとって緑の葉は鈍い青色で、赤い血は濁った黄色に見えるそうだ。人間の眼球は赤、青、緑の三色をかさねて混ぜ合わせたりしながら、世界の彩色を創造する。犬よりは色彩豊かに世界を見ていることになる。カメの目は四色で光景を見ているそうだ。もしかすると、亀は人間には想像もできない極彩色で、世界を見ているかも知れない。犬は二色の素朴な視点で人間たちを眺めている。犬から見たKはどんな色で、どんな人間に見えるのだろうか。

 ある日。会社の事務所に電話がかかってきた。埼玉の現場。四十階以上もある高層マンションの住人からだった。

「おたくの会社の清掃員に、刺青が入っている人いますよね? 恐いからその人たちが掃除に来ないようにしてください」
 

 事務所はざわめきたっていた。Kはアルバイトの中でも最も古株で、仕事もできるリーダーだった。彼だけが任されている現場も数多くある。会社はKを自宅待機させた。もちろんその間に給料はない。Kはアルバイトの中で一番の高給取りだった。この会社は一度辞めてから、出戻りしてくる人が多い。戻ってくると、もちろん時給は下げられた。
「Kくんが辞めてまた戻ってきてくれたら、人件費がへっていい」
 社長は冗談で酒の席でわめいていた。Kの次に時給がよかったQも刺青を入れていたので現場にでられなくされた。
 不都合な人間はシフトから名前が消える。KとQの名前はシフトから消えた。シフトから名前が消えることを「ハブかれる」って呼んでいた。会社は彼らの代わりに、もっと時給の安い若い子たちをリーダーにして、現場をまわそうとしている。すべては会社の都合のいい方へ話は進んで行った。長年、会社に貢献したKたちに対する敬意は全く感じられない。ぼくたちの不満は爆発しそうだった。
 社長の奥さんから、バイトの一人一人に電話がかかってきた。ぼくたちの敵意を察知したんだろう。そもそもKたちは、サポーターや絆創膏で刺青を完全に隠していた。仕事中にマンションの住人さんに見せるようなことは、一度もしたことがない。それに彼らより時給が安い若い子たちの体にも、刺青はちゃんと入っている。会社も、じつはそのことを知っている。Kは顔に刺青があるから、Qは顔にはないが体全身に彫られているからハブかれる。若い子はワンポイントのタトゥーだからハブかない。Qたちは時給が高いからハブかれる。若い子は時給が安いからハブかれない。

「これはね。Kくんたちの問題ではなくって、会社全体の問題なの。もし刺青のクレームがつづくと取引先の現場が減って、他の子たちの給料が払えなくなるでしょ? 仕事自体がなくなってしまうのよ。だからね、Kくんたちには申し訳ないけど……」

 社長の奥さんは丁寧な口調だったが無機質だ。冷淡に頭を押さえつけ縛いてやろうって意思があった。牙を向けようとするぼくたちを、鎖でつなぐために。現場がなくなることで、仕事が本当になるなるのは会社だから。ぼくたちは別の仕事を探せばいいだけだ。利益が減って心底に困るのは会社だ。Kたちをハブくと得するのも会社だ。ぼくたちブルーカラーは、いつも会社という強者の食いものにされる。
 マンション清掃の管理会社Dから委託されて、この会社は仕事をしている。Dにマンションの住人さんからクレームが入れば、会社は清掃の現場が半分ぐらいなくなってしまう。
「仕事なんて新しく取ってくるから、刺青なんて気にしてくていい。いつも通りに働いてくれよ。Kくんたちは、十年もうちで働いてくれているんだから」
 ぼくはこんな風に社員を想ってくれるのが、会社だと思っている。こんな考えは甘っちょろいんだろうか。
 会社とは、利益を追求するだけの場所なんだろうか。

 ぼくたちは社長と直接話をしたかった。社員にそのことを話すと、話し合いの場が開かれることになった。事務所の上の階にある、社長の趣味でつくった道場が話し合う場所になった。そこにバイトたちはK以外の全員が集まった。時間になると社員が一人この道場に現れた。
「ごめん。ここに社長はこないわ。俺には何の力もない。ごめん」
 社長がぼくたちと話し合うことはそれからもなかった。

 Kたち二人はDから委託されている以外の、小さな現場にでることになった。ほとんどが午前中に終わってしまう現場なので、時給で働く者にはきびしい。この刺青クレーム事件で、会社は何も失わなかった。Kたちは仕事と、大切な何かを失った気がする。
 Kと久しぶりに現場が一緒になった。Kは何にも気にしてないようで、いつも通りバカな話をしていた。強がっている感じもしない。ただ目つきがいつもより鋭く、強い殺気を内包しているようだった。

 現場からの帰り道。車は首都高を走る。十五時すぎの晴れた冬の空は、夕暮れの準備をしていた。透明に近い黄色の空は、夕暮れ前の空気を穏やかにしている。きれぎれになった白い雲が、黄の空とのコントラストを描いている。黄色からオレンジに変化しつつある太陽の光が、ぼくたちのハイエース、デカを照らす。ぼくは後部座席で寝ていて、薄眼をあけると車内はオレンジの光に包まれていた。運転しているKと助手席にはYが座っている。

「おれたち何でもできるのに、何にもできてないよなあ」
 
 Yは笑いながら缶コーヒーを飲み、座席シートにぐぅっと体を押し当てて伸びをしている。横顔にはオレンジ色の太陽の光が溶け合っている。Kはしばらく黙っていた。珍しいことだった。いつもは、どんな真面目な話もギャグに変えてしまうのに。しばらくの沈黙のあと、Kは少しだけ冗談を言ったが、それからの帰り道はずっと静かだった。彼らは関心するほど器用で何でもできた。それに真面目だ。それゆえに、ずる賢くできた社会は彼らを都合よく扱う。
 沈黙は、首都高を照らす夕暮れの光に溶けていった。

 Dから委託されている最も大きな現場はSCマンションだ。SCの住人さんからクレームが来た。この現場をぼくは若い子たちにけしかけて、SCをボイコットしようと考えていた。若い子たちも、ノリノリでSCに行かないことを承諾した。KとQにそのことを伝えると、ボイコットは絶対にやらないで欲しいと言われた。
 ぼくたちは少し肩を落としながら、SCマンションに向かうことになった。世田谷の事務所からSCまでの道のりは遠い。早朝五時から事務所に集合して現場に向かう。Kたちがいない朝はいつもよりも、どんよりとしていた。普段の現場は車一台で向かうんだけど、SCは違う。車四〜五台で総勢二○名ほどの作業員。四○階以上ある高層マンションの清掃は、二部隊に分かれる。各チームは六人。洗剤をまく係。ポリッシャー。高圧洗浄はリーダーが。リーダーのサポートをする「後方」と呼ばれる係。高圧洗浄をした後の廊下の水気を吸う、バキュームという道具を使う係。高圧洗浄に使う水を大きなポリバケツに入れて、台車で運ぶ水汲み係。SCには各階の共用部に水道の蛇口がない。一階のエントランスをでた外に水道の蛇口がある。水汲み係は四○階もあるエレベーターを、何度も往復しなければならない。
 SCの建物は長方形で、真中がすっぽりと吹き抜けになっている。作業をしているときも、見上げれば空がのぞいている。朝八時。冬がすぐそこまでやって来ている。秋の終わり空は見たこともないほど、青々しかった。
 化学的なエメラルドブルーの洗剤をポリバケツに入った水道水に入れる。その水をジョウロですくう。廊下にまく。ぬるぬるとした液体を、排水溝の反対にある壁側の廊下にまく。共用廊下は排水溝に対して水が流れるように、傾斜になっている。ぬるぬるとした水は壁側からとろりとろりと、流れはじめる。この液体を空気や風や太陽は蒸発させる。液体が乾いてしまう前にポリッシャーのブラシでぐるぐると洗浄する。ポリッシャーのまわる音は、うぃーんと一定のリズムで響いている。ポリッシャーの高い音と低い音が混ざり合う。建物の中は反響する。
 高圧のエンジンが叫ぶように鳴る。エンジン音を聴くと、作業する人たちは労働のスイッチが入る。エンジン音には、人間を集団へと覚醒させる何かがあるのかも知れない。まだ二○才になったばかりのリーダーZが高圧のガンを握りしめる。廊下の西側も吹き抜けになっている。冬のビル風が最上階にいるぼくたちを吹きつける。高圧ガンから散布した霧状の水は風と交差して、飛沫をあげる。

 エレベーターのドアが開いた。
 
 Kがエレベーターのなかに立っていた。飛沫がスモークとなって立ち込める、最上階に現れた。一つ下の階では、ぼくたちとは別の部隊が清掃をしている。そこにQも現れた。Kは何も言わずにZが持っている高圧ガンをとり返し握った。Kの持つガンから散布する水は、しぶきをさらにひろげながら、廊下を洗いながした。会社からぼくたちに何も連絡はない。Kたちは会社を無視して、自分の意志でここにやって来たんだろうか。
 共用部の中心が吹き抜けになっているので、Kは下の階にいるQを見ることができる。KとQは目を見合わせて合図を送りあった。

 二人は作業着を脱ぎ捨てた。
 上半身は裸になった。
 刺青を隠すための絆創膏、手ぬぐいはすべてとった。
 Kの背中には紺色の太陽が輝いている。
 ガンを握る指には〝ZUKUSHI〟。
 青い花びらはひらひらと、風になびいているようだ。

 画家のアンリ・ルソーにとって絵は現実だった。アフリカに咲く赤い花を描いていると、花の匂いが部屋じゅうに立ち込めて来た。ルソーは苦しくなって、窓を開けたそうだ。密林のなかの動物たちを描いていると、猛獣が絵から飛びたして襲ってくる。ルソーは恐くなって逃げだした。彼は晩年、絵と現実の境界は無分別になっていた。絵は、記憶や空想や現実を超えたものではないのだろうか。

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 アルバイトたちはKの刺青を見ている。一階一階を掃除しながらゆっくりと降りて行く。マンションの住人さんとは何人もすれちがう。ぼくはひやひやしながら、その光景を眺めていた。住人さんは一瞬、驚いたような顔をするが、ニコニコしたり、笑っている人もいた。不思議そうに、じぃーと見つめている人もいる。その視線は、刺青よりもっと先の深いところを見ているようだ。刺青ではなく、絵の世界を。
 掃除部隊は下へ下へと階を進める。最下層の階へ行くと、真上に見える空は小さな四角から覗けた。青は深さをましていた。すべての階の清掃を終えた。Kを囲んでぼくたちアルバイトの全員は大声て叫んだ。Kたちを咎める者なんて誰もいなかった。声の響きは、SCの吹き抜けを振動させて空へと抜けていった。

 Kたちは自宅待機をしているふりをして、自分たちの車で現場にやって来た。これはKたちの全身全霊のギャグだった。裸で作業してたなんて会社が知ったら、きっと真っ青になっただろう。その後、会社にクレームなんか来る訳がなかった。そもそも、最初からクレームなんて来てなかったんじゃないか。会社がつくりだした、利益中心にできた妄想なんじゃないかな。ぼくたちはそう確信していた。
 裸でSCマンションを駆け抜けた日。Kは踊っていた。肉体を躍動させながら。肉体と空間の境界線はなくなっていた。絵は生きている。花びらは生きている。高圧からの水しぶきは世界へと飛びちっていった。

 ある日。現場からの帰り道。Kに「自由ってなんだと思う?」って尋ねたことがある。
「そうですねぇ。この宇宙にあるすべての物質は最終的に何になると思います? 鉄! 鉄なんですよ。ビッグバンが起こったときって、宇宙空間にはたぶん水素とかヘリウムしかなかったらしいんですよ。めちゃくちゃ軽くて、透明な存在しかこの世界にはなかった。軽いものたちが、重なりあったり摩擦を起こしたり、何らかの運動や奇跡が起こって惑星ができて銀河ができたりしたんですよ。たぶん。この地球もそんな偶然や必然?の運動でできた。ボクは地球の物質って最終的には土になるって思ってたんですよ。もちろん土にはなるんですけど、人間も。でも土の先があった。大地は土でできていて、その下の層へ行くと石や岩でできた層がある。もっともっと深いところへ潜って行く。すると鉄で覆われている層があるんですよ。地球の総重量のだいたい三分の一は鉄らしいですよ。下の層に行くほど年月を重ねたものがある。水の星って呼ばれてますけど、それは面積の問題で。重さだと鉄の星とも言えるんです。
 すべての物質は鉄に向かってる。重い重い、硬い硬い、鉄っていうカタチになっていく。全宇宙は何億、何兆年より永い、気が狂うような時間を経て、鉄になろうとしているのかも知れないですね。
 人間も年を重ねるにつれて、精神や肉体も硬くなる気がしてるんです。ボクはそこに抵抗したいですね。空気のように透明で軽くなりたい。考えや肉体も。ボクは宇宙ってきっと重くて硬いものでは終わらないと思ってます。終わりを決めてしまうと生きるという運動は止まってしまうでしょ。
 宇宙の物質は鉄になったあと、またビックバンが起こる気がするんだよなあ。ボクは重々しい意識で抑うつ的になってしまった社会で、何度でも自分自身にビッグバンを起こしたい。永遠に、無意味な軽い存在でいられるように。それって、ボクにとって自由なんですよ」

 ジル・ドゥルーズは、哲学とは「概念を創造すること」って宣言した。「創造とは抵抗すること」である。Kは、自分にも会社にも社会にも世界にも抵抗しつづける。刺青と共に。
 
 ぼくは、Kがハンドルを握る指を見ている。〝ZUKUSHI〟という文字の概念は空気よりも軽く空間を漂っている。この文字はKが信じる「軽るくて自由な世界」が断ち切れそうになったときに、繋ぎとめてくれる存在なのかも知れない。
 ある友人は離婚するときに、子どもたちの名前の刺青を自分の足に彫った。親子の体と体は、切っても切れない、液体のようなものでぬぅーと繋がっている。でも意識は、いとも簡単に離れてしまうことがある。離れたくない大切な何かを感じるために、人は肉体に絵や言葉を刻むのかも知れない。血という赤い液体を忘れないために。

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 人間の精神が大地から切り離されないように、アイヌの人たちは刺青を顔や身体に彫ったんじゃないかな。神は人間の想いから誕生したのか。それとも、人間の想いなんて手の届かないところにいるのか。「ある」と「ない」はそんなにくっきり分別できるものではない。「ある ない」の間には大きな空間や世界がある。無分別なままに、ぼくはこの世界を見ていたい。棲み分けのない混沌は、ぼくが信じる一つの神さまだ。神は人間の数だけいる。妄想の数だけいる。空想の世界の数だけ存在する。

 KはKだけの「バカバカしさ」や「ギャグ」を信じている。きっとそこには、一風変わった、宇宙空間よりも軽々しい神さまがいる。

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村上大樹
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