【♯5】 写真の場所性と記念碑性についての考察及び歴史伝承への応用 ━ 【第2章 写真の場所性】 -2
2 - 2 Timescapeとしての写真
以上のように、写真の場所性の説明には、場所が内包する(記憶する)時間について理解する必要があった。では、この理論を受け写真が表しうる時間の概念についてもう少し深く考察してみる。
写真とは言うまでもなく、機械の眼を通して人間の視覚がとらえた場所を像として残す技術である。写真の機能は何か、と聞かれて多くの人は主にこのことを挙げるだろう。しかし、前章で説明した通り、写真にはもう一つの大きな機能が備わっていると言える。写真の機能とは言うなれば、撮影者が見た場所そのものである“Landscape”を保存するものであると同時に、写真独自の方法で保存された、過去から現在までの時間の幅、あえて名前を与えるとするならば“Timescape”とでも言えるものを媒体に定着させ提示する方法としても機能してきたのだ。撮影者が直接見た場所を媒体に保存するという単純で目に見える機能と比べて、「時間の知覚方法が転換する」という概念が不可視であり抽象的でもあるため無意識的には感じられないことであるかもしれない。だが、写真術が持つこの特殊な機能はこれまで作家によって発表された作品などには非常によく表れていると言える。これからその例として紹介する作家や作品は、意識的にか無意識かは定かではないが、写真の持つこの機能を利用し、特に写真に内包された時間の表現を評価された作品であると言える。
2 - 2 - 1 杉本博司 『海景』
まず最初にTimescapeとして機能する写真として例に挙げたい作品は、杉本博司*によるシリーズ作品『海景』だ。この作品は様々な場所の海を空と海が上下均等に分けられた構図で撮影した作品で、1980年から2002年にかけて制作された。『海景』は、私がここまで強調してきた「場所」という概念の中でも、特に大きな規模の時間を内包する海というモチーフが提示されていることからも、Timescapeとしての写真の機能をよりわかりやすく捉えることができる。杉本の『海景』を解説した Webサイト『This is Media』には、「杉本博司は著書の中で『私たちの命が生きていくためには、水の他に空気も必要だ。空気は空気のような存在である。目に見ることはできない。しかしこの広い宇宙の中で地球だけが水と空気を保っているらしいのだ。そしてこの水と空気こそがすべての生命を支えている根源的な物質なのである。』一瞬一瞬を切り取る写真で地球の数十億年という途方もない歴史を感じさせる作品でもあると言えます。」7)と書かれている。杉本は地球の上に存在した時間の最初から現在までを経験し、地球の根源とも言える海を、22年に渡って撮影した。撮影されたのは22年間の海は、地球上に流れた46億年の時間の中でも、ほんの爪の先にも満たないほど最近の海である。しかし杉本による『海景』が表現しているのは、数十年前、撮影されたその空間に流れていた時だけではない。『海景』のシリーズは我々の想像を原始の海まで引き戻し、さらにはそこから今我々が作品を目の前にした瞬間まで時間が流れていることを同時に体感させている。
例えば、相模湾で撮影された『海景』を例に取り、前項で述べた写真の場所性の発生順序に沿って考えてみると、『海景』シリーズのTimescapeとしての効果はこのように考えられるだろう。相模湾の海は撮影され像となった時点で、1997年に撮影されたという事実との関連が薄くなり、相模湾の海の像は横軸的な時間軸から徐々に離れていく。その後、撮影時間との関連がほとんどなくなり、その像が「相模湾の海」として場所的な概念になったとき、時間の知覚方法の転換が写真の中で発生する。この作品は、横軸的な時間軸の中に配置された“1997年に撮影された相模湾”という認識から、“相模湾に流れた過去から現在までの時間の中を浮遊する海”として認識されるという転換が行われている。杉本博司は特に、『Theaters』*8)にも見られるように、写真が機能的にはらむ時間の概念を体感として提示している作家だと言えるだろう。
2 - 2 - 2 石内都
次に石内都*の作品を見ていく。彼女の作品では写真の場所性による効果に“人の姿”という要素が加わる。石内都の作品に一貫したテーマとして「記憶」「痕跡」が挙げられる。石内都は、膨大な時間と人々の雑踏の中に次第に埋もれてしまう、小さいが深い、傷のような痕跡を丁寧に拾い上げ写真として我々に提示してきた。その中でも特に写真集『Mother’s』9)『ひろしま』10)『フリーダ 愛と痛み』11)などで発表された、遺品を撮影した写真からは、かつての所有者の姿や感情など、彼ら彼女らの命の息吹が感じられるようである。もちろんこれらは石内都の類稀な感性が為せることではあるが、やはりここでもTimescapeとしての写真の機能が深く関わっていると考えられるのではないか。この場合では、撮影によって横的な時間軸との関わりが薄れ概念に近づいた遺品たちが、次第に所有者にそれらが使用されていた時間を浮遊し、その際に所有者のイメージと遺品のイメージが癒着しているのだ。そのため遺品から所有者の様々な感情や躍動、静寂が感じられる。石内都の作品ではこのような時間の転換が行われていると考えることができる。つまり、人の姿であっても概念的な場所に還元されることになる。
また、2017年12月から2018年3月にかけて石内の個展『肌理と写真』が開催された。この展覧会において「横浜」と題されて分類、構成されていた作品群『Apartment』『Bayside Coarts』などは、特に写真における“場所”の立ち上がりを顕著に表している作品群だと言える。これらの作品で扱われるモチーフは、石内によって写真とされる前からその時代との解離が始まっていたのではないかと思えてしまう。壁はめくれ煤がたまり、時が止まって時代とは別の場所を浮遊しているかのような場所だ。石内はその時代との解離を傷や痕跡として写真に定着させてきたのではないか。『Apartment』『Bayside Coarts』などの写真群は、その場所それ自体が時代との解離の最中にあるために、写真となった時その中に同時に存在する過去と未来がより敏感に感じられる。
しかし、写真とされる前からある風景の中に写真と似通った性質が見受けられるのは不思議なことである。これら写真と風景の関係性については第4章「写真と記念碑」でさらに詳しく述べていく。
2 - 2 - 3 森山大道『新宿』
次に例として挙げたいのは2002年に発行された森山大道の写真集『新宿』12)である。写真は時間経過とともに時間軸との関わりを薄め、その場所性を強調していくと説明したが、森山大道の『新宿』はまさにその時間軸からの解放の過渡期にあるような写真たちの集成であるように思われる。『新宿』には2000年前後の約5年間の新宿のスナップがざっくばらんに並べられている。行き交う人々の雑踏を中心に、路地や看板などがモチーフにされてており、絶えず流動し捉え所のない新宿の人々の蠢きが収められている。写真がTimescapeであると言う視点からこの写真集を見てみると、現在にも残る新宿の影にどこか安心感を感じながらも、現在の新宿と比べて写真に違和を覚えることだろう。2000年前後に撮影されたこれらの写真は、20年と言う時間の経過によって現行の時間軸との関係が薄れ始め、“過去の”新宿としてそこに写るものたちは概念に近づき、写真における場所にイメージたちは回収されつつある。この際に感じる違和は、20年と言う時間で、写真における場所に回収されきらなかった新宿の姿が写真の中に未だ多く見られるため、その差によって起こるざらついた手触りに対する違和なのであろう。概念的であるものと現在的で具象的であるものの間にギャップが生じているのだ。
この具象が概念に回収される過程は、2002年発行の『新宿』と、『新宿』を大きく見直し、150項を追加して2014年に発行された『ニュー新宿』13)の間に見てとることができると考えている。『新宿』には個人の視点を持った写真や、誰か、何かに焦点を当てた写真が比較的多い。ポスターに写った俳優の顔の写真や、看板に写る大きな文字、通りを歩く一人の女性などだ。比べて『ニュー新宿』ではそういった視線が絞られた写真がかなり削られて構成されている。『新宿』の時点では、個人や街の細部の観察をすることを通して、人間の集合的な蠢きに焦点を当てていたように感じるが、『ニュー新宿』では個人的ではなくより不明瞭で抽象的な新宿の蠢きが表現されていると感じる。『新宿』も『ニュー新宿』も同じ時間に撮られた写真をセレクトしているはずだが、森山の新宿と言うモチーフに対するイメージが、二つの写真集の時代の間でより場所的(概念的)になったと言うことができるのではないだろうか。
2 - 2 - 4 ウジェーヌ・アジェ
前章では遺影の特性を考える際にアジェを例に出したが、今度は彼の作品をTimescapeとしての写真として見ていく。アジェの写真群と遺影との共通点として見えてくるのはそれらが“失われたもの”であることであり、“失われたもの”の発見によって彼の写真群は価値を見出されたと述べたが、ジョン・シャーカフスキー編集の『ウジェーヌ・アジェ写真集』序文には、アジェの写真についてこのように書かれている。「アジェのもっともよく考えられた画像においてでさえ、その見た目の完璧さは一つの経験が、ダンサーが頂点で静止する瞬間のように、はかないものだということを示している」「モティーフが常に更新されるものだと言うことがわかっていながら、アジェを繰り返し同じモチーフに立ち返らせたものこそ、この世は絶えず変化すると言う認識だった。」「アジェは最難関のチェスの問題以上に無限に広がる問題を(暫定的に)解決する、あるいは少なくとも問題と格闘する慶に浴した。というのも盤面は絶対に以前の状態には戻ることができないからである」14)アジェは自らが都市や時間の生成の中に置かれており、さらには生成を止めない時間軸から1点の場所を切り離すという、写真術にしか成し得ない得意な性質、ここで言う写真の場所性を非常によく理解して撮影を行なっていた。そして(意図的かそうでないかは問題ではないが)成長を続けるパリを撮影して回った30年の間に、同じモチーフは繰り返され、結果的にTimescapeとして時間の幅を提示するに至った。前章でのアジェについての考察とも関連づければ、ここでいうTimescapeとしての写真が持つ時間の幅こそがアウラの発生と直接結びついているとも言うことができるだろう。
引用
7)『This is Media アートをもっと好きになる美術・芸術メディア−シリーズ『海景』/ 2021年12月5日アクセスhttps://media.thisisgallery.com/works/hiroshisugimoto_03
8)杉本博司 著 『Theater』/ Xavier Barral / 2016年
9)石打都 著 『Mother’s』/ 蒼穹舎 / 2002年
10)石打都 著 『ひろしま』/ 集英社 / 2008年
11)石打都 著 『フリーダ 愛と痛み』/ 岩波書店 / 2016年
12)森山大道 著 『新宿』 / 月曜社 / 2002年
13)森山大道 著 『ニュー新宿』 / 月曜社 / 2014年
14)ジョン・シャーカフスキー 著 / 原信田実 訳
『ウジェーヌ・アジェ写真集』 / 岩波書店 / 16-19頁 / 2004年
図版
図3)『横浜美術館 石打都 肌理と写真』
2022年5月23日アクセスhttps://yokohama.art.museum/special/2017/ishiuchimiyako/exhibition.html
図4)『The New York Style Magazine: Japan』
2021年12月22日アクセス / https://www.tjapan.jp/art/17271643/p2
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