見出し画像

「評」あるいはハラスメント?

こんにちは。だいだいです。私は時々短歌を詠む、アマチュアです。私にとって短歌は「趣味」「娯楽」なので、優先順位のトップは「楽しむ」です。
とはいえ、上手くなった方が楽しいですから、いまはお金を払ってカルチャー教室経由で、プロ歌人の添削を受けています。
一方、この界隈にはもっと熱心な人もいて「結社」に加入して仲間と切磋琢磨し、先輩からの評を受けて自分を磨いている人もいます。私はそれほど熱心でなく、結社には加入していません。

きょうは、そういう短歌を巡る環境を踏まえて、結社でも有料の教室でもない「オンライン歌会」における評のあり方を考えてみたいと思います。


オンライン歌会

私は過去3年ほど「読書メーター歌会・句会」を主催しています。3か月に1回「夏雲システム」をお借りして、参加者から作品を募り、1週間ほどの間に、投稿した人が自分以外の人の作品に点をつけます。点数は特選2点、並選1点で多くの点数を集めると結果発表の時に上位になるという仕組みです。点数を入れられる作品の数などはオンライン歌会によって異なると思いますが、形式はどれも似ていると思います。

さて、オンライン歌会では点数を入れるだけでなく「評」つまりコメントを添えることができます。私の主催する歌会では「点を入れた作品にはできるだけ優しいコメントを入れてください」とお願いしています。これには過去のちょっとした経緯があります。

評に傷ついて去って行った人

ある歌会(句会)の後、「こんなことを言われるなんて心外です」と怒りを表明して、二度と参加しないと言われた方(Aさん)がいました。Aさんは他の参加者Bさんからの評(もっとこうしたらどうでしょう?の提案を含む)に不快感を覚えたそうです。私自身もBさんから改作の薦め的な評を受けたことがありますが、Bさんの語り口が丁寧であり親切心からのことと感じとれたので、あまり気にしていませんでした。しかしAさんには、知らない人からいきなり頭ごなしに「ダメだしされた」と感じられたようです。

ネットの世界ではお互いに顔を合わせるわけではなく、また歌会以外でのコミュニケーションもないので「人間関係」ができていません。例えば数年の交流ののちに改作の提案をするのと、出会い頭に同じことを言うのでは大きな違いがあります。一年に数回リアルで、またはオンラインであっても顔を見せあって評をする結社での厳しい評と、そういう関係のないネット上のみでの評とでは、受取る側の感じ方は大きく違うでしょう。

指導を受けたいならふさわしい場がある

そもそも、Aさんがもし指導を受けたいと思うのなら、Bさんという素人からでなく、カルチャー教室などでプロ歌人に依頼するでしょう。そうした場所では、仮に指導する側が厳しすぎるコメントをした場合、Aさんは運営会社に苦情を申し立てることができます。しかしアマチュアがボランティアで運営する趣味のオンライン歌会では、正式に苦情を申し立てる場所もありません。Aさんは去り際に主催者の私に辞める理由を告げましたが、主催者とはいえ私にはBさんや他のメンバーに対する強制力はありません。

「強制力」を言い換えれば「執行力」です。誰かに何かをやることを正式に依頼できるのは契約関係がある場合のみです。契約を結んで指導をするのはプロですから、プロがお金をもらって指導をする場合を除き、言葉によって傷ついたことを正式に申し立て、改善につなげる執行をすることは難しいのです。

言葉を変えれば、評によるハラスメントをきちんとコントロールするには、契約関係が必要だということです。カルチャー教室であれば運営会社にそのコントロールの役割が期待できます。

結社にはそうした契約関係はありませんが、リアルで顔を合わせる環境では、少なくとも周りの監視の目は効いているのではないでしょうか。コントロールとまではいかなくても一定の「けん制」は働いていると期待されます。同様に、人間関係の構築がやりやすいリアルな歌会などでも、コントロールはなくても、対面という環境が「けん制」することができます。

「うたの日」に思うこと


Aさんのことをきっかけに、私は歌会に参加するメンバーに「改作などの提案は避けて優しいコメントをお願いします。」とのメッセージを発しました。幸いにも歌会のメンバーは理解のある方たちで、以降は改作の勧めなどはなく、作品のいい点を見つけてコメントする和やかな会になりました。これは少人数のコミュニティだからこそ可能だったと考えています。

さて、この件を最近思い出したのは、多くのアマチュア歌人が参加する「うたの日」での極端な(?)評が話題になったからです。「うたの日」の評は、ほとんどが好きな歌への誉め言葉である一方で、自分を一段高いところにおいて他人の歌を添削するようなもの(マウンティング?)、時には相手の物の見方にまで踏み込んだ行き過ぎと思われるコメントもあります。

私自身は「うたの日」に投稿しなくなって1年以上経ち、そうした被害には遭っていません。過去に「これは誹謗中傷では?」と思った評がありましたが、私はそういうときは徹底抗戦する人間なので、3倍くらい言い返しました。泣き寝入りはしないたちなのです。

こっけいな上から目線

しかし私のように徹底抗戦するタイプの人はむしろ少数派でしょう。「うたの日」では何と言っても点を入れてもらった方が得です。出詠自体は匿名とはいえ、長くやっていると人のくせみたいなものもわかりますし、好かれるに越したことはありません。なので大多数の人は「何言ってんの」と思う評があってもスルーするか「丁寧な評をありがとうございます」と答えて無害ないい人のふるまいをします。

そういう「場」の特性を利用して、あくまで上から目線で「評」を続ける人がいます。雨宮司という筆名の「うたの日」に長くいる「ヌシ」みたいな人です。ネット上では誰もが初対面のようなものなのに「ですます」調でなく「だよね」などのなれなれしい口調で統一。作者の作品とは関係ない単なる自分の「好き嫌い」を延々とコメント。たまに役に立つことも言うようですが、私はこの人にコメントされてありがたいと思ったことがほとんどありません。かといって腹も立ちません。会社の上司でさえ部下にですます調で指示を出すいまの世の中によくもまあここまでズレたスタイルでコメントができるなあ、と滑稽に思うだけです

雨宮氏の「評」。「うたの日」では「丁寧な評をありがとうございます、はげみになります」などと一見歓迎されているようですが、私には「暇なの?」としか思えません。
そもそも「これはこれで面白い」って何様?と思ってしまいます。

アマチュアに厳しい評は必要ない

さて、雨宮氏の評は独特なので、全く別枠として、最近のうたの日にはドキッとするほどの口調で評を書く人もいるようです。

そもそも、アマチュアの趣味でしかないネット歌会に作者の姿勢にまで切り込むような「厳しい評」が必要でしょうか。私たちアマチュア歌人は、短歌でお金を稼いでいるわけでもなく、作品で社会に影響を与えるほどの存在でもありません。そもそも短歌自体が日本でも限られた人たちのサークル活動で「うたの日」に参加する人もせいぜい数千人レベルでしょう。そこで「お前はそもそもができてないので、鍛えてやる」「短歌とは、こうあるべき」という前のめりの態度は、勘違いかつ不要であるだけでなく、時にハラスメントの危険をはらむものだと思います。

「あなたの作品が人を傷つけることがあるから」→はあ?

大物の有名歌人なら、その作品が社会に影響を与えたり、価値観を揺るがしたりすることもあるでしょう。例えば、自身の不倫を堂々と詠って出版し、相手の家族を傷つけたり、それを真似する独身女性を生んだり。しかしそうした大物に対してテーマそのものの妥当性に言及する「厳しい評」を与える人は誰もいません。ネコの首に鈴をつけに行くネズミはいない。「文芸界隈あるある」ではないでしょうか。

一方の「うたの日」で厳しい評を無名のアマチュア歌人に対してする人は、何を目的としているのでしょうか。社会に対する悪影響を除きたいなら、影響力の大きい有名プロ歌人に堂々と向かっていけばいい。それをしないで、無名の、趣味で詠んでいる人に匿名で厳しい言葉をぶつけるのは「弱いものに対して矢印を向ける」つまりハラスメントでなくて何でしょうか。

「厳しい評は必要だ。なぜならあなたの作品が人を傷つけることがあるからだ」とえっへんしているそこのあなた。そう思われるならぜひ、その心意気で、大物のプロ歌人に対して評をぶつけてください。期待していますよ。(終わり)

(追記)そういえば、2年前くらいからホストの害が広く報じられるようになっているのに「ホスト万葉集」がいまだ書店に並んでいることについて「厳しい評」「誰かを傷つけている可能性の批判」を見ることはないように思います。
テロリスト重信房子の歌集も堂々と書店に置かれており、自分の「青春」を美化しています。これこそ「人を傷つける可能性大の短歌」ではないでしょうか?
「厳しい評が必要・・・」とおっしゃる方にはそのエネルギーで、この辺も追及していただけないかなあ、と期待しています。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?