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待ってるだけじゃ誰も何もくれないって話

なんとも平成Jポップの歌詞みたいな、自己啓発本のよくある一節みたいな
、なんかそんなタイトルだが、大学教員をやっていると結構これは思う。待ってるだけじゃ誰も何もくれない。

まぁもしかすると僕が勤める大学にだけ特別多いだけなのかもしれないが(そしてそうではないことを知ってはいるのだが)、これは結構悩ましい課題だなぁと日々感じている。

一般的に言って、人生上のステージが変わるためには、何かの機会が必要である。が、これも一般的に言って、そういうのは無いのが基本だ。たまに向こうからやってくることも無いではないが、最終的にはその機会に対する向き合い方というか、もっと有り体に言えばそれをどう活かすかという段階では、積極的にそれを自分の行動に取り込まなければならない。

馬を水飲み場まで連れてくることはできるが・・・というやつだ。最後水を飲むかどうかは自分の問題。そこまでは他人も手は出せない。

でも、世の中はもっと冷たいので、そもそも水飲み場までも連れてきてはくれない。水飲み場は自分で発見しなければ、向こうからやってきてはくれない。

そのことはおそらくみんなわかっている。学生ももちろんわかっている。でも、待つのが学生。学生とは水飲み場など探しには行かない生き物である。言い忘れたが、この文章は主に高校生と大学生に向けて書いている。

さて閑話休題。上述のようなことを書いてはみるものの、自分もそうだったから偉そうなことは言えない。自分が学生の時の周りの学生を思い出してもだいたいそんな感じなので、学生とは世代を超えてそういう生き物なのだと思う。みんな大抵待ってばかりで、待ってることにすら気づいていないものだ。もしかすると機会そのものも、あまり見えてない可能性が結構高い。もしそうなら絶望的だ。

とは言え、この記事のタイトルのようなことが書かれた本や歌の歌詞が延々と世の中に出続けるのは、待っていてはいけなかったんだと気づいた元学生たちが、現役学生たちに向かって声高らかにある意味ではポジショントークをしているのであるとも言える。ポジショントークそのものは、それが相手を不快にさせたりすることもあって一般的に好まれるものではない。しかしながら、もしそれが一定の真実を含んでおり、しかも年齢を重ねるとその人自身も気づくようになる(つまり、自然とそのポジションに付くようになる)のなら、そのようなポジショントークは肯定されてもいいのではないか。

これらのポジショントークは皆、同じことを言っている。機会を待っていてはいけないのである。

機会は向こうからはやってこない。これはある程度歳を重ねた人なら誰もが知っている。しかし、学生はそれになかなか気づけない。もしくは気づいていても機会を迎えに行こうとすることは少ない。なぜか。

それはおそらく、日本の場合、多くの人にとって、22歳までは機会は与えられるものだからだ。というか、機会は実はほとんど無いと言っていい。18歳まではほとんど皆学校に通う。機会があるとすれば高校の選択くらいだ。しかし、高校までは学習指導要領によって教育内容(つまりは学校内で起こることそのもの)はかなり厳密に管理されており、生徒に内容の選択権はほとんど無いし、高校教諭にしても教科書の内容を教えることで精一杯で、他に何か新しい経験を生徒に与える機会を作ることは難しい。

そんな中で新しい機会に出会うには高校をある意味では飛び出す必要があるが、それを後押ししてくれる環境はやはり少ないだろう。また、浮くのを嫌う若者たちは、そうした人と違うことをするのをどうしてもためらいがちだ。したがって、生活は家と学校の往復、出会う人は親と先生、という極めて限定された環境で生きることになる。

また、この状況は大学でもおそらく大した変わらない。というか、場合によってはもっと単調になるかもしれない。大学卒業後の逃げ道は当然もう残っておらず、社会的に認められたモラトリアムが不可能になってしまう。したがって、大学生たちは一所懸命に「就職活動に有利なこと」をしようとする傾向にある。

どこでもそうだというわけではないが、大学の方が高校よりも機会は豊富にあることが多い。したがって、曇りなき眼で辺りを見渡せば、結構いろんな出会いが転がっている。かつて大学生をやっていて、かつ今も大学を職場にしている人間が言うのだから間違いない。しかし、「就職活動に有利かどうか」というフィルター(しかもそのフィルターは就活に有利かどうかを自分で判断するという決定的な設計ミスにより歪められている)に曇らされている眼では、ほとんどの機会は見逃されてしまうだろう。なぜなら、おそらく機会のほとんどは「就職に有利ではない」と判断されてしまうからだ(そしてその判断は、フィルターの歪みによって絶望的に間違っている)。

かつて社会学者のマーク・グラノヴェッタは普段会うことのないような非常に弱い人間関係にある人が、本人にとって重要な機会をもたらすと言った。友達の友達の友達とか、カフェなどで偶然隣に座った人とか、何かのイベントで一緒になった人とか、そういう薄い関係にある人たちの重要性を「弱い紐帯の強さ」と表現したのである。

普段からよく会う人たちは、気心知れた安心できる存在だ。しかし、逆にそうであるからこそ、自分に新しい機会を与えてくれることもほとんど無い。偶然の要素がほとんど無いからこそ、安心できるのだ。

一方で、偶然に満ちた薄い関係の人たち、何を考えているのかよくわからない人たち、普段ならあまり顔をだすような場じゃないところにいる人たち、そういう人たちこそ、案外に自分の話に興味を持ってくれたり、具体的で実践的なアドバイスをくれたりする。

しかし、同時にそういう人たちの存在は、人を不安にする。なぜなら、単純に誰だかわからないからだ。その人のことを知らないからだ。したがって、もしそういう人たちと出会いたいなら、壁を一つ乗り越える勇気が必要になる。それこそが、機会を迎えに行くということだ。

つまり、機会というのは自分に偶然という不確定要素をインストールすることであり、それは不確定だからこそ面白く、同時にリスクが伴う(ものすごくめんどくさい人に出会ってしまうかも知れない)。

人間みなリスクは嫌いだ。不確実なことは落ち着かないから嫌だ。できれば避けたい。
でもどうだろう、これからの世の中あんまり決まりきった道は無いような気がする。大学卒業して、就活して、就職して、勤めてたら歳を取り、云々みたいな人生が本当に歩めると思っていることにはリスクはないのだろうか?どうなるかわからないけどチャレンジしてみる、みたいなことがうまくいく可能性はためらうほど低いことなのだろうか?

正直、どっちがどうとは言えない。しかし、今の学生を見ていると、なんだかあまりに不確実なことから逃げ過ぎている気がする。

でも、僕は以前に誰だかわからない人と知り合える場所を運営していたことがあるが、そこにやってきた若者たちは一様に生き生きとしていた。そして、話を聞いてみると、元からそうだったわけではなかったと言う。つまり、僕や僕の周りにいた、彼らにとっては誰だかわからない人たちに出会って、彼らは変わっていったのだ。もちろんポジティブな方向に。

だから余計に思ってしまうのかも知れない。もう少し勇気を持ってもいいんじゃない?と。機会に触れるのは確かに面倒くさいし、不安だし、リスクだけあってリターンがないかも知れないし、コスパ悪そうだし、踏み込む前にはネガティブな要素しか見当たらないだろう。でも、そこに一歩踏み込む勇気を持つ人だけに降ってくる機会というのがある。それは君を、もう元に戻れないくらいに決定的に変えてくれるかも知れない。もちろんそうじゃないかも知れないが、それでも踏み出す価値はあると僕は確信している。

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