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エヴァンゲリオンはロボットアニメ《ではない》

(庵野監督の)エヴァンゲリオンが完全に終焉してから、もう長い時間が経ったかのような、寂しいというよりは、遠い過去の歴史のように思える。

厳密に言えば、エヴァンゲリオンは終わっていない。エヴァンゲリオンという作品は、作品として残り続ける。しかしながら、「生命体」として実存する作品は、もう私たちの心の中に戻ってくることは無い。

エヴァは、本当に終わったのだと、そのような回想をすることで、より実感することができる。

書店を散歩していて見つけた、この本。見つけたときは、「まだエヴァは生きてた!」と思い、衝動買いした。そして、早々に読み終わった。

本著では明言されていなかったものの、言いたいことは伝わる。エヴァとは、ストーリーの直接性というよりは、その直接性によって見えずらくなっている本質を語ることで、人による主観の多様性が見えてくるものである、ということ。そして、そこにエヴァの魅力が詰まっている。

それが、「メタアニメを作る」と庵野監督が主導したわけではなく、《アニメ版エヴァ》《旧劇》《新劇》、また《実写映画》を作成する過程で、監督自体の思想が紆余曲折しながら生成されてきた軌跡自体なのであろうと思う。

庵野監督の「エヴァはロボットアニメである」という発言についても、再考する必要が出てくる。エヴァはロボット様の人造人間である。見た目は確かにロボットであるのだから、ロボットアニメのジャンルであることは間違いがない。

しかしながら、このような発言を受け、エヴァを「ロボットアニメである」と断言し始め、庵野監督に忖度するかのような態度をとる輩も少なくない。

ライブ感を重視して「エヴァ」を作製してきたことを踏まえれば、ロボットアニメかどうかという可否は、そのライブ感によって晒されてきたエヴァという作品の変遷に注目し、判断しなければならないのに。

ロボットアニメという視点に偏ることは、もはや真意を語りえない。

であるならば、このように考えればいいのではないか。

庵野監督は、あえて「ロボットアニメである」ということを断言し、(皮肉を込めた呼称として)エヴァ信者の実存に揺らぎを与えているのだ、と。それは《ロボットアニメであるとそのまま受け取る》のか、《真意を新たに見繕う》のか、という2つの間での揺らぎである。

現在においては、エヴァは「ロボットアニメではない」ことを前提として、ラディカルな人間論や宗教、哲学、生物学的側面がふんだんに示唆されながら、アニメ世界が作られているのだ、という意見が多く占めている現状があるように思える。1つ1つは間違った視点ではないかもしれないが、これら1つ1つの視点の集合体を俯瞰しても、エヴァの真意を決める議論に繋がらないことは容易に想像できるだろう。

エヴァというアニメを、一律に決めうる性質などは決して無いのだ。そして庵野監督は、「何かに固執してそれを信仰する人々を、そのまま見過ごすことはできない」と思ったからこその、あの発言なのだろうと思う。


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エヴァはロボットアニメである、と正直に受け取りさえすれば、エヴァはそこで終わる。エヴァがロボットである、という《虚構》としての実在から目を離すことが出来なくなる、ということである。それは、エヴァというアニメを、人間論や宗教、哲学、生物学を基盤としたアニメである、と受け取ることについても、同様の帰結を生成する。

私は、それではいけないのだろうと思う。ロボットに偏執する心を例にとれば、それはアニメの世界、オタクの世界、ひいては自己の内なる世界にのみに存在しているにすぎない。人型決戦ロボットは、この世に存在しない。私自身、ひいては人類は、見たことが一度もないのだ。見たことがない《虚構》を、そのまま信じ込むことは、私にはできない。

先ほども述べた通り、庵野監督自身は新劇場版を作製するにあたり、ライブ感、要するに《他者の介入》を積極的に取り入れ、参考にしていたようだ。製作に直接関係のない事務員にも、新劇場版を作製するにあたりヒントを募ったほどである。

NHKの庵野監督を特集したドキュメンタリー番組でも言及されていたように、庵野監督は《内なるエゴへのアンチテーゼ》をテーマとして、行動していたという。自己の肥大化した内部世界を壊さなければ良いものは作れない、そう思ったようだ。

内に引きこもって《ロボットアニメ》という、洗練潔白で一律的な仮想現実に心酔するのではなく、「外に出よ」という、いわばインドア派にとって耳に痛いメッセージを、ここでは感じ取る必要があるのだ。そしてここには、庵野監督自身のオタキングとしての過去の回想も含まれている。

今一度、「エヴァはロボットアニメである。」と驚くほど明晰にに発言することによって、バリエーションが肥大化した、個々の一律的な思想や解釈にメスを入れているのだと私は思う。

またそれは、内なる世界と外なる世界の逆転への疑問、そのものである。過去に外だった思想も、内なる思想に変化し、人々へ与する状況だったということへの、問題提議だ。

この提議の発端としては、昨今のロボットテクノロジーの発展により、この《ロボットの実存》に関しても内部の現実として語られる機会が多いことが挙げられる。その現状を踏まえた上で、または把握した上での「エヴァはロボットアニメである。」という言葉には、かなりの威力が備わるのだ。

要するに…
①《ロボットの実存》は現実味のある形で私たちの内部に存在する。
 ⇒「エヴァ=ロボット」という構図は結び付きやすく分かりやすくなる。
②マスメディアなどの様々なテクノロジーはより身近な内部に存在する。
 ⇒ロボットアニメ、またはそれ以外の様々な視点をエヴァの統一的価値として見る人が増える。

この、現在の私たちの内部に存在するような価値とは、過去は特別的なものであった。しかし、それは今となっては当たり前の、普遍的な価値に「成り下がっている」とも言えるのではないか。特別的な価値や視点だった①と②が、いまは私たちの内部に腑に落として理解することが出来るくらい「当たり前なもの」になってしまった。「当たり前」なことは、その中に包摂されている《大切な事柄》を見失わせる力がある。「ロボットアニメである」という言葉は、まず①について、現存する私たちの価値観に添った、肯定的な言葉に映る。一方、その肯定に意表を突かれる人も出てくる。それは、ロボットの実存が不安定であることを無意識的に理解していることによるものである。その態度によって、庵野監督の言葉には、ある種の「引き」を生み出す。その後に、②について考えてみると、各個人がエヴァに付与していた統一的価値を破壊され、外部の現実を目指さざるをえなくなる、ことになる。

①と②の、ロボットアニメかどうか、という一方的な視点は、「ロボットアニメです」という言葉によって、最大限に破壊され、再構築を迫られるということだ。再構築をするには、外部の世界、ようするに、下記に示す通り、外に存在する「現実」を直視する必要が出てくる。


プレゼンテーション1


ロボットアニメである、ということを否定してはいない。しかし、「ロボットアニメである」または「ロボットアニメではない」と、窮屈に考えてしまうことが、内なる自分へ閉じこもるトリガーとなってしまうのだったら、いっそのこと「ロボットアニメである」と全肯定することで、「え?エヴァはロボットアニメなのか?」、「今更なにを言うんだ。」、「まさにオタク。引くわ〜。」という感じで人々をはっとさせることで、各個人のエヴァという世界観の再考へとつなげてしまおうではないか、という逆説的発端による試みにすぎない。

それは、「今見るべきなのは外の世界であり、そこへ目線を配る余裕がもっとあっても良いのではないか」という素朴な問いである。

上記の画像に記載された「現在」とは、まさしく《アニメ版エヴァ》が放映された1995年時点での「現在」である。当時の人々の内部環境に影響を与えたのは、《テレビ》というテクノロジーだ。そして、今に直面している「現在の現実」の内部を占めるのは、《ネットワーク》というテクノロジーだ。過去では現実がテクノロジーを覆い隠し、また現在ではテクノロジーが現実を覆い隠している。過去には、現実が人類の面前に迫っており、その大きな現実という喜怒哀楽が、人々を束ねていた。現在、そのような現実は覆い隠されており、そして、その現実の代役をテクノロジーが担うような状況である。テクノロジーの二進法によって、さまざまな現象が変換されるということに、どこまで信頼感を持てるのだろうか。そして、このテクノロジーは、人々にとって《大きな現実という喜怒哀楽》としてシェアされているのだろうか。それに関しては、甚だ疑問である。もはや妄想病とも言える病が流行っているようにも見えないだろうか。病は治さなくては、この先、生きてはいけないだろう。

内なる世界とは《虚構》なのである。個々人が意味を付与したにすぎない《虚構》である。《虚構》を絶対視し、その《虚構》という物差しで、外の世界を判断してはならない。《虚構》を据え置き(完全に消去する必要はない。)、純粋な視座から外の世界を眺めるべきなのだ。我々は、その行為のための努力を、怠っている。

***

戦後の高度経済成長時には、復興に向けた日本の科学技術立国化を推し進めるために、テクノロジーという外の世界へ注視させることが必要だった(と思う)。戦火の被害や、世界における日本の状況、という、内部の《現実》ばかりを見て絶望するなら、テクノロジーという外部の《希望》に目をやれ、ということだ。

「宇宙戦艦ヤマト」などは、そういう役割、またはその時代の自然な帰結として、生まれたのだろう。しかし、平成が始まってからの現在は、逆に、テクノロジーばかりが目に付く。(それは日本の再興の証でもあるかもしれない。)知らぬ間に、私たちの周囲には人ではなくテクノロジーにあふれ、そのテクノロジーを利用することで人とコミュニケーションをとっている。それにより、他者という現実が外部化している、ということであろう。 

テクノロジーは自己に取り込まれ、現実世界は外部化し、それら両者の均衡がもはや保てていないということだ。

見るべきは「外の現実」だ。肥大化した内部によって、「外の現実」が不可視な状況になっているのであれば、その内部にメスを入れなければならない。


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日本列島における、「雑草魂」は、皮肉にも様々な天災によって、醸成されてきた。大きな天災によって、人々が壊され、残された人々が一致団結し、再興してきた。そのような、島に住む日本人特有とも言える《破壊し尽くされた事物を再興する力》とは、一体どこからくるものなのだろうか。それは、「天災」そのものから、である。そして、その「天災」とは、外部から突然やってくるのである。外部からやってくる「天災」が、「雑草魂」を作るのである。

外部からやってきた、「エヴァはロボットアニメです。」という言葉。
この言葉には、良い意味でも悪い意味でも、現在の人々ひいてはエヴァファンの《内部を抉り倒す力》があるように思えてならない。

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