見出し画像

なぜ、医療、介護従事者はビジネスという言葉に嫌悪感を抱くのか?から考える色々。

僕自身、社会保険事業において、ビジネスという言葉に嫌悪感や違和感を抱く一人である。
その一方で、人を雇用し、持続可能な仕事を作る上で、向き合わなければならない言葉でもあり、僕はビジネスを「経済活動」として捉え使用している。

そもそも、ビジネスとはどのような意味なのか。

デジタル大辞林によれば、ビジネスとは下記の意味である。

ビジネス【business】
1 仕事。職業。また、事業。商売。「サイド—」
2 個人的な感情を交えずに利益の追求のみを目的として進める仕事。「—に徹する」

デジタル大辞林

1の「仕事」という意味であれば特に嫌悪感を抱くことはないだろうが、2の「利益の追求のみを〜仕事」という意味も包括するが故に嫌悪感を抱く方が多いのではないだろうか。

この嫌悪感や違和感自体は、特に否定するものではなく、その感覚を表現でき、向き合い、問い続けていくことは非常に重要だと思う。

ここを起点に考えていこうと思う。

医療、介護の目的とそれを推進する仕組みは?

病気や怪我の治療、また暮らしをサポートするための仕事が、本来的な医療や介護である。

しかし、医療も介護も、営利を目的とする株式会社が参入可能である。

資本主義という仕組み上、市場からの資金調達ができる組織規模の法人と、そうではない法人では、収益性など大きく異なる。

全てではないが多くの営利企業は利益を目的とする以上、利益の最大化を目指すために、事業の効率化/スケールメリットの最大化など目指していく。

その結果、商業的価値の高い中心市街地や人口密度の高いエリアで事業展開を行い、中山間地や僻地は見捨てられていく。

医療・介護職は、ビジネスという言葉に嫌悪感を抱きながらも、実はその多くは自身がビジネスの担い手であることを理解していない。

その結果、さらに格差が拡大するということに。
だからこそ、公や非営利組織の役割が大きいと思う。

対人支援職の仕事の価値とそれがもたらす意味

医療・介護職が営利組織で働くには、当然その理由(例えば給与が高いなど)があり、それは個人では解決する術がない。

医療や介護報酬は公定価格であるため、その報酬の基準が上がらない限り、所得が増えることは難しい。

そしてそれを決めているのが、厚労省であり政府である。
(※社会保障審議会や介護給付費分科会など、さまざまな審議会があるが最終的には官僚や政治が決めている。)

「価格」が世の中における公平な価値基準であるとするならば、とても違和感のあることがある。

例えば、炭酸飲料の広告にかかるデザイン費と、24時間暮らしを支える介護職の給与や、小学校の先生の給与。

どちらの方が世の中に必要な仕事だろうか?
どちらの価値が高いのだろうか。

日本は、対人支援にかかる人の価値が安すぎるのではないだろうか。
それは翻って、支援を受ける人をも大切にしていない。

だから、人を大切にしている(と感じる)地域に人が集まっていくのだと思う。
兵庫県明石市や千葉県流山市などがその最たる例だ。

この10年が、人が住み続けられる地域であるかどうかの、大きな節目だと思う。

人口減少社会、全ての地域が存続するはずもなく、またそれが望ましいわけでもない。

個人をどう支えるか?

人の権利を尊重するかどうか、国家による違いが大きい。
北欧は、税金が高く人に対するケアや福祉が手厚い。
また、女性の社会参加など、世界の中でダイバーシティーが最も進んでいる地域である。
その象徴が、フィンランドのサンナ・マリン首相で、誕生当時世界最年少の35歳だった。そしてなんと、子育てと首相を両立している。

一方で、ロシアや中国、北朝鮮のような国においては、個人の権利は小さい(ように思われる)

では、日本はどうだろうか?

ある程度、個人の権利は大切にされているようだが、それは自己責任のもと何かあれば、自分でなんとかして下さいと感じる。

個人を支える制度や仕組みにしても、複雑怪奇でありその業界の人ですら、その全体像を把握するのが難しいことばかりである。

その最たる例が、申請しないと使えない、あらゆる制度である。

可処分所得、可処分時間が減少していく日本社会において、個人を起点にした「申請」は限界にきているのではないだろうか?

医療、介護職の役割は、その場で患者、利用者、相談者を待つことから大きく変わってきていると思う。「どのように出会うのか」の重要性が高まっている。

人はいつまで「生」の長さを求めるのだろうか〜生命倫理と地球〜

医療も介護も基本的には、「人」に対して行われる方法として生み出されてきた。

この先さらに、人口が増え、食糧が不足し、他の動物/植物を絶滅に追いやり、温暖化が進んでいく地球において、医療や介護の仕事や在り方はどのように変化していくのだろうか。

近い未来、ゲノム技術の発達によって、寿命が延べていくだろう。またテクノロジーの発達によって、物理的な身体を補う技術も発展していくだろう。

どこまで生を求めていくのだろうか。
どこから死を認めるようになるのだろうか。
個人の生であれば、その人の尊厳や想いを出来るだけ叶える形で発展して欲しいと。

しかし、その一方で他の生命の、そして地球の持続可能性はどうだろうか。
我々人類に、また日本は、これらについてどのように向き合っていくのだろうか。

これら一連の内容を包括する概念として、宇沢弘文氏の社会的共通資本があるが、日本は人を大切にした仕組みに変わっていけるだろうか。また、人類は国を超え種族を超え、連隊していけるのだろうか。

どのようにしていけば、実現できるだろうか?

サポート有難うございます。難病の治療や入院費に当てさせて頂きます。勇気頂き感謝です🙇‍♂️