Curiosity never dies
目的か、手段か。趣味か、仕事か。義務か、権利か。
学ぶということには、いろいろな姿がある。人生のステージにおいてもその意味は変わるし、人それぞれのキャリアでも変わってくる。
学ぶことから得られることも、その学びが何に属するものかによってきっと変わってくるのだろうし、そもそも「何が学びか」ということだって、人によって様々だ。僕は大学教員なので、いわゆるお勉強みたいなものを学びとして無意識に想像してしまうことが多いが、きっとその定義はとても狭い。
昨日の自分と違う明日の自分になるために今日行うことはどんなことだって学びと呼んでいいはずだ。
そういう風に考えるなら、学びと学びでないものの境界は随分あいまいなものになるだろう。だって、昨日の自分と明日の自分をつなぐ今日の自分が行うことは、ほぼ全てのことが昨日との連続を伴った昨日との断絶の繰り返しであって、それによって人は成長していくものだろうから。昨日と全く同じ人なんていない。経験と記憶は少しずつでも自分を変え、他人との関係性を変えていく。
それでもなお「学びとは?」という問いに対して何かしら答えを求めるなら、僕はそれを「好奇心」に求めたい。
好奇心の塊である人を見たことがあるだろうか?僕は今まさにそれを目撃している。1歳2ヶ月になる自分の子供だ。
子供は好奇心でできているといっても過言ではないと思う。知っての通り、なんでも知りたがる。見たがるし、触りたがるし、やりたがる。そうしないと生きていけないのだ。なぜなら、そうやって「これは何だろう?」との問いに自分で答えていくことでしか、自分の生にポジティブなものとネガティブなものを区別していけないからだ。本能として、人は好奇心を持ってる。
ところが、好奇心など関係なく、現代社会でこれくらいは知っておくべきだろうという知識水準などから逆算して学ばされる「教育」という活動に直面し、好奇心は大半の人の心から撤退してしまう。日々学ぶべきものを他者から与えられるうちに、誰にでもあったはずの好奇心は未踏の地を残すことにも無警戒になり、もっと面白い遊びを生み出したいと意気揚々としていた日々は、出来合いのものをいかにうまくこなすかという活動に埋没してしまう。
自分がもっと楽しむために、自分がもっと良く生きるために、自分がもっと幸せになるために、好奇心に駆動される学びはそうやってエゴイスティックに深まっていくものだし、それがいつしか周りに予想もつかない影響を与えたりするものだ。でも、そういう学びの場は、制度的に奪われていってしまうのが、残念ながら現在のこの国の現状だと言わざるを得ない。
それにはもちろんいい面もある。これだけ基礎的な教育水準が高い国も珍しいし、世界的にみてこの国の若者の学力は高いのだ。
ところで、僕はいわゆる底辺大学に分類される大学に勤めているが、学生の大半は「学ぶこと」への興味を失っているように見える子が多いし、『好奇心』も一見すると強くない。彼らは大学には通ってくる。でも学んではいないのだ。
僕はもちろん知っている。彼らが社会的に、偏差値的な意味で、「勉強ができない人たち」に分類されてしまっていることを。そして、そのこと自体が彼らの自尊感情を低め、それがまた学ぶことへの積極性にマイナスの影響を与えていることを。
でも、僕は同時に知っている。彼らの中にある「好奇心」は全然死んでなくて、ただ活躍の場に巡り会えなかっただけなのだということを。これは、この6年間この大学で学生を見て、この2年半【常磐ラボ】というコミュニティスペースで高校生・大学生・社会人の多世代コミュニケーション の場を作り活動してきたからこそ実感できた僕の中でのひとつの“真理”だ。
彼らの好奇心はいつだって解放されたがっているし、そのトリガーは他者との親密な交流に眠ってることが多い。
その好奇心は、ちょっとやそっとでは自走していかないことも多い。誰かがそれをくすぐってやらなければすぐに鳴りをひそめてしまう。それくらい知らない間に錆びついてしまうものなのだ。また錆びついていることに本人も気づいていないことがほとんどだ。好奇心など、最初から持っていなかったかのように。
でも、自分の心に深く埋没していた好奇心は「ワクワク感」とか、「他人から認められること」や、「全然違う境遇の人でも同じことで悩んだり喜んだりするんだと知ること」など、自分がこれまで見て、感じて、触って、やってきたことと全然違う背景を持つ他者の存在が潤滑油となって徐々に目覚めていく。
そして、回り始めた好奇心の歯車から、忘れてしまった自分の一歩を再び踏み出す力は笑顔によって起爆される。事あるごとに思い出すんだ。学ぶこと、知ること、やってみることはいつだって楽しいものだったんだということを。
僕は、そういう学びを作っていきたい。大学教員として。常磐ラボ代表として。
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