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おじいちゃんの両替所

私は祖父母と同居していたが、祖母と比べると祖父の思い出が少ない方だと思う。
私が、というよりは他の家族も祖父とはあまり関わりがなかった。

 
祖父は無口な強面の人だった。愛想もよくない。
人が嫌いというわけではないが、不器用で口下手な人だった。
一日に挨拶しかしない日もざらではないくらい、祖父とはあまり話さなかった。

祖父は昔ながらの兄弟構成で6人兄弟だった。
祖父のお兄さんは戦死して、その写真は仏壇の部屋に飾ってあった。従兄弟に顔が似ていて、血筋を感じる。
祖父の兄弟は逆に話が止まらない性格だったり、愛嬌があったりで、親戚に会うたびに兄弟だとは信じられなかった。
ただ、顔や声は似ていた。確かに兄弟なのだ。
同じ親でも、兄弟とはいっても、同じ人は一人としていないということがよく分かる。

祖父のことは祖父よりも祖母や父から話を聞いて知っていたくらい、一緒に長年暮らしていたわりにはプライベートな話を祖父とはあまりしたことがない。

 
若い頃は農業をしていたが、私が生まれた時には親戚が会社を立ち上げ、そこの会社の会長をしていた。
物心ついた頃、「おじいちゃんはおじいちゃんで、会長で偉いんだ。」とぼんやり思っていた。
家族以外の知らない大人達が、祖父を会長と呼んでヘコヘコしていたからだ。
だが、未だに祖父が会長としてどんな仕事をしていたかよく分からないくらい
一緒に暮らしていても祖父とはあまり話さなかった。

 
ただ、嫌われていたわけではなく、祖父は私や姉を祖父なりにかわいがってくれた。愛してくれた。
小さい頃はよく、電車を見に行ったり、牛小屋に行ったりしていた記憶はある。
小さい頃に人生で初めて、そして唯一パチンコに行ったのも祖父と一緒だった。

だけど、どこに行ったのかは覚えていても、何を話したかその記憶が薄い。
多分孫の私とよりも会社の人との方が話していたのではなかろうか。

 
そんな祖父との一番の思い出は、なんと言っても両替所である。

小学生から中学生にかけて、親の肩たたきや白髪抜きといった地道な家庭内バイトをしたり、お小遣いをもらった時
私は小銭を貯金箱に貯めていた。
母親からもらったキティちゃんの大きな貯金箱だ。
私は年に3回、貯金箱を開けて小銭を数えた。

500円玉が○枚、100円玉が○枚、10円玉が○枚、5円玉が○枚、1円玉が○枚…

私は硬貨別に重ね、1000円や500円のかたまりを作る。

 
数え終わったら祖父の部屋に持っていき、私は両替を頼んだ。両替所利用は家族で私だけだ。
祖父は手慣れた様子で押し入れの奥の金庫をカチカチッと合わせた。
子ども心に金庫は銀行にあるような大人の代物で使ったことがなく、このカチカチと合わせる動作だけで特別感があってワクワクする。

祖父は丁寧にお金を数え、お札や500円玉に替えてくれただけでなく、両替所利用ということでお小遣いをこっそり少しくれた。
利子以外でお金がもらえるのはありがたい。銀行や郵便局の両替ではこうもいかない。
そのお小遣いでキラキラしたシールやカラフルなペンを私は買ったりした。
小学生の頃は可愛らしい文房具にお金を費やしていたのだ。

 

私が社会人1年生の時、祖父は亡くなった。

その10年前に祖父が意識不明で倒れた時、医者がドラマのように「今夜が峠でしょう。」的なことを告げたが、それから大きな後遺症も残らず10年生きた。
おそらくだが、その倒れた時に既に体内で小さな軋みや歪みがあったが、10年の間にそれが痛みへと変わっていったのではなかろうか。
  

祖父は戦争を生き延びた人だ。忍耐や我慢の塊でしかも無口だった。
恐らく亡くなる前に相当痛みに耐えていたのだろう。 
救急車で運ばれてからわずか数時間で亡くなった。

 

まだ郵便局や銀行が身近ではなかった小さな頃、私にはおじいちゃんの両替所が全てだった。
おじいちゃんの部屋に行く目的は両替だったけれど、私はおじいちゃんと何かで関わりたかったのだ。
ちびまる子ちゃんのまる子と友蔵のような関係に私は憧れた。なんとかしておじいちゃんともう少し仲良くなりたかった。
だけど、私も内向的だった。子どもらしい無邪気さや天真爛漫さが足りない子どもだった。
似たもの同士が集まったところで、その先に進めるわけがなかった。

口下手なおじいちゃんと、そんなおじいちゃんとどう接したらいいかきっかけを探していた私を繫いだのが両替所だった。

きっと祖父にとっても孫と関わるきっかけを探して始めたのが両替所だったのだと思う。

 
 
祖父の両替所は祖父が亡くなったことで終わりを告げた。
今は小銭を貯めて年に一回、郵便局で貯金している。

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