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外山恒一×東浩紀の対談を観た感想

 不可侵であるはずの権利を、緊急時は特例だとして明け渡してしまうこと。そこに二人は明確に否を唱えたが、これはまったく正しい。特例を認めてしまえば人権も言葉遊びに過ぎない。命よりも大切なものがあるか? この問いは分断を生むだろう。死んでしまったら元も子もないか、自由でなければ生きる意味がないか。要するに、合理主義から身を翻せるか否かが、人間から超人に至る最初の関門になり、分断線になる。ここを突破できない有象無象を、二人は人民と呼んで蔑むのだ。

 東はリベラルには失望したと詰め、津田はリベラルも一枚岩ではないとはぐらかしたが、一枚岩だろうが百枚岩だろうが権利が最優先であることを主張したリベラルが皆無だったことは紛れもない事実であり、この点津田は言い逃れできない。津田は結局、リベラルにもDVや児童虐待に関しては問題提起した者はいたとして東をうまくごまかしたが、それは権利を明け渡してその上で保護されるべきという話でしかないのだから、そもそも権利を明け渡すべきではないという東への反論にはなっていない。酔っていなければ東が詰め切れたはずだ。

 外山恒一は稲妻だが、国家は持続しなければならない。ファシズム国家の法は外山の美学に強く依拠している。だから外山がファシズム国家を建設しても、それは外山恒一と共に終わるだろう。東についても同様で、東が刷新した批評シーンは東浩紀と共に終わるだろう。外山と東は、合宿あるいは批評再生塾として、教育に望みをかけているようだが、これは実を結ぶとは思えない。彼らの後を引き受ける者も稲妻のように到来するだろうし、それは界隈の外部からだろう。

 外山恒一の強度が、公共と同舟した津田や、会社を経営する東と比べて強いのは確かだ。津田は引き籠もったし、東はカフェを閉じざるを得なかった。しかし広がりや持続の観点から見れば立場は逆転するだろう。東が会社を作ったのはとてもいいアイディアだった。それにしてもやはり二人は教育はほどほどにすべきで、本でも動画でもいいから言葉を残すことに専念するべきだろう。種を蒔くだけでいい。育てる必要はない。強い種が勝手に新しい美学を咲かせるだろう。教育は不死への叶わぬ憧れでしかない。弟子を取りだした賢者は途端に胡散臭くなると言ったシオランは正しい。コレージュ・ド・フランスでフーコーが、最低限の教育者でありたいと言ったのは、権力関係に敏感だった彼らしい。革命家も批評家も、教えられて生まれるものではない。

 芸術を国家が保護すべきかについて津田と外山が対立していたが、私は外山が正しいと思う。乱入者の一人が国家の勝てる芸術戦略がどうのこうのと言っていたが、あれも愚劣な考えだ。いい芸術作品とわるい芸術作品を国家が決めるべきではないし、そもそも作品の間に優劣はない。平田オリザの漫画中傷も結局のところ人間を舐めてるんだろうし、文化庁批判作品で文化庁から表彰された何某も擁護に値しない。美術批評がここを詰めないのは片手落ちと言うほかなく、この辺は東と外山が完全に正しい。

 津田が指摘した東の課題は二つあったが、重要な方が無視されてしまった。「諦めが早い。」これはたしかに正しいが、外山が指摘するべきだった。そうすれば世に絶望している東は外山の具体的なビジョンをしつこく問い質すことになるだろうし、外山は革命家としてこれに受けて立つ義務がある。そこにこそ二人が話す意義があったはずだ。まあしかしこの辺は次回に期待するとしよう。

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