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【♯6】 写真の場所性と記念碑性についての考察及び歴史伝承への応用 ━ 【第3章 ベンヤミンの歴史観と場所性】 -1

第3章 ベンヤミンの歴史観と場所性 

 ここで示した「写真の場所性」に対する私の見解は、ヴァルター・ベンヤミンが彼の著書、『歴史の概念について』*15)などで著した彼独自の唯物史観などの歴史観、時間観念に大きく影響を受けて形成された。そこで語られているベンヤミンの時間に関わる見解は、“写真の中に堆積した時間が保存される”という私の意見を補強し、大きく飛躍させた。

 実際、写真に関してはベンヤミンも前掲の『写真小史』や『複製技術時代の芸術』などで意見を述べてはいたが、あまり前向きな意見ではなかった。この二つの著書では、複製技術、ここでいう写真の存在によって『「いま」「ここに」しかないという芸術作品特有の一回性は、完全に失われてしまっている』16)と説明されている。しかし、主に『歴史の概念について』で述べられていることは皮肉にも、私がこの論文で説明しようとしている写真の根本的な性質と共鳴し、論を補強するものになった。『歴史の概念について』では歴史の知覚方法として、マルクスが唱えた「史的唯物論」をベンヤミンが独自に発展させたベンヤミン版の史的唯物論が展開された。彼の主張の中でも特に、弁証法的イメージによる歴史の知覚方法についての理論が、私が前章で展開した写真論と深く関わりがあると考える。

3 - 1 弁証法的イメージ 

 ベンヤミンの史的唯物論を理解するには、弁証法と史的唯物論について説明する必要がある。まず、弁証法とは、物事の変化や発展を本質的に理解するための方法論であり、一般に有限なものはすべて自己に内在する矛盾を動因として対立物を生み出し、それを媒介としてともにより高次の段階へ止揚されると主張した。これらはテーゼ(支配層)、アンチテーゼ(非支配層の支配層への挑戦)、ジンテーゼ(対立)で説明される。テーゼにには必ずアンチテーゼが生まれ、ジンテーゼが起きる。ジンテーゼを媒介として物事は高次へ止揚されるが、ジンテーゼは新たなテーゼとなり、テーゼがなくなるまでこの対立は繰り返される。ヘーゲルが観念論的唯物論の中で、自己と自己矛盾とそれらによる止揚として弁証法を体系化した。

 このヘーゲルの観念論的唯物論に対して、マルクスとエンゲルスが主張したのが弁証法的唯物論である。これは運動する物質をその全理論の出発点とし物質の運動法則、運動形態は弁証法的であるとする説である。17)そしてこの物質に対する弁証法的理論を社会や歴史に適応させたのが史的唯物論で、支配階級(テーゼ)と被支配階級(アンチテーゼ)の間の階級闘争(ジンテーゼ)によって引き起こされる社会の飛躍によって、原始社会から封健社会へ、さらには資本主義から共産主義へと高次に止揚されるというものだ。

 さらにこのマルクスの史的唯物論を批判する形で、ベンヤミンは独自の史的唯物論を唱え、特にマルクスの進化史論的な時間や歴史の概念を覆そうと試みた。ベンヤミンは時間や歴史が、時計的な感覚や年譜、年号など時間軸上で“量的変化”するものとして捉えることを否定し、さらに歴史を時間軸に沿って物語化することを特に強く批判した。そして物語化された歴史、言い換えれば“勝者の歴史”の裏には、歴史に無視された無数の名も無き死者たちが抑圧されているとした。このような量的変化として捉えられる時間や歴史の認識に対して、ベンヤミンは時間は“質的変化”(生成変化)であると主張した。時間は量の増減によって認知されるものではなく、時間や歴史は砂糖が水に溶けることや、髪や爪が伸びること、顔にしわが刻まれること、侵食や隆起による風景の変化などのように、“不可逆の蓄積される変化”によって認識されるものだと主張した。

 私はこの様な質的変化による歴史認識を、地層の様に堆積するものとして捉えた。時間は時間軸の認識の様にリニア的に進んでいくものではなく、地層の様にその場所や風景、モノに蓄積していく。今自分が立っているある場所の奥底に潜むある歴史の層と、自分が立っている現像の層がある瞬間に一致した時、そこに過去のイメージが弁証法的イメージとして想像されるのだ。ベンヤミンは、歴史を知覚する方法として、現在(テーゼ)と化石(アンチテーゼ)が出会うとき、私の中で飛躍(アウフヘーベン)が起き、一瞬、過去のイメージがよぎるものだと説明している。ベンヤミンやユングが“星座的布置”と呼ぶものもこれにあたる。何光年も離れた星々を同時に見ている私たちは、その星々から星座という一つのイメージを作り出す。この様に別々の層に沈んでいる時間を一つのものとして観測することによって、ある一つのイメージが得られるということである。このことは前章でも説明したアーティストたちの作品を見ていけばその意味が分かりやすく感じられるのではないだろうか。ただ、この“イメージ”についてはベンヤミン著『パサージュ論』にて「過ぎ去ったものがその光を現にあるものに投げかけたり、現にあるものがその光を過ぎ去ったものに投げかける、というのではない。イメージというものは、そのうちにおいて過去が現在と一つに出会って星座的布置を形成する場」18)とあり、どちらか一方の視点から形成されるものではないと説明されている。私が写真を時間の幅を記録するものとしてTimescapeであると説明したのは、こののような現在と過去、双方向からの働きかけによる星座的布置の概念が大きく関係している。詳しい私の作品についての解説は後述するが、私が今年度行なった研究制作では広島の川底に残された靴や食器などを撮影した。この研究制作における“広島の川”も、様々な時代の遺物からなる星座的布置を形成する場所として機能させることのできる場所であると言えるだろう。




註釈・引用
15)ヴァルター・ベンヤミン 著 / 鹿島徹 訳・評注 『[新訳・評注]歴史の概念について』/ 未来社 / 2015 年

16)ヴァルター・ベンヤミン 著 / 佐々木基一 訳 『複製技術時代の藝術』/ 晶文社 / 13 頁 / 1999 年

17)『コトバンク 弁証法的唯物論』
2021 年 11 月 29 日アクセス
https://kotobank.jp/word/ 弁証法的唯物論 -131207

18)ヴァルター・ベンヤミン 著 / 今村仁司・三島憲一 訳・ 『パサージュ論』/ 岩波書店 / N2a,3 / 2015 年

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