【短編】夜の底には鬼が住まう

  あなたは深夜の道路を歩いている。空には雲が広がり月あかりも星の瞬きも無い。わずかに灯る街灯の光は弱弱しく、むしろ暗闇を強調させているだけだ。


 周囲を見渡してもあなた以外に歩いている人はいない。車の往来も無く、自分の足音だけが闇夜に響いては消えていく。あなたはこの空間が現実のものであるか甚だ不安になっていく。早く家に帰ろう、そう思ったあなたは足を速める。


 するとあなたは不意に後ろが気になってしまうだろう。ひたひたと湿った足音のような音が聞こえてくる。振り返ってはいけない。それは十分わかっているはずだ。気づいてしまったら恐怖は現実のものとなってしまう。だが、振り返って何もいなければ恐怖は杞憂へと姿を変えてくれる。


 こうしている間にも後ろからはひたひたという音が続いているように思える。恐怖は募る。枯葉の山に落ちた火の粉が大きな炎へ変わっていくように。自分で作り上げた闇の幻影はあなたを苦しめるだろう。きっと振り返っても何もない、気のせいだ。それを確かめるだけだ。そうあなたは考えてつい後ろを振り返ってしまった。


 振り返ったその先にあるのは見慣れたはずの道。ただその道は闇で暗く塗りつぶされ、昼間のような親しさは見せてくれない。そしてあなたは見てしまった。闇の向こうでわずかにゆれる細長い影を。その影がゆれるたび、ひた、と例の音が聞こえてくる。そう、あなたは気づいてしまった。だがこれ以上知ってはいけないということは本能が察知している。だからあなたは何もなかったかのように歩き続けた。


 あなたの家までたどり着くためには踏切を渡らなければいけない。だがどうしたことだろう。こんな真夜中に踏切はカンカンカン、というぶっきらぼうな音を立てて電車の到来を知らせている。後方からはひた、ひた、と音が近づいてくる。このままでは追い付かれてしまう。


 その時電車が勢いよく通り過ぎていった。それは真っ黒な電車だった。車体は夜の闇と溶け合い、窓の部分から光だけが流れていった。あなたは窓の中を見ようとするがそこは黄色いばかりであとは何も見えない。最後の車両に灰色の顔をした女性が座っていたような気がしたが、それも恐怖の幻影だったのかもしれない。


 電車が通り過ぎあなたは急ぎ踏切を渡る。家まではもう少し。あなたはどこまでも暗い道を歩き続けた。辺りの家々の明かりは全て消えている。時折どこからか猫の鳴き声らしきものが聞こえてくるが姿は見えない。甲高い鳥の鳴き声、木々のざわめき、女性の悲鳴、風鈴の音、笑い声、金属の軋む音。静寂は一つ一つの音を際立たせる。あなたの耳に遠慮なくそれは入り込んでくる。


 あなたはようやく家の前まで帰ってきた。扉にはおかしな虫が張り付いていたがそのまま部屋に入った。あなたは部屋で外の音に耳を澄ました。何も聞こえない。何かを期待していたわけではないが、何も聞こえないはずがないと思いさらに耳を澄ませた。しかし何も聞こえなかった。あなたは思うだろう。「向こう」もこちらに対して耳を澄ましているんじゃないか、と。だからもうあなたは眠るしかない。


 あなたは布団に入り、目をつむった。こんな夜にあなたは外を歩くべきではなかった。しかし安心してほしい。明日になればまたいつも通りの一日が始まる。あなたは何の不安もなく日々を過ごせる。そして心してほしい。昼があなたの時間であるように、夜はあなたの時間ではない。だから油断してはならない。あなたはあの暗闇の中に何があるのか知らないのだから。


 夜の底には鬼が住まうのだから。 



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