古今叙事大和本紀 序章 静かな海からの旅立ち 6
明朝、岳は山野村へと走った。
この戦に参入する訳ではなく止める為に、天鈿女より賜った巻物を手に、岳は無我夢中で半刻山を駆け降り、山野村の長の家へと辿りついた。
岳が傍若無人に扉を叩くと、眠気眼ながら長が出てきた。
「こんな明朝にどうしたというのじゃ…?」
どうやら岳の姿がまだ分かっていないらしく、まるで狸のような顔をして佇む姿を一喝するように叫んだ。
「長っっっ!!!岳津彦でござる!!」
その言葉に重い目をようやく覚ましたようで、みるみる内に光に満ちた表情へと変わっていった。
「おおおっ、岳津彦よっ!!やはり来てくれたというのかっっっ!!これで我が村の勝利が確定したようなものじゃっ!!」
岳は思った。多分一夜寝ずに村の未来を憂いていたのだろう。岳の到着をここまで歓喜しているという事は、というよりも、普段誰よりも早く起床するはずの長がそのような姿を安易に見せるとは思えない。
こんな事を言ってしまうのはどうかとは思うのだが、この男は村の長に抜擢されるほどの者ではない。何故そう思うかというと、余りにも心が繊細すぎるのだ。
そんな長に、この有事に対しての断りをこれから入れなければならない訳なのだが、結局はこの有事を穏便に解決させる為にこの場所へとやってきたのだと岳は自分自身を奮い立たせた。
もはや躊躇している場合ではない。事態は次第と深刻化しているのだ。
岳は目を瞑らせて、静かに首を横に振った。
「否、長よ…。私は戦の参加を表明する為にこの地へと参った訳ではないのだ…。」
口元をピクリと動かせたのを見た瞬間、長の表情はまるで闇に独り取り残された子供のように、悲しみというよりも不安感を募らせた雰囲気を身体に包ませていった。
そして、まるで明日が見えないような曇った瞳で岳を見つめながら呟いた。
「その気がないのならば、何故この村へと訪れたのじゃ…?」
そのような言葉が返ってくるのは分かっていた。あの時、切実に事の謀策を説明してくれたアメちゃんさんの言葉をなぞるように、頭の中で思い返した。
「この戦の終結を図る物を持って参ったのじゃ。」
「この戦を…終結させるじゃと…?岳よ、遂にとち狂うたのか?どうにかなるのならば、とうに儂らの手で何とかできているのじゃ…。汝に何ができようぞ?」
蔑むような瞳の裏側に絶望の暗い光が見えた。こちらを眺める冷たそうな、眠たそうな視線が岳に纏わりついた。
それを懸命に払いのけて、大きく息を吸っては吐くを繰り返して自分の心を誤魔化した。人の心に触れてしまうと、遂、身体が寒くなってしまうものなのである。
兎にも角にもこの右手に持っている天鈿女より賜った巻物の内容を長に拝見して貰わなくてはいけない。岳は無表情のまま、何も言わず巻物を差し出した。
すると、身体全身で心に憑依させている気持ちを表現、というよりも意味の分からない体勢をとり始め、それは武術の構えのようなものなのか、はたまた舞のようなものなのか…。まあ、岳には理解できないのだが、とりあえず気持ちを混沌とさせている事だけは間違いないのだろう。
しばらくはそのまま、そして無言のまま刻が流れていき、はっきり申し上げるとなんだか長が居た堪れなくなってきた。
「なんじゃこれは?もうよい岳、儂はもう汝の顔など見たくはない。はよ去ね。」
不意打ちのような長の声が聞こえてきた。
アメちゃんさんの謀策の内容によると、長がこのような言葉を吐く所まで辿り着けば、見事こちらの罠に掛かったようなものらしい。
これから岳がしなければならない事というと、とりあえず、アメちゃんさんから与えられた台詞というか言葉というか…、なるだけ冷たい視線を浮かべて吐き捨てるように言うのがいいとの事らしく、手取り足取り、たまに腰も取られたような気がするが、あの時にご教授賜ったのだから、うまく演じなければならないと岳は思った。
意を決して、岳はなるだけ大げさに表現した。
「長よ、ある女神からの神託を賜ってきたのじゃ。必要なきならそれもまたよし。好きになされよ…。」
岳の意味深な言葉に訝しげな表情を更に深ませて、何故か鶴の舞のような構えに変えた。この身体全体で表現している構えは、長の心情描写を映し出しているのだろうか…?多分、心を混沌とさせている刻にだけ出してしまう癖のようなものだろうと岳は思った。
付き合いが長い岳でもこんな態度など見た事がなく、もしかしたら一人きりでこんな調子でやっていたのだろうと思うと、何故だか思わず涙が零れそうになった。
いかん、泣いている場合ではない。
そんな感情など露知らず、体勢を変える事なく長の深く沈んだ声が聞こえた。
「ほう…女神じゃと?面妖な…。神体なぞ民の前にそうそう現さぬものぞ?岳よ、物の怪か夜魔の類に唆されているのじゃ。汝も早々とヤキが回ったものぞっ!!!たまらんのぅ、岳よっ!!!はーっはっはっはっ!!!!」
高らかな笑い声が空の彼方へと消えていった。
長の心の中で期待と不安が激しく交錯し、少し頭にきてしまったのだと岳は思った。しかし、それも想定内…。アメちゃんさんの謀策は中盤に差し掛かっていた。
次にやらなければならない事は、体勢を崩す事無く右手を差し出したまま、我が声を鋭く光る刃に変え、一刀両断しなければならないという描写であった。
静かに目を瞑り、自分の中に拡散している闘気を集中させた。
怒りとはまた違う複雑な感情であり、当時齢十四である岳には実に難しくあったが、アメちゃんさん直接の演技指導により、何となくだが理解できたような気がした。
その赤く燃える闘気達が自分の中心へとだんだんと集中してくる感覚に岳は身を震わした。しかし、ここで気を緩めれば元も子もない。『やるしかないんだ。』自らを叱咤させて意識を集中させた。
ある程度分散していた闘気が集まると、それは大きく燃え盛る炎のような形となり、猛々しく、雄々しく、何故か神々しい感覚に、自らが驚愕してしまうのであった。
最後に仕上げがある。この炎を硬い礫のような光と変え、そして長に投げつけなければならないのだ。
アメちゃんさん曰く、
『お芝居の台詞ってね、貴方達の刃の一閃みたいなものなの。人の心に刻まなきゃならないんだからっ!!お芝居って難しいものなのっ!!』
と、分かるような、分からないような事を言っていたのを思い出していると、嘗て感じた事のないくらい…、否、ここは敢えて表現しておこう。まるで母の如き安穏で静寂な海と、父の如き深く、どこまでも深い闇の優しさと、いつまでも凛とさせて佇む気高き大木が群れを成している森が、この心に今宿っておられる。
五感全てが嘗て感じた事のないほど超越していて、その闘気の炎は一瞬にして小さく纏まっていき、そして白い光の礫となった。
後はそれを長へと全力投球するだけ…。白い礫を手に取り、天へと翳した。次の瞬間、岳の頭へと落雷のような衝撃が走り、瞳を思いっきり見開かせた。そして…。
「村の長である汝がこんな事で心弄ばせているなど言語道断っ!!村の民は皆、恐怖に身を震わせているではないかっ!!今こそ我が声を聞き、そしてこれを拝読せよっ!ならば路は開かれるであろうっ。さあ、早くっ!!!」
長の身体へ押し付けるように巻物を差し出すと、致し方なさそうに渋々と受け取った。
しかし、それを開き見る事に対して何故か躊躇しているらしく、その姿こそ親に叱られた子供を彷彿させた。痺れを切らした岳はもう一度、鋭く礫を投げた。
「長っっ!!いい加減召されよっっっ!!!」
その雷のような声に、長は驚いたかのように肩を一瞬だけ上げると、眉を下げ、ガラス細工のような瞳で岳の方に視線を寄せた。
それはまるで雨に濡れた子犬のような姿で、長である品格の欠片も感じられない。あの猛々しかった時代の山爺の姿はもう二度と戻らないのだと岳は確信し、時の流れの無常さを垣間見た。
遂に巻物が解き放たれ、長はそれの内容を音読し始めたのだが、その内容は潔く思えるほど短かった。アメちゃんさんらしいと言えば、それはそれでそうなってくるのだが…(笑)
『アンタ達、いい加減にしなさいよ。水源なんて限られてるんだから、水路でも引いて仲良くしなさいよっ!!ほんと馬鹿なの?これ以上続けると、御上様達にチクっちゃうんだからっ!私、もうしーらないっ、ふんっ!! 財団法神 天孫、五課係長、天鈿女』
音読された内容はこのような文面であるらしいのだが、岳には何のことやらさっぱり分からなかった。
アンタ達っていうのは多分長同士の事を指しているのだろうが、『いい加減?馬鹿?ちくっちゃう?財団法人?天孫?五課?係長?』言語が達観し過ぎていて、やはり理解できないでいるのだが、どうやら長は内容を理解している様子であった。
その言葉がかなり影響力を及ぼしたらしく、長は仁王立ちになり、天を仰ぎながら声を荒げて漢泣きに泣き始めた。
一体何事が起ったのだとしばらく長や周りの雰囲気を窘めていたが、泣き腫らす長の声が上がる一方で、他に何も起きる事はなかった。
その有様というかなんというか…。泣き腫らしている老いた漢の姿をしばらく眺めていると、何かが喉に詰まったらしく、次の瞬間、ゲホゲホと咳き込みながらその場でのたうち回り始めた。
そんな姿を呆然と見つめ尽くしていると、ふと、とある言葉が頭に過った。『中身は子供、姿はおっさん』と、そんな言葉があったようななかったような…。まあ、良しとしようではないか。
ようやく落ち着きを取り戻し始めた様子の長に、岳はとりあえずの言葉を掛けた。
「長よ、事はないのか…?」
どう見ても事はあるのだが、敢えての言葉である。ふと、長の表情を見た岳は思わず驚愕した。
長の瞳の中の光が、まるで川利村の軍と共に山賊や海賊を成敗していた時の頃と同じくらいの輝きを放たせていたのだ。
「お…、や、山爺…?」
凛と背を正させながら、岳の方を見るとはち切れるほどの雄々しい笑顔を浮かべた。
「この神託、我が身がしかと受け止めた。岳よ、足労かけたな。戦は確実に止められると確信したっ!汝、暫し待たれいっっ!!!。」
長はそう言葉を発すると、既に岳の事など気にも留めない様子でどこかへと走り去っていき、岳ははたまた呆然と立ち尽くすしかできなかった。
その場へと季節外れの北風が吹きぬけていき、海の方角へと視線を向けた。すると、我が心へ直接声が浮かんできた。
『岳、頑張ったわねっ!!グッジョブよっ!!!』
声の主はアメちゃんさんだった。
色々と問い質したい気持ちはあるものの、多分この女神に一つの事を言うと十くらいになって返ってきそうな感覚に陥った。というよりも、心身共に疲労感が憑依していて、今聞くべき事ではないと本能的に感覚していた。
しかし、少し立腹させてしまった言葉があり、これだけは聞いておかねば落ち着かないと思った。
「アメちゃんさん…。グッジョブって言葉の意味が全く理解できないっ!一体それはどこの言葉なのだというのかっっっ!!!」
アメちゃんさんの薄笑う声が聞こえてくると、ぞっと背中に悪寒が走った。
静かな海からの旅立ち 6 7に続く 次号、序章完結