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【♯1】 写真の場所性と記念碑性についての考察及び歴史伝承への応用 ━ はじめに / 研究の目的

はじめに

 
 私は5年前の親友の死をきっかけに写真についてよく考えるようになった。彼女が死んだことを知ったとき、彼女が写った写真はいつも見ている他の写真とは全く違う意味を帯びていた。私は写真の中に彼女の声や仕草、彼女との時間など存在そのものを投影していた。その時私はこの自分の感覚に違和感を覚えた。それは実際には彼女ではない写真という単なる「像」に彼女の存在を見出していることへの違和感だった。私が見ていたのはスマートフォンに写る、0と1のデータに置き換えられ、ただの色の組み合わせとして存在する像であった。しかし知らせを受けた直後の私は、すがるように本物ではないその彼女の像を見つめ、確かにそこに彼女の存在を見出していた。なぜただの色の組み合わせと化した像にこんなにも親近感を覚え、彼女を思い出すときに写真を探してしまうのか。最初の疑問はこんなところから始まった。

 写真にはフィルムカメラやデジタルカメラによる撮影、または印画紙へのプリントや電子機器など様々な保存方法と表示メディアが存在するが、全ての方式にによって撮られた写真においてこのような現象は起こり得る。おそらくこのことは私の経験した状況に限った特別なことではなく、一般的に写真に人間の存在を投影してしまうということは様々な場面で無意識に行われている行為である。また、人間を写した所謂ポートレートに限らず、写真術そのものには撮影対象物が持つ性質を保存し、写真として複製された時にその性質を反映したり強調したりする性質があるのではないかと考えている。これは特定の場面におけるものではなく、普段スマートフォンで何気なく撮った友人との写真や家族写真、過去の偉人の写真や美しい風景に至るまで、写真というメディアがはらむ特異な性質は存在する。

 このようなことから私は、撮影対象と私たち撮影者そして鑑賞者がどのように関係し、どのように対象の性質を受け取っているのかを考察したいと考えるに至った。今回考察を進めていく中で、写真術には、撮影によって撮影対象の中の時間感覚の転換が起こす「写真の場所性」という性質があるのではないかと考えるようになった。そしてさらに、写真の場所性から導かれる風景と写真、記憶という三点の関係性を明らかにする「写真の記念碑性」という重要な要素に終着した。この「写真の記念碑性」については、私の故郷である広島の街の歴史と絡めて論を展開している。
 これらの写真に特有の性質によって、私たちは故人の写真のなかに彼らの時間や存在を感じたり、見慣れない異国の風景に懐かしさを感じたりするのではないだろうか。このような推察に基づいて論を進めていく。

 

研究の目的


 本研究の目的は、この「写真の場所性」「写真の記念碑性」についての考察を行うことによって、撮影対象と鑑賞者がどのように関係し、鑑賞者が写真からどのように撮影対象の性質を受け取っているのかを解明することにある。さらにはそれを解明した先に、論題にもある通り、過去と今を繋いできた写真というメディアをこの先行われる歴史伝承に役立てるための方法論を確立することにある。
 
 このことを説明するにあたり、いうまでもなく「時間」「生死」「記憶」と言った不可視の問題が関係してくることになるが、特にこの論文で強調したいのは先ほども触れた写真における「場所」というエッセンスである。これについては後の文章で詳述する。「時間」「生死」「記憶」と言った問題は普段の日常でも考えることを蔑ろにされるものではあるが、実は私たちにとって身近な写真というメディアがその性質を多分に含んでおり、写真を考えることによってそれらをもう一度深く考察する機会になるのではないかと考えている。また写真における「時間」「生死」「記憶」の考察はロラン・バルトの『明るい部屋』など様々な写真に関する書籍で行われているが、今回の私の論文では、主にはヴァルター・ベンヤミンによる写真論や歴史観、または私の親友の死、私の生まれ故郷である広島での経験を参考にしながら論を進めていく。さらには「記憶の視覚化による歴史の伝達法の模索」というテーマに基づいた私の研究作品や、様々な写真家による「記憶」をテーマとした作品などにも触れながら「写真の場所性」を明らかにしていく。

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