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【『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を読んで】院生/修士生ライフブログ Day9(4月10日)

こんばんは。たまひなです。

最近は、家にこもりすぎもメンタルに良くないなと思い、軽くお散歩を取り入れるようにしています。昨日は、お散歩コースの本屋で、ずっと気になっていた、『ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー』という本を見つけたので読んでみました。

このお話しは、アイルランド人の父と、日本人の母を持ち、イギリスに住んでいる中学生の息子とその母親の視点から描かれた、「多様性」についての本でした。人種差別、所属している国、経済格差、ジェンダー。ありとあらゆる「差」が複雑に絡んだ中学校生活。その中で、子供たちは、ぶつかりながらも、自らの心と頭を使って、行動します。その息子の成長の日々を、著者であり母であるブレディみかこさんが綴っていく、心温まるお話しです。ですが、単に心温まるお話しではなく、読んでいるこちらも一緒に「多様性とは何であるか」を息子さんのピュアで率直な言葉や、エッジの効いた言葉、ブレディみかこさんの指摘にハッとさせられながら、考えていくお話しなのです。

この本を読みながら、「多様性は何なのか」を考えてみましたので、そのことについて書いていこうと思います。網羅的に「多様性とは」の定義づけをしたわけではなく、断片的に考えたことなので、そこはご了承ください...



「多様性」とは、「衝突」を乗り越えた後にあるもの

多様性というと、皆で仲良く共存しているというイメージが強いのですが、これは、その多様性を獲得する前に、いくつかの衝突があったことを忘れてはいけないと思うのです。

私は大学のゼミで「差別はどうして起こるのか」や「差別をなくすには」というテーマで考えたことがありますが、その時同級生が、「この話合いは無駄だと思う。なぜなら、僕らは衝突しようとしていない。」と言ったのをこの本を読みながら、思い出しました。彼が言うには、僕らが差別をなくすにはどうしたら良いのか。などと、その当事者が居ないところで考えているのはおかしなことで、差別をなくしたいと言っているのに、どうして、当事者に交わることを恐れるのだ。それこそ問題だと言うのでした。

たしかにその通りだと思いました。その時、人種差別について私達は話していましたが、部屋にいたのは皆、同じような見た目の“日本人”だけだったからです。もし、いろんな国籍の人や、いろんなルーツをの持った人がその場に居たら、全然違った議論になったことでしょう。衝突が生まれてかもしれませんが、そういう衝突を避けていては彼の言う通り、真の意味で「多様な社会」に辿り着けない気がします。



そういう私達の状況とは違って、とイギリスの“元底辺中学校”に通うこの本の主人公は、毎日衝突と衝突のはざまで過ごしていました。

彼には二人の友達がいました。ひとりはティムという貧しい家の男の子。もう一人は、ハンガリーからの移民の男の子、ダニエルです。ティムはダニエルのことを人種で差別し、ダニエルはティムのことを家庭が貧乏であるということで差別していました。そしてこの二人が、主人公の男の子の取り合いをするのですが、彼は、誰も傷付けないように公平な立場を取り続けます。常に、公平な立場でいることは、面倒なことだし、神経を使うことではありましたが、ですが彼はその姿勢を貫くのです。彼にとっての「多様性」とは二人の大切な友人を傷つけるくらいなら、自分が面倒なことを引き受ける。そういうことを意味していたのです。私達が簡単に言う「多様性」とは重みが違っていたのです。



「衝突」をどう越えていくのか。

人と衝突した時、どうやって、この衝突を乗り越えていくのでしょうか。
この本が教えてくてたことは、「無知」を改めること。そして、エンパシー能力を磨くことです。



「無知」を改める。

「理想の多様性」を構築するには、「無知」を改める必要があり、その「無知」を改めるには理想とは言えなくても、「多様性のある環境」をつくっておくことが大事だと気づきました。

衝突はお互いの、もしくは一方「無知」から引き起こされる可能性が大きい気がします。本の中でも主人公がレイシスト的な発言をよくする同級生に怒っていた時、彼の母であるブレディ氏が以下のようなことを言います。

「無知なんだよ。誰かがそういうのを言っているのを聞いて、大人はそういいことを言うんだと思って真似しているだけ」(34p)

その母の言葉に、息子が「つまり、バカなの?」と聞くと、

「頭が悪いってことと無知ってことはちょっと違うから。知らないことは、知る時が来れば、その人は無知ではなくなる」(35p)

と返しました。

「人種差別的な言葉を言うのは悪いことだが、その同級生はそれが悪いことだとはあまり思っていないのだ。それはそんなことを言う周囲の大人がいるせいだ。」とブレディ氏は、息子の同級生の置かれた立場を想像しながら、息子に諭ます。

「なんでこんなことも分からないんだ!」と腹を立てることは簡単で、自分と違った考えを持つ人のことを「バカだ・頭が悪い」と人格を否定したくなることもあるのかもしれません。

でもそれでは、意味がないのですね。母にそう諭された息子さんは、そんな同級生のレイシスト的発言を傍で注意しながらも徐々にその彼と仲良くなっていくのでした。その同級生も息子君と仲良くなるうちに徐々に、自分の無知を改めていっているようでした。

もし、この同級生の傍に、息子さんのような人が居なかったら、彼はずっとレイシスト的な発言を悪いと思わずにするような大人になっていたのです。そういう意味で、自分とは異なったルーツを持ち、考え方、理念が違う家庭で育った人と過ごすことは、その本人にとって、「無知」を知る機会になるのです。


エンパシー能力。

「理想の多様性」を構築するには、「エンパシー能力」を磨く必要があり、その「エンパシー能力」を磨くためにも、理想とは言えなくても、「多様性のある環境」をつくっておくことが大事な気がします。

「エンパシー」というのは、「シンパシー」と混同されやすいのですが、両者は違ってて、以下のように、本文で紹介されています。

「シンパシー」は、かわいそうな立場や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情で努力しなくても自然にできるが、「エンパシー」は、自分と違う理念や信念を持つ人、別にかわいそうだろ思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。シンパシーは、感情的状態、エンパシーは知的作業ともいえる。(75p)

この、エンパシーは、中々持てるものではないかもしれません。自分と同じように、ものごとを見る人達だけと過ごしていると、みんな自分と同じように考えているものだと思ってしまいます。

ですが、完璧ではなくても、たまに衝突を生んでしまっても、ものごとを違った視点から見ている人と一緒に過ごす時間を作ることで、そういう人の存在を感じながら生きていけます。自分の発言が、傷つけるかもしれないと思いながら、言葉を選んだり、あの人だったら、どう思うのかなと考えたり。そういったちょっとの想像力が、他者と豊に生きていくために必要なことなのかなと考えました。


最後に。

この本の、主人公の息子さんが、複雑化した多様性の中で、いろんな人の立場でものごとを考え、自分のアイデンティティを探求している姿は、人間に対する希望を感じさせてくれるものがありました。だから、この本がこれほど多くの人に読まれているのでしょうね。時世柄、強く心に残る言葉も多く、多くの人に、今読んでいただきたい一冊だなと思います。


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