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”愛しあう”には、”痛み”をともなう

「この人と両思いになりたい!」

付き合いたい。繋がりたい。結婚したい。

あなたには、愛しあいたいと思える人がいますか?

いま愛しあえている人は、その人と1秒でも長くいられるように愛しあえたらいい。

いまはいなかったとしても、愛しあっていたことがある人もいると思うし、これから出会う人もいると思う。

愛すこともとても素敵なことだし、愛されることもしあわせなこと。

でも二人が同じくらい想いあって、愛しあうことほどいいものはない。

だからこそ余計に、愛しあうことには痛みをともなうのだと思う。

ここでの痛みというのは人それぞれで、もしかしたら痛みを感じることもあるし、そうでないこともある。

愛しあうための痛みについて考えていきたいと思う。

愛しあうための痛み

本当に愛に痛みがあるのだろうか。

好きな人と一緒いる時間は、とても幸せなものだ。美味しいものを一緒に食べたり、二人で行きたいところへ行ったり。楽しい時間だと思う。

そこに痛みは存在しない。

ただ思い出してほしい。

付き合っているならば、告白した日のことを。

断られたらどうしよう、と考えた人もいるのではないだろうか。

もし断られることを考えていなかったとしても、断られていたらどう感じていただろうか。

そこには痛みが生まれたのではないかと思う。つらかったり、傷ついたり、少し立ち直れなかったりする。もう終わりだ、なんてことも考えてしまうこともある。

いまもし好きな人と一緒にいれて、ともに時間を過ごすことができたのならば、その人は痛みを乗り越えていった人なのだと思う。

痛みをともなう可能性を乗り越えて、しあわせを二人で生み出せたことになるのだと思う。

つながる痛み、生まれる痛み

初めて二人の身体がつながるとき。それは本当に”初めてのとき”ということだけれども、女性は痛みをともなう。

男性も、女性が痛みをともなうことを知っていて、それを受け入れて、わかちあう。

実際に考えているかどうかは別として、身体がつながることを選んだということは、お互いを受け入れ、わかちあうことが自然と起こっているのだと思う。

つながることも、"愛しあうことは痛みをともなう"ということの象徴にも思える。

出産もそうだろう。大いなる痛みをともなう。お腹が大きくなり、新しい命が生まれる。実際に見たことはないし、男性からすれば想像の域を超えることはない。

女性は、本当にすごい。痛みを体感し、受け入れる。生まれてきた身体の違いだからどうしようもないことで、お互いにそれぞれの役割というものを担う。

だからこそ男性も親になる責任という名の痛みをともない、愛する人たちを全力で守っていくべきなのだとつくづく思う。

つながり、愛が生まれるには、やっぱり痛みがともなう。

人生はそもそも、すべてに痛みをともなうのかもしれない

僕たちは、日々何かを選んで生きている。

それは今日着る服を選んだり、昼ごはんを決めたりするような小さなことから、仕事を決めたり、住む場所を選んだり、この人と結婚して一生一緒にいることを誓うことのような大きなこともある。

言い換えればこれは、一つに選び、他すべてを捨てていることになるんだ。

あらゆる他の可能性をすべて選べなくなる代わりに、一つだけを選んでいる。

そう考えると、みんな知らず知らずのうちにすごいことをしている。考え出せばキリがないのだけれど、ものすごいことをしているんだ。

一人の人と愛しあうことを決めたことで、数限りなくいるまだ出会っていない人たちと愛しあう可能性をすべて捨てたということになる。

もちろんそれでいいんだ。本当にキリがないし、この人一緒にいたいと思える人に出会えたこと以上にしあわせなことはない。

それに浮気や不倫だっていうこともある。それが本当の意味で愛しあうことかどうかは別として、そういう選択肢を選ぶ人もいるというだけの話だ。

ここでは正しい間違っているに関しては考えていない。僕はどちらかわからないし、何が正しくて何が間違っているか他人が勝手に決められるほど、人間は簡単にはできていない。すぐに複雑にしたがってしまうのも人間なのかもしれない。

愛しあうことだけではないのだ。人は生きていれば痛みをともなう。

それ自覚しているかどうか。

すべては選べないからこそ、すべてが尊い。

本当に”痛み”なのか。じゃあこれはなんなのか。

すべてを”痛み”と表現することは、間違いなのかもしれない。

愛しあう人たちの中でも、実際に痛みを感じるときもあると思う。失恋や喧嘩、裏切り、嫉妬。心の痛みをたしかに感じるだろう。

では、愛しあう人たちがしあわせなときに感じたことや乗り越えたものを痛みと思うだろうか。

振り返れば、痛みだったと思うことはあるかもしれない。

ただそれは本当の意味での”痛み”ではないのだと思う。

しあわせを得るために、何かを犠牲にする。責任を負ったり、時間をかけたりする。

でもともに過ごすことを選んだことで捨てたすべての選択肢を、人は犠牲だとは思わない。そしてそれはけっして犠牲ではない。

いうなれば、しあわせのための犠牲だ。愛しあうための犠牲だ。

あってしかるべきもので、大切な痛みなのだ。

それは自分自身の捉え方でしかなくて、自分の人生を自分で選んだという証なんだ。

愛したい人を愛せて、愛したい人に愛されている。これ以上ないしあわせに対するほんのいくらかの対価でしかないのだと気づくことができる。

愛には痛みをともなおう

僕はやっぱりこれを”痛み”と呼ぼうと思う。

痛みを感じられる人は、強い。痛みを感じられる人というのは、これが痛みなんだと認識できる人なのだと思う。

自分がこの痛みを感じるということは、愛したい人も痛みと感じるかもしれない。だからこの痛みを感じないようにしてあげよう。痛みを感じたときに一緒にいてあげたい、と思えるのではないだろうか。

強い人はみな優しいと、僕は思う。

痛みを感じられる分、人に優しくあれるのではないかと思うんだ。

あなたにはいますか?

自分が痛みを感じて、それを感じさせたくないと思える人が。

その人が痛みを感じたとしたら、自分も一緒に痛みを感じようと思える人が。

自分が痛みを感じたとしても、わかちあいたいなと思える人が。

僕にはいます。愛したいと思える人で、愛されたいと思う人で、その人と愛しあいたい、痛みをわかちあいたいと思う。

愛しあいたいのならば、痛みをともなおう。

愛に痛みはつきものだ。人生の大切な痛みのひとつだ。

大丈夫、あなたはもっと優しくあれる。

そしたらもっと愛しあえる。

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愛しあいたいあなたへ

愛しあうための痛みを知った物書きより



あとんす!きっとうまくいく