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[観察]現実世界とメタバース

スマホの登場以来、手元を見ていることがおおくなった。
それはある人に言わせれば、現実世界が縮小しているという表現になり、たしかにメタバース的な考え方に立つと現実世界とメタバース世界、それぞれに滞在している時間のバランスは、スマホ登場前と後では大きく変わってきている実感がある。
現実世界とはなんなのか、メタバースとはなんなのか、それぞれについて考える必要があるのかもしれない。
なぜなら、たとえば読書している時間はスマホ以前にも存在しているわけだが、はたしてそれは現実世界なのかメタバースの世界なのか。テレビや映画なども同様の疑問がわくからだ。
そしてさらにいえば、植物園にて、ある植物に熱中しているとき、その時間はいったいどちらなのか。
味噌汁を飲んで目を閉じ、出汁の深みを味わっているとき、それはどちらなのか。
厳密にはメタバースの定義を見ると、「インターネット上に存在する3次元の仮想空間」のことをさす。
ただ、「概念としてのメタバース」はそれを超えているように感じているのは自分だけだろうか。
チベットの遊牧民についての興味深い小説を読んでいるとき、脳内はもちろん、感覚や感情にまでのすべてが普段の日常ではないところにあるような気分になる。
それが現実世界ではないとすれば、なんと表現すればよいのか。単純に「メタバース」以外の言葉を知らないだけかしら。
先日めずらしく電車に乗ったとき、比較的混雑していなかったためか、自分の座る席から奥の方の車両までが見渡せることがあった。
どのくらいの人がスマホを触っているのか、数えてみて驚いた。
見渡す限り50人ほど、なんと自分ともう1人何かを食べていた方以外の全員がスマホを触っていた。
つまり、その電車に乗っていた少なくとも自分から見える50人は現実世界ではなく、メタバースの世界にいたことになる。
自分流解釈を適用するなら、何かを食べていた方も「概念としてのメタバース」に行っていたわけだから、ほぼ総数。
そう考えると、自分自身も「電車の中でスマホを触っている人を観察するメタバース」にいたのかもしれない。
あるいはこうも考えられる。
我々が現実世界と呼んでいるものはすべて、ある種のメタバースに繋がるための巨大なプラットホームである可能性。
その中のどこかにちょっと集中すれば、なにかしらのメタバースに繋がることができる場。
スマホはその中でとんでもなくたくさんの場所に行くことができる港。
メタバースと呼ばないのであれば、その場に魂はないという意味で「幽体離脱」でもよい。
そうすると、あの電車内の風景は幽体となり、それぞれの世界へと旅立っている旅行者たちの抜け殻、もしくはその旅行者たちが帰ってくるふるさとたちだったとおもえて不思議と感慨深い。

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