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妄想考察 「花咲か爺さん」は何を失い、何を得たのか。


子どもと人形劇を観に行った。花咲か爺さんだ。
花咲か爺さんのお話を覚えているだろうか。
簡単に説明するとこういう話だった(人形劇ver.)

・・・・・・・

ある日、隣のイジワル爺さんが畑を荒らした犬を叩いて懲らしめていて、その犬が優しい爺さんの元に逃げてきた。のちの「ポチ」となるその犬が「わんわん(助けてください)」と助けを乞うて、優しい爺さんが飼うことになった。
ポチが「ここ掘れ!わんわん」と吠えるので、優しい爺さんが言われたままにそこを掘ると、大判小判がザクザク出てきた。

それを隣の家から見ていたイジワル爺さんが「犬を貸せ!」とポチを連れて行った。ポチが「ここ掘れ!わんわん」と教えたところを掘ると、ゴミがたくさん出てきた。
怒ったイジワル爺さんは、ポチを叩いて殺してしまった。

そんなことになっているとは露知らず、優しい爺さんがポチを迎えにいくと、イジワル爺さんは「あの犬なら死んでしまったわ」と言う。
優しい爺さんは悲しむが、現実を受け入れポチを埋めてあげる。するとそこから芽が出て、驚くスピードで立派な木に育った。
ある日、その木から声がする。「くうーん、くうーん、おじいさん、この木を切ってください。この木を切って臼にしてください。」
おじいさんは何も疑うことなく全てを察して、木を切り、臼にして、それで餅をついた。するとどうでしょう、お餅は大判小判に変わるではありませんか。

それをまたまた隣で見ていたイジワル爺さんが「この臼を貸してくれ」と借りにくる。家に戻ったイジワル爺さんが餅をつくと、お餅はお化けに変わってしまった。慌てたイジワル爺さんは、臼を燃やしてしまう。
またまた、そんなことになっているとは露知らず、優しい爺さんが臼を引き取りに家に行くと「あんなもん、燃やしてやったわ」と言うのだった。

灰になった臼を持ち帰る途中、風がピューっと吹いて灰が散らばると、あら不思議、桜が咲いたのだった。
偶然にもお殿様が散歩中で、桜を咲いたことに驚き「そなたが咲かせたのか?」と問うが、優しいおじいさんは「え?私は何もしていませんよ?」と言うのだった。

それをまたまた隣で見ていたイジワル爺さんが「その灰を貸せ!」と奪い取り、「私が咲かせて見せましょう!」とお殿様に言うが、灰がお殿様の目に入ってしまいカンカンに怒ったお殿様に牢屋に入れられてしまう。

そしてお殿様は優しく、優しい爺さんに言うのだった。「この灰で咲かせてごらんなさい?」と。
優しい爺さんは嬉しくなって「枯れ木に花を咲かせましょう!!!」と灰をばら撒き続け、あたり一面、桜が満開になったのでした。終わり。

千恵の記憶による要約

後に「花咲か爺さん」と言われるその爺さんは「優しい爺さん」と言われる存在だ。でも本当に優しいのだろうか?
お人好しなのは間違いないが、流され続ける、この受け身の姿勢を「優しい」と表現するには単純過ぎないだろうか?
人類の多様性は認めるが、自分の心や頭で判断することを放棄し、言われるがままに決断を他者に委ね、大切なものを奪われ続ける、この人物像は令和の今も「優しい爺さん」ですか。

と、私はなぜかこのお話を「妻の立場」と「令和を代表する現代人の視点」で観て、ひとり問題提起していた。

この人形劇は、優しい婆さん(妻)とイジワル婆さん(妻)は登場しないver.で、だからこそ(だからこそ?)私はこの優しい爺さんの行動を妻という立場で観察し続けてしまったのかもしれない(?)


・・・・・・・・

例えばだが、イジワル爺さんがポチを連れて行くときはこんな感じだ。

イジワル爺さん:この犬を貸せ!(首輪を引っ張る)
ポチ:くうーんくうーん!
優しい爺さん:(黙って、見ている、全てを受け入れている)
爺さんの妻(私):え?なんで貸しちゃうの?あの爺さんはまたポチを叩くかもしれないよ?
優しい爺さん:え?いや、でも「貸して」って言われたから。
ポチ:そりゃないですって〜!!くうーん!!


こんな感じで、鑑賞し始めてしまったら、もう目も当てられない。
劇中ずっと妄想に妄想を重ねて、子どもの隣でハラハラしながら劇を観ていたことを告白する。


偶然にもお殿様が散歩中で、桜を咲いたことに驚き「そなたが咲かせたのか?」と問うが、優しいおじいさんは「え?私は何もしていませんよ?」と答えた。

千恵の記憶による要約

このあたりなんて、もう妻の立場で見ている私は、怒り心頭。


なんでもいいから頭を使え!
自分の言葉で説明しろ!
自分の力で人生切り開け!
あなたが謙虚でいい人なのはわかったから
「はい、この灰で私は桜を咲かせます」と言いたまえ!
今、ここで自分の状況を、自分の言葉で、変えていきたまえ!!!!


叫ぶようにメッセージを送ったのにも関わらず、全然あの爺さんには伝わらない。相変わらず「はて??」という感じで、イジワル爺さんに、またもや灰を奪われてしまうのだった。



えっと、大丈夫ですかね?
私、花咲か爺さんの話をしてますよね?
現実の誰かと重ねて見て怒っていませんよね????
花咲か爺さんを、現実の誰かと重ねて、怒っていませんよね????
私は、花咲か爺さんの話だけをしてますよね???????


まあ、そんな感じで人形劇を鑑賞したのだけど、最後にお殿様の誘導で主体性を取り戻して、楽しそうに灰を撒いていたから「あー、本当によかった!!!」と心から思ったのだった。「枯れ木に花を咲かせましょう」のテンションが「ブレイクスルー!!」という感じで、とてもよかった。

優しい爺さんは正直な爺さんではあった。人を疑わず、拒絶せず、木から聞こえたメッセージも素直に受け取り、全てを受け入れる爺さん。
「正直者は最後は幸せになれた」「欲深い、奪う人間はいずれ痛い目に遭う」というのが、このお話の教訓かもしれない。

なんだが。
何度も悲しむことはあっても特にそこから何も学ばず、奪われ続ける爺さん。
ハッピーエンドを見せてもらったとはいえ、この年になるまで「この爺さん、ずっとこんな調子で生きてきたのだろうか」と、胸が痛くなった。


胸が痛くなって、「もしも結婚するなら、お殿様に認められたあたりで、結婚したいかな。」と令和の妻の立場で思うのだった。



これは本音を書こうと頑張るが、どうしても良く見られたいという欲が出てきてしまう人間の偽日常日記である。
(今回の自分解放率82%)


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