街中の農地はもう守れないのだろうか

仕事の都合でつい先日実家のある小山市に帰省した。
実家の前まで来て僕は愕然とした。
家の前に広がっていた田んぼに重機が入っていたのである。

家族に聞くと、近くに新しくできた施設の駐車場になるとのこと。田んぼだった場所の全てが駐車場になるわけでは無いようだが、残された小さなスペースが田んぼになることは恐らくもう無いだろう。

何とも言いようの無い、やるせない気持ちになった。
僕の実家が稲作をやめてから、近くの田んぼはここだけになっていた。幼い頃から田んぼを眺めるのが好きだった僕は、ここを心のオアシスにしていると言っても過言では無かった。

田んぼには生き物たちの世界が広がっている。ミジンコ、ホウネンエビ、ヒル、おたまじゃくし、ミズムシ、ゲンゴロウ……ここでしか会えないたくさんの生き物が生息している。幼い僕は目をキラキラさせながらそれらを観察していた。

だがそれが全て無機質なアスファルトの地面に押し固められる。一度潰された田畑が元の姿に戻ることはまず無い。この風景はもう思い出の中だけの存在となってしまう。

無論、これらは土地の所有者である農家の方の意志で行われていることである。決して市街化の波が理不尽に土地開発をしたわけでは無い。
農家の方に農地を守る意志さえあれば、そんなにすぐに農地が開発されることはない。

翻って言えば、農地が開発されてしまうのは農家にとって、そこで営農をするより土地を手放したり、貸したりしてしまったほうがプラスになるからだ。

なぜそうなってしまうのか。
今回のケースについて考えてみたい。
(※無論個々の家の事情は分からないのであくまで推測であるが予想される原因をいくつかあげる。)

まず第一に僕の実家は市街化区域にある。これが最大の理由だろう。
市街化区域では農地だとしても固定資産税は高い。今も小山市は市街化区域を中心に新興住宅街が増えている。いわば、「農業をやるより住宅地にして。」と自治体に言われている場所だ。

第二の理由はコメの価格低下だ。
現在コメの値段は60キロ10000円〜が相場だ。全盛期の半分以下である。コメは日本では数少ないほぼ自給できている食料だ。近年は日本人の食生活の変化もあり、コメの消費量も下がっている。こういった状況からコメの需要が急増し、価格が上がることは当面見込めない。

第三の理由はこちらの家には若い後継者もいないことだ。そもそも営農自体続ける気力自体が無くなりかけていたのかもしれない。

ざっと考えただけでもこれだけの理由が出る。
こんな税金の高い場所で、利益の少ない稲作を続けるくらいならば、不労所得が得られる駐車場のほうがずっとラクだろう。 
同じような理由で農地を手放した農家がどれくらいいるだろうか。

都市計画、米の価格下落、市街化、農家の高齢化……。
様々な理由が重なって、1つ、また1つと農地が消えていく。自分の小学生時代の通学路を歩いてみると、当時のまま農地のほうが少なくなってしまった。これはいささか極端な開発な気もする。

僕は自分の生まれ育った地域が、多くの生き物の生きる緑の豊かな景色から、コンクリートで覆われた灰色の景色になっていってしまうことがどうしようもなく悲しい。恐らく故郷そのものを失っているような気持ちなのだと思う。これは感情論でしかないが、馴染み深い景色が消えていく時の寂しさというものはできればあまり体験したくない。

一方で、市街化の人と農地の距離がどんどん広がって行くということはあまり良くないことだとも思う。
作物がどのようにして作られて、自分たちの食卓へ並ぶのか。人間が自然とどうやって向き合って来たか。それらを知るうえで農地は欠かせない存在だと考えているのだがどうだろうか。
このままでは畑や水田の持つ役割や存在意義を知らない人が増え、農業を軽視する風潮が強まってしまうかもしれない。

小山市の人口は減少期に入った。
現在の少子高齢化社会ではしばらくの間人口増加は期待できない。
それなのにこれ以上の開発は必要なのだろうか。市が掲げる「田園環境都市」と言うのは口先だけなのだろうか。
もっと人と自然がバランスよく存在する都市計画はできないことなのか。


昨晩から街中の農地を守るために僕ができることは何か無いかずっと考えている。


モヤモヤを一気に書いてみたので文章が乱れているかもしれない。だが自分の率直な気持ちがまとめられた気もする。


もっと色んな勉強をする必要もありそう。
さてどうしようか。

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