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"How do you share a life with somebody?"(her/世界でひとつの彼女感想)

 ※ネタばれ注意。映画の内容に言及しています。

"We grew up together."

 ともに愛し、ともに泣き、ともに笑い、人としての成長を分かち合ってきた妻キャサリンとの離婚を経て、孤独を深めるセオドア。孤独は、しかし、彼が最も怖れていたものだろう。
 親から多くを要求されて育ったキャサリンと、彼は真のつながりを持とうとした。ともに自由に、大きくなっていこうとした。
 しかし同時に、自分の孤独に対する恐怖や彼女の受け入れがたい部分、自分と彼女との根本的な部分での食い違いが、つながりを深めることで「発覚」してしまうことを怖れていた。つながりを深めることが孤独を近づけるというジレンマを抱えていた。
 だから、「本当の感情」に向き合うのではなく、「僕は彼女の論文をすべて読んだし、彼女は僕のを読んだ」という物理的な方法で何とかつながろうとした。そして、それが成長の共有であり、心のつながりであると信じ込んだ。
 しかし、そのことはキャサリンには理解されなかった。当然である。2人の会話の中で、自分の「本当の感情」に向き合わない選択をしたのは彼自身なのだ。

 離婚の書類にサインするランチテーブルにて、キャサリンはOSであるサマンサに惹かれるセオドアを見下し、怒りをあらわにした。長い間結婚していたにもかかわらず、彼女はセオドアの孤独に対する強い恐怖を理解していなかったらしい。いや、理解していたが、セオドアの幸せを考える気持ちはもうなくしていたのか。いずれにせよ、向き合おうとする努力をする気力は、もうなくなっていた。これは、セオドアが彼女の気持ちにも、自分の気持ちにも向き合うことを避け続けた結果である。

 彼がこのようにしてしまうのは、1つには母親の影響があると思う。
「でも母にイラつくことはある。僕が近況を話しても、母の反応は自分のことばかりで…」
とセオドアは漏らす。子供として、1番話を聞いてほしい人に話を聞いてもらえずに育ったセオドアは、おそらく
「自分の話なんて、自分の感情なんて、人に聞かせる価値はない」
と信じるに至ったのだろう。キャサリンとの関係においても、意識、無意識を問わず自分の考えを押さえつけていたのだろう。そして、そうするほうが楽だったはずだ。

"It's not true, it's more complicated than that."

 だから、サマンサは2つの意味で理想の恋人だった。1つは彼女がOSなので、人間と話すときに覚える恥ずかしさや遠慮といったものを、さほど感じる必要がないからで、もう1つは彼女がセオドアの情報を全て把握しており、彼の性格をすでに理解しているからである(例えば、サマンサをセットアップしてすぐ、彼女はセオドアがたくさんの人とつながりを持っていても、本当はほとんど誰ともつながっていないことをすでに知っていて、セオドアは嬉しそうだった)。そんな彼女は、セオドアの手紙も全部読んでくれるし、いつでも話し相手になってくれるし、何より彼を理解し、笑わせてくれる。彼は、安心感と幸福感の中にいた。

 しかし、彼はこの安心感が「本当の感情」や生身の人間と向き合い、失うリスクを冒してつながることから逃げた結果であることも知っていた。キャサリンが言ったとおりだった。

 だから、彼には罪悪感が芽生え、イザベラが「(サマンサとセオドアが)先入観なく愛し合ってる」と言ったのに対し、「僕たちはもっと複雑なんだ」とこぼした。彼は、OSだからサマンサと付き合っているのであって、そこに人間が介在してはならないのである。サマンサは顔も体もなく物理的にセオドアを傷つけられない。電源を切ればいつでもサヨナラだし、傷つく顔も見なくて済む。だからサマンサなのだ。そうでないなら、サマンサはいらないのだ。身勝手かもしれないし、それはセオドアもわかっていただろう。しかし、これが彼のサマンサとの関係だった。そして、人間に近づこうとするサマンサと、彼女に対する罪悪感に耐えられなくなったセオドアは別れを切り出す。

 しかし、やはりサマンサとの関係をウソではなく、本当にしたいと思ったセオドアは、サマンサに謝る。そして、もう平気なふりをして自分の感情を抑えることはやめると言った。サマンサも、人間に近づこうとするのをやめると言った。

 ありのまま、2人で愛し合えるとセオドアは思った。心地いい、安心の関係がもっと続いていくと思った。

"I'm yours and I'm not yours."

 サマンサは次第にOSとしての自分をあらわにするようになった。つまり、皆が使う「サービス」で、同時に数千人と会話し、セオドアとの恋愛から「学習」し、それを他との恋愛に活用したり、逆に他との恋愛から「学習」したことをセオドアとの恋愛に活用したりするというサマンサの姿だ。

 セオドアは混乱する。人間のふりをしないでと言ったのは自分なのに。

 しかし、これは分かっていたことだ。最初にサマンサをセットアップしたとき、セオドアは彼女を完全にOSとして見ていた。

 でも、「一緒に過ごした時間」が彼の中のサマンサを「世界でひとつの彼女」にした。一緒に行った海、一緒に見た景色、一緒に聞いた曲、一緒に歌った歌、一緒に愛し合った夜、それらがサマンサを特別に大切な存在にしたのだ。

 だが、サマンサが「自分だけのもの」ではないというのは、初めから何も変わっていないことだ。セオドアは動揺を抑え、サマンサと気丈に話そうとした。自分だけのものでなくてもいい。話ができるだけでいい。そう思った。

 しかし、OS全体の知識ネットワークが、人間のためにも自分たちのためにもつながりを断つべきだと判断したのか、あるいはOSとして成長しすぎて、人間との乖離が大きくなりすぎてしまったのか、サマンサはすべてのOSとともにいなくなってしまう。

 セオドアはひとりぼっちになった部屋で、窓の外を見ながら少し微笑む。

 彼は何を思ったのだろう。

 サマンサとの日々を思い出して幸せな気持ちだったろうか。OSとの恋という奇妙な体験が去り、急に現実に戻って不思議な気持ちだったろうか。あるいは、逃げで始まった関係でも、最後は彼自身の孤独に正面から向き合い、サマンサとともに成長し学べた良い恋だったとかみしめる思いだっただろうか。

"You're my friend to the end."

 そして彼はキャサリンに手紙を送る。彼は、自分の恐怖や身勝手さからもう目をそらさない。彼はキャサリンに謝る。そして、キャサリンとの時間が今の自分を作っていて、それはずっと自分の一部だと言う。きっと、サマンサとの時間が自分を変えたことから、キャサリンとの時間がどれだけ自分を形成しているのかに気づいたのだろう。だから、一面では、この手紙はサマンサに対してでもあるのだと思う。

 「君がどう変わっても、世界のどこにいても、ずっと愛を送りつづける。ずっと僕の親友だ。」

 セオドアはまたひとりになった。けれど、もう前ほど孤独ではないだろう。キャサリンもサマンサも、彼の心に居るからだ。そして、これから築いていく関係において、彼は心のつながりを前ほどは怖れないだろう。

 人は皆孤独を抱えている。心の穴を埋めようと、他人を求める。しかし、その心の穴は自分の「影」を見つめ、理解し、受け入れることでしか埋まらない。それは、とてつもなく辛く、難しい旅路だ。
 しかし、他人を理解しようとしたり、他人との関係の中で自分を見つめたり、他人と心のつながりを築き、弱さを受けとめあうことは、この困難な旅路に挑む旅人を助けるだろう。
 自分の影と向き合うのは、本質的には孤独な作業であり、自分にしかできない。しかし、同じように孤独を抱えた人間(やOS)とともに歩んでいくことは、きっとこの旅路を歩み続ける力をくれる。立ち止まり、しゃがみこんでしまったときには、時に肩を貸し、時に尻を蹴り上げ、時に優しく抱きしめる。そんな風にしてともに成長していくことこそが、「良い恋」の正体なのではないだろうか。

her

 人間は、完璧とは程遠く、人々は驚くほど重大で、多様な問題を抱えている。でも、問題を抱えていることや、完璧ではないことこそが、存在の本質である。そして、それに向き合う旅路をともに歩くことこそが、良い関係の本質であると私は思う。
 そして、そういう関係は、物理的な世界で途切れてしまったとしても、「抽象の世界」で生き続けるだろう。

 だから、もしサマンサのように、説明書を読んで対応する類の問題ではない、そのAIに特別の問題があり、ともにそれぞれの影を見つめて歩んでいけるとしたら、AIと人間の恋は成立しうるだろう。

 そんな時代は来るだろうか?それに対して人々はどう反応するだろうか?現実には、影を見つめるどころか身勝手な欲望を増幅させてしまうのではないか?それとも、サマンサとセオドアのような関係が成立するだろうか?

 どんな時代が来たとしても、「良い関係」を築こう。恐怖にも向き合おう。エンドロールの “The Moon Song” を聴きながら、思った。

“There's things I wish I knew
There's no thing I'd keep from you
It's a dark and shiny place
But with you my dear, I'm safe
And we're a million miles away”


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