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第25回「はるかに遠い夢」7月2日

築山殿は悪女ではありません。


「世の者どもは、そなたを悪辣な妻と語り継ぐぞ」
「平気です。本当のわたくしは、あなたの心におります」
今回も神回でした。
大河ドラマ史上に残る名作になりつつある『どうする家康』ですが、まさに今回は歴史に残る神回でした。古沢良太脚本の素晴らしさに、心を鷲摑みにされました。
昭和時代に歴史小説(フィクション)を原作にしていた大河ドラマの影響か、いまだに築山殿(瀬名)が悪女だと思っている方がおられることに驚くばかりです。

最新の学説では、築山殿は悪女ではないとされています。

築山殿悪妻説の出所は、「十二条の書状」によるもので、これを元ネタにして、昭和時代の歴史作家たちが盛んに創作を世に広めました
「十二条の書状」は、五徳が信長に対して、築山殿や松平信康の悪行を報告した手紙とされ、築山殿の不義密通や信康の武田家との内応について書かれていたとされます。
しかし、「十二条の書状」は現存しておらず、近年の研究では、後世の創作であり、書状そのものが存在していなかったとされています。
築山殿は悪妻ではなかったというのが有力になってきているのです。
そもそも信長など、築山殿と信康の処断には口を出すどころか、関わってさえいなかったようです。『どうする家康』でも、信長は家康に「任せる」と言っていましたね。史実通りだと思います。
岡崎派(三河)と浜松派(遠江)で国内が分断している徳川家中で、家康は内戦を避けるために岡崎派にまつりあげられていた築山殿と信康を処断せざるを得ませんでした。
江戸時代になり神君家康公の権威を公儀(幕府のこと)が治政に利用しようとしたとき、家康が正妻と嫡男を処断した事実が具合が悪く、信長や五徳、そして築山殿や信康に責任を転嫁したのだと思います。
築山殿を悪妻だと記した記録は、『三河後風土記』にありますが、この書は徳川氏が祖と称している清和源氏から徳川家康将軍就任までの700余年間を記録したものです。
そもそも徳川氏は清和源氏ではありません。これは仮冒です。『どうする家康』でも、お金で買っていましたよね。あれが真実です。
『三河後風土記』には、家康に不利になるようなことは一切書かれておらず、かなり創作がされていることが研究でわかってきています。徳川家を神格化するために書かれた都合の良い記録なのです。
もちろん諸説はありますが、昭和時代に定説とされてきた築山殿悪妻説は、現代ではまったく違った見方が有力となってきています。
『どうする家康』の瀬名のように、優しい女性だったというのが、実は史実にもっとも近いのかもしれません。
「いいですか。兎はずっと強うございます。狼よりも、ずっとずっと強うございます。あなたなら出来ます。必ず」
『どうする家康』の中で、瀬名(築山殿)が家康に言った言葉です。
この言葉を忘れることなく、家康は戦国乱世を終わらせ、265年にも及ぶ平和な世を作り上げることになります。
狼は日本から絶滅してしまいました。しかし、兎は農作物を荒らすために全国の多くの自治体で駆除対象動物に指定されるほど、たくさん繁殖しています。
滅んだ狼と生き残った兎。
瀬名の言葉どおり、兎は強かったのですね。
さあ、私たちも涙を拭いて、我らが神の君の天下平定への道を応援しましょう。


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