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水の都の護神 ラティアスとラティオス

20年ぶりにスクリーンで『水の都の護神 ラティアスとラティオス』を観てきました。
 
若者たち四人と一緒に渋谷の映画館で待ち合わせて一緒に観ました。
こんな感じでイベントみたいにして映画を観たのは、大学生の時以来。(そのときの映画はスターウォーズでした)
 
20年という時を超えて、自分が脚本を書いた映画とこうして再会できるとは、思いもしていませんでした。
こんなお祭りを企画してくれた東宝と株式会社ポケモンに感謝します。
 
「夏はポケモン!」
 
そんな合い言葉は、一時期の僕にとっては、すさまじいプレッシャーを感じる言葉でもありました。
ビッグプロジェクトのポケモン映画の脚本を書くということは、絶対に成功させなければならないという重圧がともないます。
尊敬する脚本家の首藤さんがお書きになった一本目の『ミュウツーの逆襲』は記録的な大ヒットで、日本の映画史に名を残しました。
そこからはじまったポケモン映画が、現在までずっと続いているのも、この一本目のヒットがあったからだろうと思います。(僕の書いた『ピカチュウの夏休み』も同時上映でありましたけど)
それを首藤さんから受け継いだ僕は、絶対に失敗はできないという思いを、心のどこかに抱えていました。
 
一本目の大ヒットがあまりにも大きかったので、当然のごとく二作目、三作目と興行収入は落ちていきます。
今回、上映された「ラティアスとラティアス」は五作目ですが、当時の成績はやはり落ちました。
(落ちたといっても邦画の興行成績では4位だったんですけど)
それで僕は若干、責任を感じました。
だからというわけではありませんが、20年前に観たきりでした。
 
今回、ポケモン祭りとしてファン投票で選ばれて、すばらしい劇場で観ることができたは、ものすごく嬉しかったです。
興行収入は少なくても、ファンの人たちは喜んでくれていたんだと。
救われたような気持ちになりました。
 
実は自分で物語を書いておきながら、内容はすっかり忘れていました。(笑)
 
作家が自分の書いたものを忘れるなんてことがあるなんて、信じられないかもしれませんが、僕の場合はほとんど書いたらすぐに忘れてしまいます。
自分でもどうなっているのかさっぱりわかりません。
きっと次の作品の作業のために、脳がバッファメモリーを消去してしまうのかもしれませんね。
 
そのおかげで、まるで新作映画を楽しむように劇場で楽しむことができました。
でも観ているうちに、部分部分は思い出したり、当時の記憶が蘇ってきたりして、不思議な感覚も味わいました。
 
前置きが長くなってしまいましたが、今回、感じたことなどをつれづれに書いて行きたいと思います。
(ここからは一人のファンの目線で書いてます。)
 
一言で言うなら、「面白かった~~~!」
 
アクション、ラブ、友情、ファンタジー、共感、などなど、いろんなものがたっぷり詰まっていて、本当に見応えのある映画でした。
 
ファン投票で一位になるのもわかる気がしました。
これこそポケモン好きのみなさんが観たかったものなんでしょう。
まさにポケモン映画。
 
素晴しい!
以上。
 
どこが良かったとか詳しく書いていっても、ただの映画の感想になってしまうので、映画を観ながら思い出したことを書いてみようと思います。
 
まず当時、どのようにして映画の脚本を書いていたのかということを思い出しました。
 
ポケモン映画は毎回、伝説のポケモンが登場することが慣例になっていました。
 
脚本家には、まず登場することなる伝説のポケモンが提示されます。
記憶は定かではないのですが、その伝説のポケモンにもいくつか候補があって、プロデューサーサイドがその中の一つを指定します。
ポケモンのデザインと、いくつかの特徴が書かれたものをいただいたと思います。
 
それがこの回はラティオスとラティアスだったわけです。
提示されたときには名前がちがっていました。(もしかしたら極秘事項なので、コードネーム的なものになっていたのかもしれません。それともわかっていなかったので、僕がかってにつけてアイディアを書いたのかもしれません)
 
僕の提出した初期のプロット(ストーリーを発展させたもので、脚本の前段階のものです)では、まったく違う名前になっていました。
 
当時のデータが手元にほとんど残っていないので、正確ではありませんが、プロットを17回は書き直していました。
アイディア出しから合計するとおそらく20回以上の打ち合わせを監督たちとしたことになります。
 
そこから実際の脚本執筆の作業に入るわけで、書き出す前に膨大なエネルギーをかけていたことが、このことからもわかります。
 
そして脚本の初稿があがってからも、また何十回も修正作業をしています。
 
当時の僕が、いかにこの劇場版ポケモンの脚本執筆に時間をかけていたのかがわかってもらえるのではないでしょうか。
 
今回映画を見終わって帰宅してから、手元に残っていたデータを探ってみたら、17本のプロットのうちのいくつかが見つかりました。
それをみると、できあがった映画とは全然違うアイディアも模索していたことがわかりました。
 
ザンナー、リオンの盗賊姉妹ではなく、男性の悪党バージョンもありました。
ミュウツーが出てくるバージョンもあって、驚きました。
 
つまりさまざまなトライアンドエラーを繰り返して、映画版のストーリーは出来上がっていったいうことです。
 
自分で言うのもなんですが、よくこんな大変なことしていたなぁと思いました。(笑)
 
実際に作業していた自分も大変だったけど、それにつきあって粘りに粘ってストーリーを練っていった湯山監督と神田プロデューサーの執念を感じます。
 
その神田プロも、今は天国にいらっしゃいます。(合掌)
本当にお世話になりました。(涙)
 
ラティアスとラティオスは妹と兄です。
なんでこの二匹が兄妹にしたんだろう、ふと思いました。
 
そういえば僕が書いている作品には、よく兄と妹が出て来ます。
おそらく自分が長男で妹がいるので、無意識にそういう関係性を描きたがっていたのでしょう。
兄が妹に対して抱く気持ちとかが、わかるような気がするのかもしれません。
 
振り返れば、僕の作品には本当によく兄妹が出てきます。
昔のだと、『マシンロボ・クロノスの大逆襲』のロムとレイナ、兄妹。
最近だと『ベイブレードバースト』のバルトとトコナツ、ニカの兄弟妹。アイガとナル。
他にも妹をよくだす傾向にあります。
(シスコンかぁ、というツッコミがありそうですね)
 
僕の一番古い記憶の中に、妹の手を引いて田舎の道を歩いているという風景があります。
おそらく五歳くらいの時のものでしょう。
僕は頼りない小さな妹の手を、握っていました。
二人きりで歩く田舎道は、とても頼りなげな場所です。
兄が妹を守ろうとすることは、僕にとってしごく当然なことでした。
きっとそういう原体験が、二体のポケモンを兄と妹にしたのだと思います。
 
もう一つ、映画を観ながら、僕が驚いたことがありました。
 
この作品には、ラスト近くで巨大な津波が町に押し寄せてくるというシーンがあります。
当然このシーンは2011年の東日本大震災の時のことを思い起こさせます。
被災したかたたちには、とても胸が痛むシーンかもしれません。
救いは、この作品ではラティオスが身を挺して、津波を止めてくれることです。
もしあの災害の時にラティオスがいてくれたら……。
ラティオスは、多くの被災なさった方たちの祈りに近いのかもしれないと気づきました。
 
作家の無意識は、ときおり未来に起きることをとらえていることがあります。
自分でいうのもなんですが、この作品でも、そういうことがおきていたのかもしれないと思いました。
 
アルトマーレの町を守っているのは、水の中に安置された『心のしずく』でした。
それはもしかしたら水の中に入れられていたアレのことなのか……。
それの使い方を誤ったために、暴走し、町はシャットダウンされ、恐ろしい津波がやってくる……。
 
まさにあの災害のことを予見しているようで、心が震えました。
 
この物語では、ラティオスの自己犠牲で悲劇は救われて、心のしずくは元通りになりました。
希望を提示して物語りは終わっています。
 
映画を観てくれる子供たちに、僕ら作り手は希望を提示したのだけれど、現実の社会はどうなのだろうか?
果たして、僕たちはあの悲劇を乗り越えて、今、希望を持てているのだろうか?
僕はそんな自問自答をすることになりました。
 
多くの子供たちの心に、ポケモン映画が希望となっているといい。
あらためて、そんなことを思いました。
一本の映画を観て、こんなにも感情が動いたのは久しぶりでした。
一緒に観た若者たちからも、たくさんの感想を聞かせてもらい楽しかったです。
 
長いノートになりましたが、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
 

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