見出し画像

「なぜ 恋をして来なかったんだろう?」MV 極私的簡素レビュー


私は、神を見つけた。

新興アイドル勢力(という煽り文句ははいささか彼女らの歴史を軽視しているように思われるだろうが、あえてその間隙を分断と認識してそのように呼ぶ)櫻坂46の新曲MVの中に、私は神を確信したのだ。
もちろん、それは勘違いだったのだが、しかしそれでいて、現代において神の実在を信じるよりも、恐ろしく狂信的な試みを、彼女らのMVに見だしてしまった。

<なぜ 恋をして来なかったんだろう?>

MVは福音の鐘から始まる。

その舞台は、廃工場のようでもあり、教会の一部のようでもある。

天から光の降り注ぐその場所は、しかし、そのどちらでもなさそうに思える。

想像力の地平に「なにもの」をも見せ、どれでもないと感じさせる。

現世に存在し得ない空間の中に、現世で現れ得ない存在(藤吉夏鈴)が膝を丸めている。

その姿は例えば、信じることでしか現前に存在し得ない「神の輪郭」に触れたと錯覚させるほどのものだった。

上部から覗き込むアングルで映される螺旋階段は、天国への経路の明示のように映る。

天から吊るされた透明な糸は、光を浴びて白くも見える。それは彼女(藤吉夏鈴)にまとわりつくことのない位置にあって、色づき、何らかにまとわりつくこと、「紐帯」の実現を待っている。

眠りから起きるような、もしくは祈りから目覚めるようなスタートは神性を意識させる。

これは、つまり死と再生の、ある種普遍的な営みの中心にステージを設定することで、俗世における時間的・空間的な意味合いを排除するための演出に見える。

黒のミッドリフジャケットと襟の詰まったフォーマル気味でありながらも袖口がダイナミックに開かれたフレアワンピースとを掛け合わせたその衣装は、神官のようでもあり、どこか遠い地域の礼服のようでもある。しかしどうやら、そのどちらでもなさそうなのだ。

「重層的な構造の持つ意味」を纏うことで、それら単独での意味を弾き出すあり方は、しかしパラドキシカルに、つまり、重なり合っている一つ一つの意味を弾き出すことで、重なり合って生まれた意味さえを拒否しているように感じられる。

舞い散る桜は、それが日本で行われていることをかろうじて想起させる。

しかし、それは日本に育った私の独善的な解釈、早まった一般化に過ぎないのではないかとさえ感じてしまう。

建物の中に降り注ぐそれは、不自然な量であり、またMV内でその桜を振りまいているのは彼女ら自身でもあるのだ。

つまり、桜は人工的に合成された福音の演出の一部に過ぎないのかもしれない。

この場面でも、時代性や国籍性は排除される方向が維持されている。

「幸せは敵作らない」

彼女の無邪気な告白は、しかし、前後のコンテクストを加味すれば、文字通りに受け取ることがミスリードを呼び込む道に通じると理解できよう。

幸せでいることは、敵からの攻撃を受けない手段として通用するというのではなく、むしろ敵からの攻撃を無効化するほどの力の源泉であることを、彼女は破顔一笑、歌い上げているのだ。

MVが纏う無国籍性、あるいは無所属性は、一種の普遍性を意識させる。

つまり、恋愛の普遍性である。時間的、空間的に、歴史や国家などという矮小な枠組みを超えた営みがそこに現れる。

恋愛なるものを信じることは、神を信じることに近しい。それは不可避的な相似だ。

色も形も匂いも、手触りでさえもないものを、しかし、内心に従って信じるという点において。

神性的なモティーフと恋愛的なモティーフが重なる。

ここでアイドルたちの役割が明確になる。

彼女らは、神や天国への案内役ではなく、恋愛における当事者であることが。

恋愛を楽しいと感じ出した彼女は、周りのメンバーの持つ白い糸をかい潜る。

「幸せは自慢したいもの」

しかし、次第に自分(藤吉夏鈴)を中心として同心円状に並び始めたメンバーの持つ糸がその体に巻きつくことを阻止できなくなる。円形のモティーフは、シーンを超えて踏襲される。螺旋階段という外殻、アーキテクチャから人間の有機的な動きを経て、その固定的な(彼女を中心とした)フラクタル構造は連用され続ける。

構造を確認すると、彼女に当たるスポットライトが一つ目の円を描き、中心からその外側まで散りばめられた桜が第二の円である。そして、メンバーらが第三の円を形作っている

例えばそれは、社会的な立ち位置やそれに伴う紐帯、連帯意識のメタファーであり、友情関係のメタファーでもあるだろう。

恋愛への思い入れが強くなるに従って、自分を取り巻く多重の円、つまり人間的関係性がそれに干渉する現実を確認してしまう。

彼女はそれら「有用だが、気怠いものたち」の幾何学的な結びつきを笑顔ではねのける。

一つの邪心もなく、恋愛にひた走る彼女に明滅するスポットライトが当たり、彼女だけに明るさが保たれる時、その下には、福音のメタファーたる桜の花びらが敷き詰められている。

ここで、人間的紐帯を表す円形を形作っているそれぞれの素材が意味を持つというマルチレイヤードな構造も明らかにしよう。

スポットライトは自意識(自我の視線)、敷き詰められた桜は、社会的評価(他者からの視線)を示す。そして、メンバーはアーキタイプ、つまり人間そのものを表している。

自意識からの視点であっても社会的な評価からの視点であっても、その他のどのような人間的な、つまり遍く価値(有用性)の視点に立っても、すべて1対1の特殊な人間関係、恋愛の前には無用だと投げ捨てる。

彼女は、「有用な関係性」の誘惑に勝利したのだ。

機能や効用上の理由を捨てて、つまり自分が不利になる条件を呑んででも、恋愛に「ある種の投身」を図る姿がそこでは顕示される。

周りのメンバーは床に伏せている。彼女はその周りをまるで喜びを分かち合うかのように、もしくは喜びそのもののありかを啓蒙するかのように、メンバーの周りを走り回る。

しかし、彼女に、スポットライトは当たらない。かといって、床に伏せていたメンバーにもスポットライトは当たらない。彼女が再び円の中心に戻ると、全てのメンバーに光が当たる。

「幸せは参加すること」

彼女は円の中心から抜け出て、センター位置に立つ。

メンバーのフォーメーションが入れ替わる。その手に「人を縛るつまらない糸」はない。

全ての円は消え去り、フォーメーション後部に組まれたセットの柱とそれぞれの間から漏れ出る光でさえ、その形を許さない。カメラ位置に向かって、線形に伸びる光の他に明示的な図形はない。

円形の結びつきは、3人以上(恋愛関係でない儀礼的な要素を多分に含む)の複数関係における複雑かつ曲線的な結びつきを示していたのだ。

2人で手を繋ぐ限り、換言するなら右手と左手を恋人同士として(その他の人間関係を差し置いて)街角やデートスポットで繋ぐ場合においてのみ、他のどの人数の組み合わせより、その形は円形から限りなく遠ざかり、線形に卑近する。

その形は、一種暴力的なほど、明朗で直線的なものに収斂していくのだ。

全てのメンバーは、それぞれの紐帯から抜け出して、自由な意思を獲得する。

円形に並んでいたメンバーはカメラ位置に正対する。

それはつまり、恋愛への参加を意味する。

ある面での恋愛の機能、つまり人を「盲目的なバカップル」に否応なしに誘う機能を有用性のなさから拒否していた彼女は、しかし、そのマイナスの有用性とでも言うべき機能をも肯定する。

「恋をすることは盛りのついたネコのような行為に過ぎない。それで周りの見えないバカになるのは嫌だ」とシニカルな視点で恋愛を捉えていた彼女は、恋を経て、確信を得るのだ。

「愛し合うことは無になることである」と。

昨日までの「自分」なるものを殺めて、その中に身を沈めることでしか、浮かんでこない「本当の自分」の存在に気づくのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?