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ハネケに恋して

Michael Haneke(ミヒャエル・ハネケ)はオーストリア出身の映画監督であり、その独特で暴力的で暗鬱な映画スタイルから奇才と恐れられている。奇抜な映画作品であるが故に、評価は常に真っ二つ。彼の代表作品である「ファニーゲーム」が、史上最高のクライム映画でありながら史上最高の胸糞映画と評されていることは有名な話である。

そんなハネケは、カンヌ国際映画祭で最も権威ある賞『パルム・ドール』を、「白いリボン」と「愛、アムール」の2作品で受賞した経験がある、数少ない監督の一人だ。これは私の勝手な偏見であるが、ハネケの作品を最悪と呼ぶ人間は、彼の作り出す恐怖を理解することを諦めている、もしくはその恐怖を理解してしまうこと自体を恐れてしまっているように感じる。ハネケの初期作品を全く見たことないミーハーの私がこんな偉そうな事を述べるのは誠に恐縮であるが、彼の作品はただの「胸糞」に止まらない要素が多く含まれており、何回か繰り返し見れば、その「胸糞」が単純で一方的な悪意で生まれていない(胸糞展開に至る理由が存在する)ことが理解できる。また何よりも重要なのは、ハネケがただ観客に不快な思いをさせようとして作ったのではないだろう、壮大な問題定義が作中に置いて成されているのだ。少なからず「嫌な思いさせちゃお❤︎」って悪意もあるだろうが…。

一番それを感じたのは先に述べた「ファニーゲーム」である。以下がっつりネタバレをするので映画を見ようとしてる人はここら辺で読み終えてくれ。僕はもうネタバレを我慢できない。

「ファニーゲーム」は山奥の別荘で休暇を過ごそうとやってきた三人家族が、二人のサイコパス青年に惨殺されるという物語である。まあ在り来たりな話ではある。ではなぜ史上最高に胸糞なのかと申すと、それが観客参加型だからである。サイコパス青年がカメラに向かって話しかけてくるのだ。ざっくり言うと「今から殺しちゃうね」的なことを言ってから少年を叩き殺す。まるで僕も殺しに参加しているみたいだ。

もっと最悪なのは、「この家族が生き残れるかどうか賭けをしようぜ!」と言い始めるところだ。それで家族が反撃しようとしたら、画面が一時停止し少し巻き戻ってから、しっかり家族が殺される。意味不明だろ。先生それは流石に反則だと思いま〜す、の連続である。家族がいくら反抗しても、サイコパス青年に殺される運命には勝てないのだ。そしてまた、その運命の一端を観客が握っている、ような錯覚に陥るのだ。

またこの作品で巧妙なのが、暴力シーンを一切カメラに映さないことだ。勿論飛び散る血は映るし、死体も転がっているのだが、肝心の殺す瞬間は映らない。そこまで映したら、観客の精神が完全にヤられてしまうからって気遣いもあるかもだが、僕は逆にその手法にハネケの恐ろしさを感じた。つまり、映らないからこそ見る側は想像するのだ。殺しは嫌だーーと言ってる自分がいる側で、壁の向こうで殺される女性を瞬時に想像する自分がいる。それはもはや無意識である。そしてカメラが移動し、死体が映る。あ、やっぱ殺されたんだ…と納得する。殺しをバッチリ映して受動的な体験にするのではなく、想像に任せ能動的な殺しの体験にすることにより、観客がサイコパス青年たちの力になってる!と思うことができる。できる、というか、しちゃう、というか…。

作中のラストでこんなセリフが出てくる。

A「虚構は現実なんだろう?」
B「なんで?」
A「虚構は今見ている映画」
B「言えてる」
A「虚構は現実と同じくらい現実だ」

これこそこの作品の醍醐味であり、ハネケが一番伝えたかことではないだろうか。自分で想像できる虚構は全て現実に起こりうるor起こったことであり、現実に存在する全てのことは虚構でも再現できる。虚構はただの想像ではなくどこかの現実であり、これからどこかに生まれるかもしれない現実なのだ。そしてこの作品は、映画という虚構の形式で存在している現実なのだ。ちょっと自分でもようわからんが、ハネケは「現実と虚構の境界線ってどこかな?」って問題定義を最高級のグロ要素を詰め合わせたストーリーで人間にしたのではないだろうか。

他にも「ピアニスト」は正常な愛って何ですか?って問いを感じるし、「白いリボン」はファシズムの種を描いた今までにはない反戦映画だし、とにかくハネケさんの着眼点と、それを描き出す人間観察能力&表現力は尋常ではないのだ。見終わって、ポカーンとして、オズオズともう一度最初から見始める。それの繰り返しである。

みんなもハネケの狂気に触れてみてくれ。もし触れたことがあり、僕と同じように彼の狂気に病み付きになっている人間がいたら是非語り合いたい。

ハネケに乾杯。

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