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いつか書けなくなった私宛

できれば毎日続けたいと思ってもなかなか続けられない日記。
楽しく書けないと、なんで書いてるんだって気持ちにさせられる。
そう、なんで書かなきゃいけないんだ。

ぼくは本棚にあった一冊を手に取った。
タイトルは「さみしい夜にはペンを持て」。
古賀史健さんの作品だ。

日記について書かれたこの本。
最後のページに袋とじが付いている。
「もしも書くのが止まってしまったら、これを開けるように」と書かれている。
本当にちゃんと開けていなかった。
偉い。

開封してみた。
ネタバレになるから内容は書かないけど、今こうしてまた書き始めている。

今一度、なんで日記を書いているのか考えてみよう。
そういえば「いつか子供が大きくなった時に読んでもらえたらな」と思って書いたのもあったな。
そういったテーマで書くのは面白そうだ。

解決策❶
「大きくなった時の子ども宛に書いてみる」

そうだ、この日記は、また書く手が止まった時の自分宛の内容にしよう。

他にどんな解決策があるだろう。
解決策❶は内容が濃くなりそうだから、忙しいと厳しい気がする。

あ、冒頭に書いた「なぜ日記を書かなくてはならないのか」の問いを片付けよう。
書くことはぼくにとっての遊びなんだ。
動物だって甘噛みしあって遊ぶように、遊びの理由はいたって単純、「楽しいから」である。
だから楽しめないのは、書こうと思ったテーマがよくないのかもしれない。
今、結構楽しく書けている。
楽しく書けるテーマを模索しよう。

解決策❷
「楽しく書けるテーマにする」

書いててつまらないとなって、楽しいテーマも思い浮かばなかったらどうしよう。
そうだ、撮影した写真について書こう。
ぼくは3ヶ月ぐらい前に、ポケットサイズのコンパクトデジタルカメラを手に入れた。
目に留まったものをパシャパシャ撮っている。
最近は太陽と時間を少し意識して撮っている。
ジャンルにこだわりはない。
あるとすれば、「目に留まったもの」だ。
それをベースに書こう。

解決策❸
「撮った写真を基に書いてみる」

じゃあ写真もその日撮っていなかったらどうしよう。
別にその日に撮った写真じゃなくてもいいんじゃないか。
前に撮った写真でも楽しく書けるんだったらいいじゃないか。

ただ、一つ違和感が残る。
日記というのは本来、その日に感じたことを書き記すものではないのだろうか。
たとえば長い間、過去の写真を基に書いたりしていたら、今この瞬間を感じようとしなくなってしまう。
ずっと過去の写真にすがって、今この瞬間の景色を見ようとしなくなってしまう。
今のこの瞬間の景色を見て感じる癖をつけるために、写真はとにかくたくさん撮ろう。
写真を撮ることで、意識を外に向けることができる。
写真を撮っていて、自分がいかに内向的な生物だったのかよくわかった。
ぼくは外を見ているようで、見ていなかった。
頭の中の狭い世界を眺める時間が長い。
カメラによって気付かされた。

解決策❹
「外で感じたことを書き記せるように、写真をたくさん撮っておく。」

ふと本を一冊、手に取った。
「読みたいことを、書けばいい。」
田中泰延さんの作品だ。

一つひとつの単語の定義を忘れると、自分がいま書いているものがなんなのかが分からなくなってくる。 「事象と心象が交わるところに生まれるのが随筆」という定義を見失って映画を評論すると、事象寄りに振れてしまえば映画のあらすじばかり書く状態に陥るし、心象寄りだと感想だけ書いて終わってしまう。
定義をしっかり持てば、自分がいま、なにを書いているかを忘れることはない。

田中 泰延「読みたいことを、書けばいい。人生が変わるシンプルな文章術」
ダイヤモンド社.2019年6月12日 .p63

確かにこれはそうだと思った。
ぼくが書きたいものが随筆の時は楽しくて、日記に近い時は楽しくなかったように思う。
日記を意識すると、「どこどこを歩いた、子供が笑った、太陽が沈んだ」みたいな事情寄りになり、書いていて楽しくなくなったように思う。
でも日記を意識して書く日があってもいいと思うし、もちろん随筆を意識する日があってもいい。
このウェブサイトのNoteの意味は、「覚え書き、メモ」である。
日記だって随筆だってオケラのことだってアメンボのことだって書いていいんだ。

解決策❺
「書きたい内容が随筆なのか日記なのか何なのかを意識して書く。」

こんなところかな。

最後に最近千葉に出かけたので、その時の写真で締めくくりたい。

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