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呪われたもの ベートーヴェン中期

はじめに

全3回でベートーヴェンのピアノソナタについて書いてみたいと思います。この記事では、中期ソナタの中でも有名な23番、いわゆる熱情ソナタがテーマです。

クラシック音楽を聴くというのは時代遅れな習慣かもしれませんが、クラシック音楽でしかどうにもできない気持ちというものが有る。また、同じクラシック音楽でも、オーケストラの音楽というのはコンサートホールで聴かないと「揚げていない芋」でしかありません。その点ピアノ曲ってすげぇよな。

中期のベートーヴェン作品

中期のベートーヴェンは、「よく知られているベートヴェン」そのもので、交響曲3〜7番やピアノソナタ21番、23番、ピアノ協奏曲5番など、有名な曲ばかり名前が挙がります。というか普通、初期や後期(第九を除く)のベートヴェンを聴く機会はないと思います。

筆者は、中期の作品が苦手なのです。理由は次の通りです。
1. 大げさ
 大仰でわざとらしいところが苦手です。偏執的で強いケレン味。交響曲第5番(Aimerが歌ってない方のFate)の終楽章のコーダなんて、まだ終わらんのと思ってしまう。
2. 人間味がありすぎる
 音楽の裏にあるベートーヴェンという人の人生、伝記を読むのがいつも苦痛です。女!金!家族との確執!病気!チェーホフ作品の登場人物のようです。音楽と生活のギャップが苦手です。
3. 初期作品が好き
 サブカルクソオタクみたいなことを言いますが、彼の初期作品が好きなのです。別の回で詳しく書きますが、初期に見られた美点がすっかり綺麗に脱け落ちてしまっています。

この熱情ソナタも、中期ベートーヴェン作品のド真ん中という印象を持っていました。ただ、これはやはり傑作で、古今の作品を冠絶するような内容を持っています。ひとつのテーマでさえ千変万化に変奏するベートーヴェンさんに、テーマ2つ、加えて運命の動機まで与えてはいけません。伽藍のような一大構築物が出来上がってしまいます。

ぜひ実際に聴いてみましょう。一度聴いただけでは、情報的にも情緒的にも、一介の人間にはとても処理しきれない内容です。作曲家に想い人がいたとして、こんな重いものを投げつけられたら避ける以外の選択肢はない。

小学生の筆者は、この作品を初めて聴いて、すっかり中二病になってしまいました。それ以降、あまり聴くこともなかったのですが、久しぶりに聴く機会があり、その時に起きたことがこの記事を書くきっかけになりました。

耳に残るフレーズ

筆者の最推し作曲家はショスタコーヴィチなのですが(突然の推し語り)、この人は自分の作品も他の作品もお構いなしに引用する性質がありました。そういう「耳」に育て上げられてしまっていたのです。

該当箇所は第一楽章の最後で、ピウアレグロで始まる部分です。先程の動画では8:55~、該当箇所だけ切り出された動画は↓です。

第2テーマが転調されて出てくる部分の末尾にスフォルツァンドが付いて、しかも2回繰り返すことで強調されています。耳に残るけどなんだこれは…と気になってアレコレ聴き直した結果、見つかりました。

上の画像下段は、モーツァルトのレクイエムからConfutatis maledictis(「呪われたもの」)の冒頭です。和音(コード)は全く違いますが、聴くとそっくりなのです。これを知った後、熱情ソナタを聴くと口ずさんでしまうはずです。Confutatis!! Maledictis!! と。

モーツァルトのレクイエム

この曲は、映画「アマデウス」の中で最も感動的なシーンに使われています。サリエリがモーツァルトに直接分からせられてしまう、最後にして最大の交流、愛、師弟関係。そう、俺たちは師弟関係が大好きなんだよ。

モーツァルトのレクイエムもよく知られた曲です。各ジャンルで大量の曲を書き、20曲に1曲ずつくらい名作を残したモーツァルトが、ほぼ名作だけで構成されている最強のコンピレーションを人生最後に発売したのがこの曲です。幼稚園生の筆者は、この作品を初めて聴いて、すっかり中二病になってしまいました。

その凄さは、最初の一曲(Introitus)を聴くだけでも分かります。宗教音楽なのですから、崇高で厳粛な音楽の世界が展開されるのだと思います。しかし、冒頭は横ノリの軽い音楽から始まります。これは辻音楽師の手回しオルガンなのです(自論)。回しているのは当然モーツァルトなのですが、そこへ突然、雲間が晴れるかのように合唱が入ってきます。凄まじい聖と俗の対比。

勢いでもう一曲紹介するとすれば、5曲目(Rex Tremendae)を聴いてみるといいでしょう。オペラのように劇的な効果のある曲です。最後の審判でマリアも顔を背ける厳しい顔のキリストが正面から歩いて出てきます。テノールとヴァイオリンが和音の間に差し込んでくる音に低弦が呼応して肌が粟立ちます。

宛名のない引用

ベートーヴェンとモーツァルトには実際に接点があったようです。クラオタ(クラシック音楽を愛する人)なら誰しも心ときめくイベントですが、結構蛋白な話しか後世に伝わっていません。

ベートーヴェンは熱情ソナタで本当にレクイエムを引用したのでしょうか?確かめてみたくなりました。調べてみたのですが直接的な証拠はなく、分かりませんでした。いかがでしたか?

これで諦めないのがクラオタの厄介なところなのです。傍証が有るんだよ傍証が。逃げられんぞ。

まず、レクイエムが書かれたのはよく知られている通り、モーツァルトの晩年35歳の時です。ベートーヴェンが熱情ソナタを書いたのは1804年から1805年頃だとされています。35歳じゃないか!「その年齢」に達したベートーヴェンが自作にレクイエムを引用したとして、何の疑問があるでしょうか。

次に、ベートーヴェンの葬式では、モーツァルトのレクイエムが演奏されたと記録にありました。絶対好き。弟子が決めたと言い張っても無駄です。遺言で指定したに決まっています。自身もミサ・ソレムニスなんかを書いているのにわざわざ指定するなんてバレバレなんだよ。

さらに、少し後に書かれた交響曲第5番第三楽章では、はっきりモーツァルトの引用がなされています。交響曲40番の終楽章冒頭からの引用です。Wikipedia(英語版)にも書かれているくらいだから間違いない。

不満のある方はレクイエムのピアノ変奏版を聴いてきて下さい。こんなに似ている音楽だし、色々証拠があるのだから筆者が誤った認識を持ったのもやむを得ない。

じゃあ、もう引用はあったものとして話を進めていきますね。そうなると、他の部分もあやしくなってきます。例えば第三楽章冒頭の下降音形と、Introitusの中間部(下図)。

例えば第一楽章から運命の動機と、キリエ(下図)。

そのままではなく、完全に消化されて別物になっているのが凄いですよね。直接引用しなかった理由も、宛名のない恋文を終生に渡って持っていたベートーヴェンならなんとなく納得できます。例えばシューベルトも、ピアノソナタ第19番でベートーヴェンの変奏曲を形を変えて引用しています。

結び

ここまで読んで頂いた寛大な読者の方は、引用したとかしなかったとか、なぜそんなことに拘るのか、とお思いでしょうが、熱情ソナタほどのクソデカ感情が、その辺の貴族の娘とかに向けられていたのか、偉大なるモーツァルトに向けられていたのかは、天と地ほどにも差があります。ベートーヴェン自身が「おれは呪われているのだ!」と叫んでいるならなおさらです。なぜなら、そう、俺たちは師弟関係が大好きなんだよ。

中期には迷走したけど、ベートーヴェンはやはり信頼できるオタクだった。そういう結論しか欲しくない。ドストエフスキーが『外套』から生まれたように、(ベートーヴェンが私淑していた)ヘンデルの精神をモーツァルトから受け取ることに成功していたのです。

そして、彼はモーツァルトのレクイエムを超えられたのでしょうか?クラオタが近くにいたら、熱情ソナタとどちらが偉大な作品か質問してみたら面白いでしょう。きっと凄い表情と長文コメントを見せてくれると思います。


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