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「アーユーウィズミーグリーン」最終話/ないものたちの、あろうとする運動は爆発寸前だ

 まっ暗な闇の世界に漂っている。ポツムは遠くに光の粒をみつけた。ひさしぶりの光に、ポツムは目をあけることもできない。目を閉じたまま、手さぐりで光にむかって歩く。光はだんだん大きくなる。ポツムは薄く目をあけた。そこには高い壁がある。壁は、コケや葉や枝や胞子でおおわれている。葉の1枚1枚が、小さな強い光を放っている。緑といってもおなじ色は1つもない。深いグリーンはきらきらとあたたかだ。緑から放たれる光で世界の闇はほんの少し明るさを取りもどした。ポツムは吸いよせられるように壁にむかった。

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「ここはゴレアだろうか……」

 壁に描かれているはずの絵はない。ポツムは壁の近くまできた。壁に巻きつく茎をつかんだ。葉がぐるぐると右腕にからみついた。ほどこうとしても離れない。ポツムがくるのを、ながいあいだ待っていたかのようだ。左手を壁のうえにむけると、茎や胞子が巻きつく。右手をうえにかざそうと力を入れると、まとわりついた草や茎は取れた。右手をうえにむけると、またするするとからみつく。壁のうえから枝がのびてくる。ポツムの体に巻きつく。ポツムは植物にみちびかれるように、壁の上部へとあがっていった。ポツムの手は熱くなっている。グリーンから伝わる熱は手からじわじわと身体中をめぐった。ポツムの白髪まじりだった毛は次第に黒さを取りもどした。
 
 ポツムは壁のてっぺんに連れさられた。壁のグリーンから赤や青やさまざまな色の果実が、いっせいに実った。果実は一瞬でぐちゃっと砕けて液体が流れはじめた。赤、青、オレンジ、紫。あざやかでドロドロした水分が、大地にしたたった。色と色が不思議なカタチになる。わたしはこの感覚を憶えている。忘れられずにいる。これは絵だ。
 カタチは人間のようになった。人間ではない。動物のようで動物でもない。花のようで花ではない。存在をまったく掴めない。実在があいまいになればなるほど、絵はなぜか輪郭を深めた。ポツムはじっと絵を眺めた。

 壁のなかには広大な森があった。ぐねぐねした奇妙なカタチの樹。動物はジグザクに走る。昆虫は無限の幻想を描いて飛びまわっている。植物は螺旋状に咲き乱れる。ポツムはツタや茎に運ばれて森のなかへ降りていった。老いた大きな樹が倒れた。老いてはいない。おわりははじまりだった。樹は灰にならない。ポツムは死の灰と化されない樹をひさしぶりにみた。樹に抱きついた。霧のような雨が降った。水が体に染み込んでくる。太陽がなくなった闇の世界で、この森は深い呼吸をしている。雨がやんだ。倒れた樹には黄色いネバネバの生きものがいる。この森は時間が高速回転している。しばらくすると樹は土になった。ここで起こる森羅万象の営みはすべてが一瞬だ。スローモーションにも感じる。土から新しい芽が生える。七色の花が咲いて枯れた。コスモスの花に似ている香りだけがあたりをまだ漂っている。

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 森の中心から強い光が差し込んでくる。光の熱を感じると森はあたたかくなった。春の太陽の日差しはこんな風だっただろうか。ポツムは全身で深呼吸をしている。ここはなつかしい感覚の連続だ。ポツムは光のほうへと歩きだした。

 ツノが4つ生えた8本足の動物の群れ。鳥たちは森の中心でくるくる舞っている。昆虫の大群が中心の光めがけて飛びたった。4つのツノの動物はアゴを「クイッ」とさせてポツムに合図を送った。まるで「背中に乗れよ」って言ってるみたいだ。4つのツノの動物にまたがった。強い風が吹きはじめた。どこからともなく。吹き飛ばされそうだ。動物が走ると前足が浮いてバランスを取れない。砂埃で目をあけることもできない。壁の外の世界でも風は空を切る。砂埃が舞ったこの星のとまっていた運動がいっせいに再来した。毛なみはゆらゆらと風になびく。

 光は空にむかって一筋の線をのばした。動物たちはピタリととまった。空を眺めている。

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 空はゆっくりと青さを取りもどした。森の中心は太陽のような鈍く薄い光を放っている。こんなに空は青かっただろうか。青よりも緑にちかい。紫のようにも見えた。わたしが憶えているどの青よりも深くて美しい。大地に描かれた絵はさらに輪郭をましている。絵は生きている。いまにも動きだしそうだ。

 絵の染み込んだ地面はヌルヌルともりあがって、巨大なお化けのようになった。絵は幻想と現実の境界をあいまいにする。絵のお化けは何匹も現れる。絵のお化けたちは高い壁をかるく飛びこえて、森のなかへ入ってくる。お化けは森の樹や枝をひっぱった。大地から森の根がどろどろと溶けるように、盛りあがってくる。ぐにょぐにょ。ごごごごご。森は膨張する。樹は空高くのびる。絵のお化けたちは樹を引っ張るのをやめた。空を見上げている。樹はもはや自分の力でどこもでものびる。ががががが。森はどこへ行こうとしているのだろうか。
 
 森は天へと拡張する。ポツムは森の中心にたどりついた。眩しくて目をあけることもできない。ポツムの皮膚は焼け焦げそうだ。熱くて滝のように汗がたれる。汗はすぐに蒸発する。
 ポツムのまえには、大きな石と樹と炎が塊になった不思議な物体があった。ポツムはここにユンがいるような気がした。

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 塊は太陽のようだ。熱は物体の内へとむかっている。ポツムは灼熱の力のなかに吸い込まれた。
 

 森は拡張してどこまでも伸びていく。空を突き抜けた。星々のいる宇宙の空間へ飛びだした。わたしでも初めて見る光景だった。根は大地から浮遊して黒い力のなかでさらに先へと伸びて行く。
 森のなくなった大地に火の渦が誕生した。この星は太陽のようになろうとしているのか。
 ゴレアの森は宇宙を漂っている。ポツムの肉体は熱で溶けた。それでも森の匂いを忘れなかった。森もポツムを憶えている。地球と呼ばれていた星は壮大なエネルギーとなり大爆発をした。影もカタチもなくなった。記憶は目をとじた。目ではない瞳をあけた。宇宙に浮かんでいる。

 森は宇宙に生息した。森のカオスはしだいに薄れていった。根は土を恋しがった。やがて森は消えてしまった。
 
 生き残った1枚の葉っぱだけが空間をひらひらしている。宇宙には星一つもない。闇ですらもなくなろうとしている。黒という色もなくなった。葉っぱは沈んだり浮いたりしながら無になった。ここには上下はない。右も左もない。それでも無限のなにかが存在している気配はある。わたしはいる。ポツムはいる。ユンもいる。名もない草もいる。音の輪郭が鳴っている。
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 2匹の猫がぴょんと塀のうえに飛びのった。これはわたしの記憶なのか。縦に並んで同じ速度で走り抜ける。春の路地に生暖かい風が吹いた。路地にあるコンクリートの道端にタンポポが咲いた。子どもが三輪車に乗っている。タンポポを見つけた。綿毛は小さな宇宙のようだ。子どもはタンポポをむしって遊んだ。小さな赤い長靴。今朝の大雨がウソみたいに空は晴れあがった。水たまりに長靴は濡れる。赤色は水でコーティングされて光沢をましている。軒下にあったタンポポは濡れていない。女の子は真剣に綿毛とじゃれあっている。ほつれて小宇宙は分裂した。しゃがんでた女の子は立ちあがった。タネはばらばらになって空に舞った。おさげ髪が風に揺れた。となりの街に黄色い花が咲いた。次の年にはさらに隣の街へと花は移動した。タネはあの女の子の手の感触を憶えている。長靴の赤も忘れない。あれから随分と遠い場所に来た。これはわたしの記憶なのか。眼球がとらえた運動はけっして消えることがない。

 カタチが浮かぶ。ここはどこだ。しかく。さんかく。まる。グググっ。近づいてくる。離れる。まるは回転している。さんかくはとまっている。とまっているようだが動いていた。しかくは半円を描いてチクタクと動いている。それぞれがバラバラ。運動に法則のようなものができる。しばらくするとまったく別の運動に変わった。

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 母のお腹にいたとき。これはみんなの記憶なのか。言葉はない。波動のような声がある。声には音はないが感触はあった。包まれていた。なにもない。何者でもない。人間たちはわたしを神さまにしたがった。一つにしたがった。わたしは神ではない。神というものを見たことはない。どこにもいない。それでもわたしはここにいる。
 子宮のなかで大きな波動を感じた。これは誰の記憶なのか。なにかがはじまろうとしている。感情はない。音楽だった。母の体から飛びだした。血まみれだ。鳴き声は世界にひびいた。

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 無限の時間が過ぎた。宇宙は消滅した。消滅しても空間はあった。微小な世界は何もないようにも感じた。数字はもはやなくなっていた。何かが未来から過去へ反転して進んだ。過去も未来もあやふやでおぼろげだ。アメーバ状になって混ざりあった。すべては幻だ。闇もない。光もない。熱もない。温度もない。不安もない。それでも消えないものがあった。音は鳴らない。耳では感じることのできないエネルギーの渦が、つうぅぅーとのびていく。ぐにゃぐにゃ。まざりあって輪になった。気泡がはじけるような運動。しゅわー。しゅわー。さー。ざー。エネルギーの渦は線になり面になった。新しい空間が誕生しようとしている。何かになりかけたが消えた。こんなことを無限に繰り返している。

 森のなか。まだ幼いポツムは裸足で湿った大地を蹴っている。曇り空。もうすぐ小雨が降りそうだ。鳥たちの鳴き声が残響している。きききききき。やまびこのように何度もリフレインしている。とても静かだ。これはポツムの記憶なのだろうか。わからない。雲は風にさらわれて動いた。雲の隙間から太陽の光が線になって降りてくる。大地に熱をあたえる。ポツムは森からでた。サン・リの森の外は死の灰で埋めつくされた。死の予感はあった。それはポツムの体にも直撃した。ポツムは空を見あげて叫んだ。

〝アーユーウィズミーグリーン〟

 ポツムは灰のうえに手で描き殴った。指先の動きは踊っているようだ。軽快に、ときにはゆっくりと。
 奇妙で不思議なカタチができた。水のようで星のようで血のようで人間のようで粒子のようで泥のようでバッタのようで塵の崇高なもののようだった。素朴なカタチとカタチが合わさって跡になった。これはかつて人間が「絵」と呼んでいたものだ。目を閉じたら。跡はどこにあるのか。
 目を閉じたら絵はそこにあるだろう。跡はきみのなかにある。ずっとずっとあった。わたしたちは誤解しながら、お互いに感知することもできずに、ずっとずっと同じ世界にいた。ときおり、奇跡のように意識や身体が混ざりあうようなときもあった。それは跡でしかなかった。いまは何もない。
 
 わたしはもうすぐ消える。それでも空間や宇宙が憶えていたことは、なくならない。音にならない音が、ひびきではないひびきを奏でている。まだ何も存在はしていない。ないものたちの、あろうとする運動は爆発寸前だ。

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 さよなら。

 何かが、はじまろうとしている。
 


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